* 旧Dr.Luke的日々のココロ *
さっそく買って読んでみた。藤原氏が講演会で話したことをまとめたもので、1時間ほどで読める。内容はと言えば、先にふれた『学士会』での論考と『文藝春秋』での論考のまとめ的内容。ご本人も「話の半分は誤りと勘違い、残りの半分は誇張と大風呂敷」と言う意見があることをことわっている。
で、結論は−どうも私も白痴と呼ばれそうな予感(汗)。基本路線では同意。日本古来の「情緒と形」を重んじるべしと。私的に言えば「情緒」が形化されたのが「道」である。桜の散り際が命であると。もちろん彼は真の神を知らないし、罪の問題への言及もない。が、ローマ書にあるとおり
たとえ律法を持たない異邦人も、律法の命じるところを自然に行えば、律法を持たなくとも、自分自身が律法なのです。こういう人々は、律法の要求する事柄がその心に記されていることを示しています。彼らの良心もこれを証ししており、また心の思いも、互いに責めたり弁明し合って、同じことを示しています。
の意味における自然人としてのあり方を言っていると私は感じる(下手をすると再建主義との議論が再燃しそう・・・汗)。
Commented by ジョナサン 2006年08月29日(火)05:10
素早いですねぇ。もう読まれましたか。私も、「白痴」と評した、エゼキエル(?)さんの批判を読みました。 う〜ん、「悪意」ですか・・・。そこまでおっしゃいますか。まあ、私としては好意的に理解して、藤原氏の論に「歴史」が欠如しているとすれば、それは私と同様に理系バカのゆえだとは言えるでしょうね。「言霊」の時も触れましたが、私たちはなるべく単純なモデル化をして議論を進めますから。多分脳の使い方の差が関係しているのかも知れませんが。私も怒鳴られる覚悟をしておきましょう。 再建主義の富井さんなどもアングロサクソンに逆らうのは危険だと言っていますね。彼らに神の真理、特にカルヴァン神学が委ねられているからだ、と。とすれば藤原氏などはまさに神の裁きの最先端にいるかも知れませんね。ややこわいですが。キリスト教神学とイエスご自身、この両者には相当のギャップがあるようです。 「悪意」と言いましたのは、「わざと」意図的にといったほどの意味ですので。念のため。
新渡戸稲造の『武士道』や鈴木大拙の『日本的霊性』についても言及しているが、すでにお分かりの通り、私自身もキリスト教神学などよりははるかに彼らの世界に惹かれている。
さてそこで、私たちの立場からすると一番のポイントは、実は、欧米と日本の差は大脳機能の違いにあるわけ。同書でも指摘されているが、欧米人は秋の虫の音を聞いても単なるノイズとしてしか意識されない。なぜなら「意味」がないから。しかし日本人は情緒(一つの世界)を生む。なぜか。これは東京医科歯科大学の角田先生が明らかにしたことだが、欧米人は虫の音は意味がないので右脳で聞くが、日本人は左脳で聞いているのだ。かくして虫の声からひとつの風流の世界が展開する。文化形成の根底には大脳の機能の相違があるわけ。
私にはニッポンキリスト教でのノイジーな神学や哲学論争などを見ていると、子供がダブルのスーツを着ているような違和感を覚えるが、もともと日本人の脳は西洋人が生み出したその体系にマッチしていないわけ。実際「哲学」とか「主観・客観」などの単語すら日本にはなかったが、メーソンの西周が最近発明したのだ。かくしてキリスト教が日本人に嫌われる理由も明らか。
では、もしイエスご自身が今の日本に物理的におられたら、この国の民に対してどのような真理の伝え方をするであろうか。いや当時ですら、主はありふれた身近な物や事柄によって喩えを通して神の国を告げられた−「野の花を見よ、空の鳥を見よ。・・・幼子のようであれ」と。
主イエスこそ秋の虫の音や小川のせせらぎに対する真に繊細にして純粋な情緒をお持ちだったのではないだろうか?「義」について神学論争する前に、主イエスを単純に信じること−これが義とされること。その方を信じること。罪の女もその方に触れ、義とされた。彼女自身は多分それを意識化してはいなかったであろう。映画『太陽』の一言評でも書いたが、ただ主イエスのありがたさにふれたのだ。真理とはこのお方なのだ。それは論理を超えた経験。当時はルターもカルヴァンもアルミニウスもペラギウスもいなかったのだ!
私も『葉隠れ』の「武士道とは死ぬことと見つけたり」が好きで、桜の散り際にあこがれるが、繰り返しになるが小生の好きな歌を再度あげておきたい:・ふとみれば/なずな花咲く/垣根かな(芭蕉)
・なにごとの/おわしますかは知らねども/かたじけなさに/涙こぼるる(西行)
その言葉の当否は別として、エゼキエルさんがどうにも我慢ならなかった点が、私にもわかるように思えました。
藤原さんのような情緒と数学には、「歴史」が位置をもつことができないのです。『国家の品格』でもたしかに様々な「歴史」に触れてはいますが、それは、どこかで聞きかじったお粗末な知識を羅列しただけです。
しかしそれは、エゼキエルさんが指摘するように藤原さんが学的謙遜さを欠いている(とか、白痴だ)というより、はっきり言って藤原さんの「悪意」でしょう。たとえば梅原猛さんなんかがヤるのと同じ手法です。
アカデミックな業績や責任にならない著作や講演(『国家の品格』もそうです)では、わざと恐ろしく幼稚で誤った手垢のついた知識をもってきて、一般の読者や聴衆を愚弄するのです。自分の主張をもっともらしく思わせるために、けっこうよくやりますよね(Lukeさんは違いますよね?)。
藤原さんは、ただ日本人を元気づけようとして調子に乗りすぎたのかもしれませんが、キリスト教的西欧的伝統とそこに真実に生きる人々を虚仮にしただけでなく、こうしたやり方によって、日本的情緒をも著しく汚したと思います。
私などは、こういう輩に飄々と日本の情緒や桜など語ってもらいたくないですし、「この野郎、・・!」などと、激しく情緒的に反応してしまいます。(´・ω・`)