No.1001の記事

夏が行ってしまった・・・

万博も終わり。アノ暑さの中でグロッキーになった1週間前が恋しい。夏も終わってしまいました。やや、さみしいです。私はどっちかと言うと夏が好きなんですね。まあ、高村光太郎みたいに「きっぱりと冬が来た」となって、刺すような寒さも身がしまっていいのですが。さあ、これから3ヶ月、12月の温泉と冬の北海道の流氷をニンジンとしてぶらさげて・・・走ります。

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BBSでは「ニッポンキリスト教の定義は」と問題提起されているようですが、これはちょっと理屈をこねますと、"illposed problem"(不適切な問題提起)なんですね。つまりダイヤモンドの本物を差し置いて、「偽ダイヤの定義は」と問うようなものです。

別にニッポンだけの問題ではなく、韓国には「カンコクキリスト教」があり、アメリカには「アメリカキリスト教」があり、イギリスも同じです。つまり私の頭の中では<キリストvsキリスト>の構図なんですね。ですから、「キリストではないものはすべて○○キリスト教」となるわけです。

ダイヤでないものが偽ダイヤですから、偽ダイヤを定義するには本物が判ればよいわけです。よく言われるのは銀行マンはただひたすら本物の札を数えるだけ。すると偽札に触ると感覚で判ると。ダイヤの鑑定士もひたすら本物を見つめるだけ。すると偽ダイヤは直感的に判ると。このいのちの感覚はきわめて繊細で、欺けないのですね。「うん?何か変だ・・・」という感覚を大事にしましょう。理屈は後から付いてきますから。

そのためには本物に触れ続けることだけです。本物とは教えや実行や集会ではなく、キリスト御自身であり、キリストはいのちなのです。どんなに美味そうに見えても蝋でできたサンプルを食べれば腹をこわします。私の言う「キリスト教」とはデコレーションできれいに飾られたいのちの欠如した宗教(=教え・価値観・実行などの複合体・体系)です。

宗教のシステムから解かれることです。クリスマスがどうのこうのとか、イースターが云々とか、私はあまり関心がないのです。そもそも私のタイムテーブルは大学のスケジュールで刻まれていますからね。日々キリストは私たちの内に誕生し(毎日がクリスマス)、日々死と復活に与り(毎日がイースター)、そして日々主のセコンド・アドベントを待ち望んでいるlifeを送ればいいのです。フツウのオジサン、オバサンとして・・・。

私にとって生きることはキリストである!