独り言

オウム事件の10年

オウム事件。日本にとっての9・11。ついに、というか、ようやく麻原氏に死刑確定。しかし裁判とは不思議なもの。私たちの裁判も8年間かかったが、いったい麻原の弁護士はどのような使命感でしたのだろうか?ビジネスと割り切って?ちなみにライブドア事件と麻原事件は多分に似ていると感じているが、ホリエモンのヤメ検の代理人はビジネスのようだが。訴訟指揮においてもかなり混乱したが、明らかにある種の霊の介入がある。

上裕氏が自分は坂本弁護士とサリン事件が教団の仕業であると知っていたと告白し、当時はウソをついていたと認めているようだ。面白いのは彼の目が今と当時ではまったく違うことだ。

からだのあかりは目です。それで、もしあなたの目が健全なら、あなたの全身が明るい

とあるとおり、人と接する時、目は人を判断する大きなポイント。先に書いたネットにおける自己表現の怖いところは、相手の目が見えないこと。文章だけからするとまともに読めても、その人物が見えない。目が見えない状況はひじょうに不安を覚える。(ロリコン植草教授も理路整然としているが、目がアブナイ・・・)

心理学的には、意識的な言語のやり取りの間、無意識のうちに目によるコミュニケーション・リンクを確立し、無意識はそれで相手を判断しているのだ。だから意識の上では同意でも、感覚的には釈然としないことが起きる。BBSにカキコがあったので追加的に触れたが、この釈然としない不協和感覚を大切にすべきである。

上裕派サイトでは

人である教祖を神としたことが事件の原因となった点では、元代表に限らず、多くの信者に責任があることを深く反省し、今後は真実の道を切り開いていきたいと思います。

と声明を出している。私なども一部では「カルト教祖」にされたりもしたが(やれやれ)、人が神に奉られたら、昭和天皇ではないが、互いに不幸を招く。

果たして上裕氏らは「道」を見出すことができるのだろうか。まことの道はJESUSである。中途半端に霊的事象・世界に関わると、かえって混乱に落ちることは、聖霊派あたりのクリスチャンを見ていてもよく分かる。ちなみにまたまた本件についての山谷少佐のBlogが実に面白い。この4つの判断基準、キリスト教界でもかなり?

最も怖いもの

それは病んでいる人の心から出るもの。その真実に直面し、それをまともに受けること。実に怖い。

自分と関わりのない人であれば、当たり障りなく流せばよろしい。別に何でもない。

しかし自分に関わりがあり、自分が愛する人の真実を見ること。これはものすごく勇気が要る。

神の愛は恐れを取り除くが、人の愛は人を臆病にする。マザー・テレサが「愛は傷つく」と言われたとか。本当に人の真実をすべて受けることができる方はイエスのみなのだ。

彼の打たれた傷によってわれわれは癒された。

追記:もし十字架のイエスの口からあの言葉がなかったなら、もし罪のない方を十字架につけたその裁きを宣言されていたら、これは全宇宙を恐怖と絶望に突き落とす。

父よ、彼らを赦して下さい。自分が何をしているか分からないのです。

言霊(ミーム)の風

これは何も「人権」に限ったことではない。放送禁止用語や差別用語の問題や、いわゆる社会的タブーなどは皆同じメカニズムが働く。ニッポンキリスト教においても、いわゆる「思考停止(エポケ)」をもたらすものは皆本質的に同じこと。

例えば「イスラエル」。イスラエル・フリークはもちろんのこと、イスラエル至上主義の某福音番組などを長年視聴して(刷り込まれて)いる人たちは、「イスラエルは神が選びし民、神の瞳であって、彼らに逆らうならば呪われる」と無意識に判断している。そこでは現実世界でイスラエルがなしている行為や、それに対する自分自身の感覚や考えは拒否されている。

あるいは「リバイバル」。この単語を前面に出されてしまうと、あたかも水戸黄門の印籠のごとき力を発揮して、異議を唱えることができなくなる。すべてを正当化してしまう単語なのだ。かくしてニッポンキリスト教においては、天皇制の是非を論じる以前に、すでに自分たちが諸霊の支配下にあることを知るべきである。表看板が「基督」か「天皇」かの違いであって、彼らが服している霊は一緒なのだ。現代の使徒だ、預言者だ、油注ぎの器だと、彼らがプロモートする風(霊)に吹き回されている様は、かつての「挙国一致」、「鬼畜米英」と吹き回された時代となんら変わりがない。だから「われら天皇の臣民は、自らを否み、自らの十字架を負って・・・」とごく当たり前のようにできてしまうわけ。

戦前と前後において、入れ物(社会システム)は「現人神社会」から「民主主義社会」に変わったとは言え、人間の本質は何も変化していない。同様に基督者と非基督者においても、その支配する霊が同じ点で何も変わらない。戦中のように、共に八紘一宇の実現のために邁進する場面が再現することは、今後十分に考えられる。問題は風の吹く方向。今回の安倍さん旋風と同じ。

さあて、今後このギョウカイ、どっちの方向へと流されていくことであろうか?

同様にわたしたちも、未成年であったときは、世を支配する諸霊に奴隷として仕えていました。しかし、今は神を知っている、いや、むしろ神から知られているのに、なぜ、あの無力で頼りにならない支配する諸霊の下に逆戻りし、もう一度改めて奴隷として仕えようとしているのですか。

理系と文系の違い

今、日本史をずっと学び直している。特に古代史と戦争の前後。日本古来の「神」はクリスチャンの神とは全く違うわけだが、礼拝対象として問題が起きてくる。アマテラスとはいったい何者か?卑弥呼との関係は?また一説によると現人神崇拝の国家神道はキリスト教国家のマネをしたとも言われています。

そこで『日本書紀』や『古事記』を学ぼうと言うわけだが、理系バカの私たちにとって文系学問の難点に突き当たっている。それは歴史は必ずそれを書く人の歴史観あるいはフィルターを経ていることだ。征服した者が征服された者の不義性と自分の正当性を記録するわけ。そこで歴史を知るには第一次の史料に当たる必要が生じるわけだが、今さら『日本書紀』や『古事記』をそのまま読んでいる時間もないし、そもそもそれらが当時の資料を編纂したものらしい。また戦争前後の全記録文書を括るわけにもいかない。これが実に困るのだ。

その点理系の学問は、たとえば相対性理論を学ぶにしても、アインシュタインの原著論文を読む必要はない(科学史の専門家でもない限り)。教科書なりでそのアイディアあるいは仮定を理解したら、後は自分で数式をいじくり回せば、アインシュタインの頭脳で行われれたことを追体験できる。教科書は出来不出来はあっても、決して違う結論を導くことはない。

しかし歴史は違う。書く人のフィルター次第で結論は正反対になり得るわけ。かくして誰を信じて良いか分からなくなってしまう。いわゆる山川出版などの教科書にはあまりイイ思い出がないし・・・。と言うわけで自分が読んでいる本がどんなフィルターを介して書かれた物かをよくよく吟味しつつの学び直しとなって、悪戦苦闘しているわけです。もっと言えば、わが理系オツムの再構築。いやあ、本音のところ、文系の人たちはよくこんな曖昧模糊とした不安かつ茫漠たる作業をやり続けることができるものと感心する次第。

 * * *

明日はいよいよ万系一世男系男子天皇制(Y遺伝子)の維持ができるかどうか。何となく男児誕生のような気もするのだが・・・。(それにしてもいったいこのY遺伝子は誰をルーツとするものなのか・・・?アマテラスは女だし・・・?)

風のゆくへ

かつて原告団千人で闘ったある裁判の弁護団を引き受けて下さって以来のお付き合いのある某事務所のニュースレターが届いた。前にも書いたが共産党系の事務所なのだ(実際問題として弁護士を頼むならば共産党系ですよ^^)。

昨今の日本のミームあるいは言霊の動きについて、いくつかポイントを指摘していた。

1)憲法改正:安倍さんが総裁選に正式に立候補したが、彼の中心的政策。私は憲法9条のような形がい化した条文は改正すべきと思うが(自衛隊を自衛軍として認めるべきと思う)、それでも慎重な姿勢が必要。
2)教育基本法改正:これも人為的な「愛国心」などアブナイ点がありそう。
3)共謀罪:相談して相槌を打っただけで犯罪成立!?これもアブナイ。

と言うわけで、私はクリスチャンであるが、共産党のある意味で一貫した姿勢は評価している次第。個人的にはニッポンキリスト教徒などより、よほど誠実であり信頼できる。無神論的・科学的・社会主義的・唯物論的・進化論的・共産主義も、実は、信仰の一種なのだ。実際、かつての戦争の時どちらの信仰が純粋であったかは歴史が証明している。ただし政権を委ねることには不安があるが・・・。

すでに指摘している通り、どうも日本の風が何となく生臭い方向へと吹き始めていることは、彼らの問題意識の上でも確かなようだ。

高専女子学生殺人事件

おそらくこの少年、彼女を独占したかったのではないだろうか。両親は「太陽みたいな子だった」と言っているが、この少年にとっては眩しくて手が届かなかったのだろう、この手段を取る以外には。保護する必要がある。

切ないことです

酒酔いの暴走車に追突されて海に転落。3人の子供を失ったご夫婦の様子に違和感を覚えた人も多いと思う。奥さんが「子供たちは写真の中に入っただけで、前と何も変わっていない・・・」と、笑顔でいる姿。そう、彼女にとってはまだ子供は生きているのだ。

おそらく彼女の中では否定(事実を認めない)と分離(感情を切り離す)が行われているのだろう。こういった被害者がよく口にする言葉は「実感が湧かない」というもの。心が壊れてしまうような感情が湧きあがる場面ではこの感情を置き去りにする。そしてこの置き去りにされた感情が深いほど、心の癒しには時間がかかる。

今後、このご夫婦がその事実に直面し、その感情を折々に経験しつつ、その事実を自我の一部として統合し得るときに真の癒しとなるが、それまでの道のりを思うと気が遠くなる感じを覚える。一方の加害者も普段は悪い人ではないのだろうが、こうなると極悪人扱いされ、彼の両親もこの事実を生涯負わなくてはならない。こちらも厳しい。むしろ彼の両親が自殺などの形にならないように配慮する必要があろう。

酒と車・・・。そしてそのタイミング。何とも言葉がない。

神経験を阻む者は誰か

下の『国家の品格』において、西洋人と日本人では大脳の使い方が違うことを指摘したが、日本人にとって哲学や神学が「小学生にダブルのスーツ」となる理由もここら辺にあると考えている。だから、私はこういった議論には巻き込まれたくはない。

鈴木大拙は対象と自己の間に隙間のない経験、あるいは客観と主観が未分化の経験を「即非の論理」と表現した。「AはAにしてAにあらず」。臨済禅の公案と同じ。アリストテレス的論理学では決して理解し得ない。大拙の盟友であった西田幾多郎は「多即一の絶対矛盾的自己同一」と表現した。一方科学はこの主体と客体を分離しようとするが、その物理的実在ですら、例えば電子は波動にして粒子でもある。物質自体がド・ブロイ波として波動なのだ。かくしてミクロの世界では客観的観測自体が成立し得ない。客観と主観と言う概念が意味を失うのだ。
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香の話

私たちは、救われる人々の中でも、滅びる人々の中でも、神の前にかぐわしいキリストのかおりなのです。

と言う聖句はお馴染みであるが、私たちは無意識のうちにある種の香(物理的にしろ霊的にしろ)を放っている。香と言うと富良野のラベンダーなどをイメージするが、臭いと言うとやや不快な気分がする。家や車なども特有の臭いを放つが、そこにいる本人には分からない。

で、今、中年男性の間で食べると薔薇の香りが体から発散するガムが大流行とか?ギャルから「オジサンは臭〜い」と言われるところの加齢臭対策だそうだ。実際私も大学のエレベーターで年配の先生が出た後に入ると「うっ」と来るもの。逆に気にし過ぎて、病的になると、神経症の一種で自己臭恐怖症があるが、この人たちは外出もままならなくなる。

私はと言うと、面白いことに脇の下の匂いがなぜか甘いのだ!どうも芳香族系の酸が分泌されるようで、なんとシャツが融けてしまう!?講義をして汗をかくとプーンといい香りがしてくるわけ(自分の体臭をいい匂いと感じるのもアブナイかな?)。それでも一応グランドマリン系のコロンはつけている。若い連中を相手にしているので、「くさ〜い」とは言われたくないという中年男の気持ちはよっく分かる。

・・・はたして地上におられた時のイエスの放つ匂いはどうだったのでしょうか?

さらに奇々怪々

われらをじさんは幼少のみぎりより、太陽系の惑星をもて、水金地火木土天海冥と覚えおりしが、なんとちかどころにては惑星、さにあらず。その数をもて、9個から12個、いや8個と学者のうるさき論争にいふ。

と、頭を悩ましをりしが、くわへて「ワニは魚なり」との決議がなされたり!嗚呼、われらをじさんの固くなり、忘却の容易なりしオツムもここへきてつひに窮せり・・・。

基督教界に人の神にならんといふ"預言者"もをりしが、ひとの目玉を傘で突くものなど、目の点にならん事、この暑き日々にありてうちつづくなり。つれづれなるままにそこはかとなく書き連ねるに、わが心ものぐるをしけれ。

ペレルマン氏フィールズ賞辞退

孤高の数学者ペレルマン氏がポアンカレ予想を解いたが、40歳までしか受けられないフィールズ賞を辞退したとか(→記事)。彼の数学の動機は金や名誉ではないのだ。こういった世離れした人は数学界にはかなり多い。私の友人にもひとりアブナイのがいるが。

多様体におけるポアンカレの予想と言われても、私もこの分野はさっぱりだが、なぜ私が数学にはまっているかと言うと、数学は脳のどこに存在するのか不思議だからだ。日本で受賞された小平邦彦先生は「仏師が木材の中にすでに存在した"仏"を掘り出すように、数学も掘り出されてくる」と言われたが、その感覚はすでにあったものに形を与える作業と言える。

イデアがどうのこうのと哲学的形而上学の話にするつもりはなく、数学と言うもっとも美しい構造体がどこに存在するのか。大脳生理学的には、ニューロンのネットワークとシナプスでの神経伝達物質の作用が脳の機能となるわけで、すると数学もこの電流と化学変化のあり方として存在することになる。

数学者は「何か」を「見て」いると思われるが、彼らの見ている対象はどこにあるのか。しかし一方で岡潔は「数学は情緒である」と言っている。つまり感情・感性の作用があるわけ。

聖書的には魂(psyche)の知性(nous)と物理化学的存在である脳の相互作用が起きているわけ。「私(ego)」が意志するとき、物理化学現象が生じる。この接点がどうなっているのかも不思議な点である。創世記2:7に

主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息(霊)を吹き入れられた。人はこうして生きる者(原語では魂)となった

とあるとおり、体と霊の相互作用で魂が生じているのだ。この記述などは実は現代の大脳生理学や精神科学から見ても実にすごい本質的なことを語っているのだ。

ウォッチマン・ニーや彼のルーツであるペンルイス、さらにペンバーなどもこの辺りを考えていたようであるが、残念ながらサイエンスとして表現されていない。あるいはサイエンスになり得ない領域なのかもしれないが。

(影の声:私もノーベル賞を辞退してみたいが・・・^^)

伊藤先生ガウス賞受賞

下で確率微分方程式の話をしてたら、これを創始した伊藤清先生がガウス賞を受賞だそうです(→記事)。その御歳90歳。

やや遅きに過ぎたと思うが、アインシュタインのブラウン運動からウイーナーの確率過程まで統一的に扱うことができる理論。物理学・工学・生物学・医学ではもちろんのこと、最近最も有名になったのがブラックショールズ方程式。そう、デリバティヴ(金融派生商品)の基礎理論で、ノーベル経済学賞となった。

ところが、この二人の学者を擁したLTCMは投資の失敗で破産!?わが友人の某経済学者も株はできない、家計は奥様に牛耳られていると言う次第。そう、学者と実務家は違うのだ。しかし賞金が150万とは!?もっと出せば野心に燃えてこう言った基礎分野に邁進する若い学者も出るだろうに・・・。

御名を用いること

昨日の『太陽』において、マッカーサーと天皇が対決する場面がある。マ:「あなたの親友が・・・」、天:「"親友"とは誰か?」、マ:「ヒトラーですよ」、天:「私は彼をまったく知らない」。

この場面を観て天皇を「神」として祭り上げた人々と天皇の関係が端的に描かれていたが、「天皇の名において」なされたことは、実は軍部の勝手によってなされていたのだ。

同じようにキリスト教界でもいずれ次のような会話がなされることになるだろう:

わたしに向かって、「主よ、主よ」と言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである。かの日には、大勢の者がわたしに、「主よ、主よ、わたしたちは御名によって預言し、御名によって悪霊を追い出し、御名によって奇跡をいろいろ行ったではありませんか」と言うであろう。そのとき、わたしはきっぱりとこう言おう。「あなたたちのことは全然知らない。不法を働く者ども、わたしから離れ去れ。」

「不法」とは「法に従わないこと」、すなわち神の御旨(=いのちの法則)を外すことである。今後人の目を惹く"偉大な業"が主イエスの名によって次々になされるであろう。巨大なフェイクの時代。しかし次のように書かれている:

偽預言者を警戒しなさい。彼らは羊の皮を身にまとってあなたがたのところに来るが、その内側は貪欲な狼である。

このメガフェイクに対する神の処方は

以上、あなたがたを惑わせようとしている者たちについて書いてきました。しかし、いつもあなたがたの内には、御子から注がれた油いただいた塗油(原語)がありますから、だれからも教えを受ける必要がありません。この油が万事について教えます。それは真実であって、偽りではありません。だから、教えられたとおり、御子の内にとどまりなさい。さて、子たちよ、御子の内にいつもとどまりなさい。そうすれば、御子の現れるとき、確信を持つことができ、御子が来られるとき、御前で恥じ入るようなことがありません

パワー崇拝が罠になる。しかるに主はこう言ってフィラデルフィアの教会をほめられた:

あなたは力が弱かったが、わたしの言葉を守り、わたしの名を知らないと言わなかった。

ジョンベネ事件

意外な結末。しかしよく摘発できた。当時はワイドショーなども騒然として、父親による性的虐待の結果の殺人とまで言われたが、犯人は別にいた!彼はこの報道で職を失い、妻は病死。今となっては痛ましい限り。

結局犯人はロリコンのサイコパス(精神病質・人格障害)。大人の女性と関係を持てない人物は、実は、キリスト教界にもけっこういる。前から指摘している通り、こういった人格障害を持つ人々が起こす事態に巻き込まれるならば、こちらも少なからず被害を被る。

が、それにしてもジョンベネ一家にとっては大き過ぎる代価だ。ヒン様をヨイショするクリスチャン・メディアは言わずもがな、メディアの責任は大きい。