No.17の記事

直感と論理

きょう研究室のPC(アシュロン)のCPUを焼いてしまった。クーラーをはずしたままONすると、あっという間にやばいニオイがしてアウト。指で触るとチンチン状態。アシュロンは発熱がすごいのを実感したが、後の祭り。さてさて、また出費だよ。

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リバイバル新聞の論説に「美しい霊的感受性」と題して書いたが、数学者の藤原氏や岡潔氏が言うように、論理の積み重ねの出発点にあるのは、情緒あるいは直感である。「どこか変」といった違和感や、「だいじょうぶ」と言ったシックリ感。これを間違えると後は「論理の虚構」となる。

私は時に人の運命が「分かる」ことがある。例えば逸見正孝氏がフジテレビを独立した時、私は家族に言った、「これで彼は自分の身を滅ぼすよ」と。またタケシがバイク事故(最近の彼の本では自殺企図だったと告白しているが)の1年前、やはり家族に話した、「彼は自殺するかも」と。事が起きてから家族に、「パパ、どうして分かったの?」と問われたが、理由を聞かれても分からない、ただ「分かるから分かる」としか言えないのである。

今晩、犯罪捜査における法医学者や交通事故鑑定人のノンフィクションをやっていたが、これらの人々が証拠と論理を積み重ねる契機となるのは、カンである。犯罪現場を見て、たとえ事故と判断がなされても、「おかしい」と感じるところからすべてが始まる。あとは客観的な事実とそれらを線で結ぶ論理の勝負である。

今も自衛官の"自殺"事件において不審をいだいた家族が警察と対決しているが、警察も一度出発点を"自殺"にした以上、それに合致しない証拠はあくまでもすべてつぶしているようである。

今回、Time誌でも、さすがにブッシュの愚かな「論理」に対して「どこが間違ったのか」という特集を組んでいたが、さすがの愛国心の塊で愚鈍なアメリカ人もようやく気がつき始めている。その出発点がすでにおかしかった、と。

ちなみに私のところのご婦人がアメリカのある大きな教会に行ったところ、星条旗を皆でかかえてチャペルをぐるぐる回りつつ、むせび泣く光景を目にして異様だったと言ってましたね。

イスラエル主義者によるブッシュ礼賛記事の筆者や、ブッシュは神が建てた素晴らしいリーダーであると絶叫していた米国型原理主義牧師たちは、現在どのように感じている(考えている、ではなく)のだろうか?これ以上の偽りを重ねるべきではないと私は警告したい。

注:(このような注を与えなくてはならないのがこの問題の病理性を証明しているが)
私は「反ユダヤ」あるいは「反イスラエル」ではありません。イスラエルには実際に訪れてある種の親密感を覚えていますし、神のエコノミーにおける経綸的選びにある彼らの役割を知っていますし、彼らの救い(本質的選びへの転機)を真に願うものです。あえて言えば「反"イスラエル主義"」でしょうか。BBS(消えてしまいましたが)に書いた「メタの病理」によります。ガンジーが「イエスは好きじゃが、キリスト教徒は嫌いじゃ」と言ったそうですが、これと同じですね。