No.1027の記事

大きな収穫です

BBSでの再建主義者の富井さんとのディカッションは有意義ですね。私との一番大きな違いは、彼は

 「律法はいのちを与える」

と言われる。パウロは(Dr.Lukeも)

 「律法はいのちを与えない」

と言う。この違いはなんでだろう、と思うわけです。御言葉に明らかに反している。(ここで相手を理解しようと努めるわけです)で、続けて読むと

 「律法を行なうことによって得られるいのちと信仰によって得られるいのちは違う」

というわけ。なるほどとうなづいた次第。

しかし「律法を行なうことは聖霊に拠らなければ無理」なので、「旧約でも神は聖霊を送られてユダヤ人たちに律法を行なうことを可能とさせたと考えられる」と言うのです。また「律法は道であり、歩ませる原動力は霊であるが、それを行なわせる力がないことをもっていのちを与えないと結論づけることはできない。車が故障していてもマップは捨てるな。なぜなら車と言う原動力があればマップは役に立つ。」と・・・?この論理展開、分かりますか、みなさんは。

かくして「救済」の意味も違ってくるのですね。私の理解は「いのち(Zoe)を得ること」、すなわち「善悪の道からいのちの道への回復」なんですが、彼は善悪の道の上でもいのち(Zoeとは違う)を経験し、救済を得ることができるらしい。クリスチャンも実にイロイロなんだと感慨です・・・。

ただ感想を言えば、彼の議論は私たち客観性を最も重要視するサイエンティストから見ると、とても主観的ですね。なにしろ私の言っていないことをもって、私を「・・・とみなす」わけですから。してもいない犯罪を問われるようなものです(笑)他にも「と言った方が正当なのです」とか、「総じて言えば」とか、「・・・と考えることは可能です」とか。まあ、個人がどのように、総じて、考えるかは自由なのですが、サイエンティストは明確なエヴィデンスを求めるのです。

しかし一応冷静な噛み合う議論ができたことは収穫でした。議論のやり方のポイントは単純です。同意する部分と、不同意の部分を明らかにするわけ。別に相手を折伏する必要はありません。それは疲れますから。

で、私たちは神学者の学説や著書ではなく、御言葉によってジャッジするわけです。御言葉を認めないのであれば、それは相手の責任でして、これはもう別にディスカッションする必要もありませんから。