独り言

私も逮捕されるか・・・

偽造建築事件で、不正に気づいて告発したイーホームズの藤田社長が架空増資の容疑を認めたとのこと。要するに会社設立や増資の際、他から金を借りてきて、それを資本金に繰り入れた形を取った後、すぐにその金を返済する経理操作のことだ。「見せ金」とも言う。

実は何を隠そう、私も有限会社のオーナーなのだが、設立の際は実質的にはこの手法を使ったのだ。親から借りるなどして手当てするのだ。つまりこの手法はよく使われる手法なのだ。下でも言ったが、実質大赤字のアメリカなどはまさにこの手法でやっているではないか。

今回彼が告発したから、明るみに出たのだが、しばしば告発者は自らが傷を受けるもの。雪印の牛肉の不正輸入を告発した倉庫会社の社長は今極貧の状態にある。果たしてこの容疑で彼を逮捕して、彼がそれを認めて、今回の偽造事件の本質的な解決になり得るのか。もともとは国が持っていた審査権を、いわゆる規制解放の方針にのっとって、民間に下ろす際に制度上の不備があったわけであろう。リバータリアニズムの主張する国家機能は最小にして、個人(民間)レベルですべてを処理することの無理が露呈したわけだ。

どうも今回も官僚がきわめて責任を回避する術に長けていることだけが証明されるような予感がする。それはメンドーなことに首を突っ込むことを避ける「見ざる・聞かざる・言わざる」を助長するだけとなろう。

格差社会は悪くない!

『文藝春秋』で竹中氏が「日本人よ、格差社会を恐れるな」と論じていた。私は彼の主張はけっこう理解できるのです。再建主義の富井氏も、元キャバ嬢の太田議員の負け組みゼロ社会の実現政策を、例によってこき下ろしている。しかし、実は私も彼とまったく同意見なんですね。勝ち負けがあるから社会は成立するのです。主ご自身が、持っているものはますます豊かに、持っていない者は持っている物までも取り上げられると言っておられるのですから。小学校の運動会で手をつないでゴールとか。アホか、と私も思うわけです。

富井さんはソ連の末期症状をごらんになったようで、この手の社会主義的価値観には相当のアレルギーがあるようです。が、再建主義の価値観を究極的に推し進めると、実は「社会的ダーウィニズム(適者生存)」になるわけです。進化論の根本思想ですね。これがリバータリアニズムです。(有神論の再建主義の理想社会モデルと無神論的リバータリアニズムの社会モデルが同一に成ることの指摘は救世軍山谷少佐の考察によります。詳細はこちらを)

憐れみに満ちた神は敗者復活と言うか、負け組みに対するケアを下さる方です。貧しい者、能力のない者、弱い者に対する配慮があるわけです。もちろん今増えている「働かない落伍者」は自己責任でやってもらいたいですが。で、実は、この世のほうがある意味で健全化されており、今のニッポンキリスト教界こそが、まさに富井さんの言われる偽愛に満ちた社会主義状態なんですね。自己責任で自分の救いの達成を心がけない人が多過ぎます。

だから、わたしの愛する人たち、いつも従順であったように、わたしが共にいるときだけでなく、いない今はなおさら従順でいて、恐れおののきつつ自分の救いを達成するように努めなさい

偽装建築事件

ついに別件ながら関係者が逮捕された。被害者の立場は十分理解しつつも、企業の論理の中で翻弄された姉歯氏については、なんとも一抹の哀れを感じる。仕事をなくし、妻を亡くし、家族を亡くし・・・。この世的にも罪を清算する中で、霊的にも彼が主に出会うことを祈る。

サイボーグの可能性

立花隆の『プレミアム10』。マン・コンピューター・インターフェイスによって、脳とマシンを直結することにより、機械を脳が感覚のある肢体としてコントロールできるようになるわけ。かくして人間とマシンの境界線が消失する。

すると問題となるのは「自己」とは何か。少なくとも今私がこうして文章を書いている私の手は、マシンに置き換えても、「私の手」と成り得るわけ。目も人口眼球に置き換えられる。内臓も・・・とやっていくと最後は脳が残る。これを取り替えたら私が私ではなくなる。ここで養老先生の『唯脳論』となるわけ。しかし私の大脳とまったく同じネットワークとファンクションを持つICチップができれば、私はそのチップの中に生きることができる。現に人口海馬(脳の記憶装置)チップはすでに完成されている。

が、このような見解は、脳と霊の関わりを一切考えないサイエンスの世界の話。脳は電流と化学物質によって動作するが、では自由意志も物理化学現象だろうか?実は今日の講義でココを話したのですが、私たちの意志はどこから生じるのか。もし物理化学現象であれば、偶発的な電流の発生や、分子運動論的な化学変化によることになってしまう。

すると脳が自然界を理解することは、物理化学現象が物理化学現象を理解することになるわけ。もっと言えば自然界の法則自身が、自分自身を理解することになるわけで、これは明らかにおかしい。ユング派の河合隼雄氏が、主観的世界はサイエンスでは解明できないと言っていたが、鏡がなければ自分の顔を見ることができないのと同じこと。つまり自分の脳を理解することは、自分の脳自身には不可能なのだ。

また彼は自己(意識)の本質は「インテグレーション(統合性)」にあると言っていたがこれはまったくそのとおりと。分裂病などはこれが壊れるわけ。昨日の人格障害などはこの統合のあり方が歪んでいるのだ。

かくして脳の情報信号を取り出して、それによってマシンをコントロールすることはできるであろうが、そのマシンをコントロールする意志を作り出すことはできない。意志は物理化学の世界の外に存在するから。ここで魂と大脳の関わり方のメカニズムがどうなっているのか、つまり意志を持ったときに大脳に電流情報が生じるわけで、私たちの意志は物理化学的世界と関わることができる。その接点がどうなっているのか、私はこれを知りたい。

創世記2:8において、神は体をチリから造り、霊を吹き込むこと、人は生きる魂となったとあるとおり、霊と体の接点として魂が生じたわけだが、その接点のメカニズムはいぜんとして解明されていない。物質界と霊的世界の関わりは現在のサイエンスでは取り扱われていないが、私が今もっとも関心を持っているテーマである。

何ゆえに・・・

この業界、ビョウキの人が多いのでしょうか?確かにイエスは「健康な者に医者はいらない。わたしは病気の人を召すために来た」と言われました。が、それをビョウキの正当化にしてほしくはない、と私は思うのです。

病んでいる人は適切な自我を確立していないために、自分を受け入れてもらえるかどうかがすべてなんですね。彼らは自分が受け入れられていると感じて安心している間は、おとなしいのですが、いったん自分が拒否されていると(勝手に)感じると、態度や表情が豹変するわけです。かくしてネガティヴなエネルギーを周囲に発散するわけ。

このキリスト教業界、自己愛性人格障害、境界性人格障害、妄想性人格障害、回避性人格障害あたりが相当に多い。統計的には、一般社会でも10%はあるのですが、私の印象では。ニッポンキリスト教界ではおそらく30%程度はあろう。彼らには十字架を語ってもほとんど理解されない。何しろ彼らにとっては自己がすべてであるから。

かくして目が点になるような事態がたびたび起きるし、こちらも否応なしにそれに巻き込まれるわけです。ある意味、倒錯した人たちと接するときには、こちらも傷を受けることは必定なのですね。彼らと接する際にはこちらが十字架を取って降りること。決して争ってはならない。

まことにこわい存在はニ・ン・ゲ・ン。が、打たれたイエスを思うとき、何故に神は・・・と。(・・・前にも書いたっけ・・・)

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千葉の補選で民主党の元キャバクラ嬢太田氏が当選確実。これから政治が面白くなります。

重なるときは・・・

下で長男の話をしたが、長女が今年4年で、管理栄養士の国試準備と就活に明け暮れている。今年はかなり売り手市場なのだが、学力や年収と同じく、上と下に二分化している。取れる人は内定を3,4も取るが、取れない人はゼロ。わが長女は公務員試験も目指しているのだが、もうひとつ母校の助手の採用に応募するらしい。一応学年で4番の成績なので、十分射程内にあるらしい。条件を見たが、給料もかなりイイし、勤務時間も何と8:30から4:30まで、賞与は6.5ヶ月!いまどきこんな仕事はありません。早速"Anything You Ask".道は開かれるでしょう。

Plein Soleil・・・

午前中に講義を終え、今iTuneから軽快なJazzが流れております。6F窓からは千葉の緑地帯の向こうに工業地帯が一望でき、陽の光が燦々とブラインド越しに差し込んでおります。金曜日の午後はなんとも気持ちのいい時間。頭をボーっとアイドリングして、明日は何の映画を観ようかと、ふわふわとしているわけです。Alain Delonではないが、"Plein Soleilだ・・・"

古くて新しい問題-三位一体論-

今週のメッセージではヨハネ福音書の「言」について語った。言(ロゴス)は子なる神であり、肉体を取られてイエスとして、神を証しされた。死と復活ののち、肉体(復活の霊の体)を持ちながら御座に上られたが、同時にいのちを与える霊として(閉まった部屋にも入ることができたように、物理的に時間と空間に制限されない存在)、御霊によって私たちの内に住まわれる。父・子・聖霊は互いに区別され同時に同在される3つの方であるが、本質を共有する(ホモウシア)ひとりの神である。まあ、これが普通の理解なのだ。

エホバの証人では、「イエスは神の子であって、神(エホバ)ではない」とし、イエスの神格を否定し、また「聖霊は神の力である」として、聖霊の神性と人格性を否定するわけです。アームストロングは父・子・聖霊は神の家族のメンバーであると言います。またウイットネス・リーは、「子は父であり、子は聖霊になった」とし、普通の三位一体論に挑戦する。リーはウォッチマン・ニーの後継者を自称するが、「体にはサタンが住む」など、多分に自分由来のものを混ぜている。彼が再建主義の富井氏のサイトでも取り上げられていて、富井氏はサベリウスの様態論としている。これはまったくそのとおりと思います。

で、面白いことは、再建主義によると、神の三者は「存在論的には三」、「契約論的に一」であって、「存在論的な一」ではないと主張しています(「本質において一」ではないと言うことでしょうか?)。またキリストは肉体をもって天におられるのだから、私たちの内に存在論的におられることは不可能であって、契約論的におられるだけであると。ほお、と新しい発見に感心していますが、「契約論的内住」とはどういう意味なのでしょうね?

同様に私たちもアダムの中に契約論的にいたのが、今やキリストの中に契約論的に置き換えられたとするのですね。再建主義のキーワードは「契約論的」。これは前に律法について対話したときと同じです。私的にはヘブル書にあるとおり、「アブラハムがメルキデクに十分の一を捧げたとき、十分の一を受けるべきレビも捧げたのだ。なぜなら、レビはアブラハムの腰にいたからからだ」という論証をそのまま理解しますが。レビはアブラハムの生殖細胞(DNA)を存在論的に受け継いだわけですから。私はアダムのいのちから、キリストのいのちへの転換。キーワードは「いのち論的」です。

三位一体論―これはなかなか古くて新しい問題なのです。私的には淡々と御言葉を語るのみですね。

・はじめに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。・・・言は肉となった・・・
・あなたがたは、信仰に立っているかどうか、自分自身をためし、また吟味しなさい。それとも、あなたがたのうちにはイエス・キリストがおられることを、自分で認めないのですか。――あなたがたがそれに不適格であれば別です。
・神は聖徒たちに、この奥義が異邦人の間にあってどのように栄光に富んだものであるかを、知らせたいと思われたのです。この奥義とは、あなたがたの中におられるキリスト、栄光の望みのことです。

ぼろぼろブッシュ

イラク戦争は世界の平和のためでもなく、大義のない、要するにやりたかったからやっただけ。私はずっと前に、ブッシュよ、神の裁きがあるだろう、と言ったが、真実が次々に明らかになっているだ。アメリカと言う国の本質は、WBCのアノ何とか言う審判に象徴される。(→記事

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ぼろぼろなのはわが国の民主党も同じだが、小沢氏が選ばれた。私的にはぜひ一度やらせたかった人物。顔で女性票を失って損しているが、実力はある。主張は『国家の品格』の路線。つまり武士道。人の心を改革すると言っているが、はたしてどうやって?かなり期待している。

人生の分岐点

50歳と言う年齢はある種の分岐点かも知れない。元NHKアナの池田裕子氏が乳がんで死亡。けっこう長く闘病生活を送っていたようだが、残念なこと。享年49歳。かつて私が懸念した逸見正孝氏も48歳で。このところ私の周りでも癌にかかる人が続出している。癌は初期発見できればほぼ100%治る。恐るべき病ではない。自分は大丈夫という思い込みを捨て、常に監視しているべきなのだ。常に最悪を想定していれば、後はもうけもの。私はいつもこのスタンスでいる。

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先に懸念したとおり、産婦人科医がゼロの地域が生じた。(→http://www.excite.co.jp/News/society/20060406185521/Kyodo_20060406a428010s20060406185524.html)自分の権利主張や恨み晴らしのために、医師を訴えるなどは結局は自らの首を絞める。個人情報保護法とかで、今回病院にお世話になったが、受付で「お名前をお呼びしてもいいでしょうか」と問われ、ビックリした。自己実現のために子供を生まない女性が増えているようだが、いずれ自分の首を絞める。

世の風が「自己に仕えること」に吹いているのだ。自己に仕える結果は寂しいもの。かくして自己をすべての中心に据え、当たり前が当たり前でなくなりつつある今のニッポンも、ある種の分岐点を迎えているのだ。これから100年後、いや10年後が怖い。

ちょっとハデか・・・?

春ヴァージョン化したのですが、配色が・・・。ちょっと疲れたので、また後で・・・。

座布団3枚!

キリストが水面を歩かれた奇跡は、実は氷に乗っていただけ!?(→記事

まあ、信仰がない人はこう説明するしかないのでしょうね。しかしまっとうな海洋学者が発表するこういった珍説を神はどのようにご覧になるのでしょうか?私的には「冒涜だっ!」と言うよりは、表題のように流しておきますが・・・^^。

人による裁き

今般、幼児が転んだ際割り箸をのどに刺し、それが小脳に刺さっていることを見落とした医師に対して無罪が言い渡された。また最近、産婦に対して胎盤剥離の無理なオペをしたとして産婦人科医師が逮捕された。さらに例の7人の安楽死の医師。以前にも美人女医が安楽死をさせたとして逮捕された。この方とは私も間接的な関係があるのだが、彼女の妹さん(某有名私大医学部教授夫人だった)が自殺した。

・・・というわけでこの手の事件が起きると、直ちに逮捕とか、刑事告発とか、医師も安穏としていられない風潮である。現在、小児科と産婦人科の医師がどんどん減少し、胎盤剥離のオペをした医師のいた病院は産科は休診。さらにその地域の3つの病院でも大学の医局から派遣がなくなって、たったひとつの病院だけになったようだ。小児科や産科は特に夜間の勤務がきつく、子供相手の診断や治療は難しいとのことで、志望する若手医師は減少の一途。ちなみに小児科と産科がもっとも訴えられるリスクが高いそうである。

医師も人間であるから、家族団らんを願うだろうし、休日には家庭サービスも必要。だから医師は高額な年俸なんだろうと言うのは言いがかりもいいところ。勤務医の年収は1500万前後であり決して高くはない。私の友人でも血液を専門とする医師がいたが、ある病院の勤務条件が夜間でも必要があればただちに出ることとあって、結局彼は体がもたずに辞めた。

肉親を亡くされた家族の感情的な要因は理解できるが、この手の医師のミスを刑事で取り扱うのは果たしていかがなものであろうか。胎盤剥離の医師とて、患者を実験台に使ったわけではなく、学会でも困難なオペであるとしているし、その場にいたら何かしなくくてはならないだろう。献血の用意もしていたわけだから、困難は予想していたはず。単純なミスではない。

真実が隠蔽されたりする場合は何らかの訴えも必要であろうが、単に被害感情を晴らすための訴えは決して生産的ではない。このような風潮が蔓延するにつれ、若い医師は刑事でやられたらたまらないからとますますこれらの科を避けることになろう。そしてそのツケを払うのは患者なのだ。「被害者」こそ絶対善的な最近の空気が何かおかしいと感じるのは私だけであろうか?

人の生死

ある病院の外科部長が、安楽死のために、人工呼吸器をはずして7人を死に至らしめたとして糾弾されている。記事によると(http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20060329-00000007-kyodo-soci)患者への過度な思い入れが動機を作ったようだ。

『白い巨塔』において、里見と財前という正反対の医師像が提示されているが、おそらく里見のように個々の患者に入れ込んでいたら、医者自体がもたなくなると思う。学校で言えば、金八先生。私の友人の中学教師が、金八はウソだと憤慨していた。これは精神療法などでは特に言える。

クライエントがセラピストに対して積極的感情を向けることを陽転移、その逆を陰転移と言うが、セラピスト側からクライエント側に起こす転移もあるのだ(逆転移)。そしてこれが精神療法やカウンセリングの場面において双方にとって危険性を生む。

教会でも人格障害傾向や精神病質傾向を持っている人たちから勝手なイメージを抱かれて(彼らは自分の無意識的願望をこちらに投影するわけ)、それに対する失望をちょっとでも与えると、コロッと態度が豹変することをよく経験する。私の評価などはまさに天と地なのだ。甘えの構造でベタベタのニッポンキリスト教界の住人では特に言える。

かくして私などは、とにかく、まとわりつかれないことを心がける。牧師などで消耗している人たちはみなこのメカニズムの中でがんじがらめにされているわけ。人間ほど度し難い存在はないとますます感じる次第。

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姉葉元建築士の奥さんが自殺したようだ。姉葉さんはうつ病の奥さんの介護のためにも仕事をこなすために手抜きをしたようだが、その愛情がこのような形で実を結ぶとは。前に鳥ウイルスで告発された会社社長が自殺したが、なんともやり切れない悲劇である・・・。こういった事件が起こると、マスコミをはじめすべてが彼らを極悪人のごとくに叩き、追い詰める。どうもこの国は何かを忘れていないだろうか?