No.2265の記事

自分の居場所

4人の部活の友人の名前を書いて自殺した女子生徒は、リーダーシップもあり、正義感が強く、つねに弱い者をかばうタイプの子だったらしい。いわゆる「いじめられッ子」のイメージとはかなり違う。その父親が「私は人格者です。娘にも私を超える人格者に育って欲しかった。最後まで人の悪口を言うな、と言う私の教えをまっとうしてくれた・・・」と語っていた。

これを聴いてやや「?」と言うか、違和感を禁じ得なかった。この女子はそのリーダーシップや正義感を揶揄されたのだろう。こういった「浮いた人」に対する言葉が、「ウザイ」、「キモイ」、「クサイ」なのだ。女子高生あたりは周りから浮くことを極度に恐れると同時に、出っ張った人を引きずり下ろして、「平等化」する。また現代は「おちゃらかしの時代」と言え、「2ちゃんねる」に見える病理からも明らかだ。聖書の

すべて真実なこと、気高いこと、すべて正しいこと、すべて清いこと、すべて愛すべきこと、すべて名誉なこと、また、徳や賞賛に値することがあれば、それを心にとめなさい

と言う勧めにあえて抵触する風潮がある。しかもこの世ばかりではなく、クリスチャンと自称する人々すらも同じ。この御言葉をそっくり否定すると世と教界の現状となる。倒錯者が自分の倒錯に気づかない時代と言える。

このような中でこの女子は自分の居場所を喪失したのであろう。が、先の父親の言葉から、友人の間で失う前に、何かご両親との関係において失っていたような感じを受けるのだが、私のうがち過ぎだろうか。もちろんご両親の心痛は、私も人の親であるから分かり過ぎるほどに分かるが、やや懸念を覚える次第。

彼女の遺書の言葉、「もうがんばるのに疲れた・・・」、これは多分ニッポンキリスト教のクルシチャンたちの叫びでもあるかも知れない。そしてもっとも深刻なことはその叫びを互いに共有できず、表向きは「真っ白」に繕わなくてはならないこと。自分が自分でおれなくなるのは何もカルトに限らない。

ただし注意すべきは、神はありのままの私を受け入れることはない。だからこそ、キリストは私と共に死なれたのだ(死のうとするのは罠です!)。そして私も復活し、今や新しい創造とされた。これがゆえに、神は私を受け入れ、私は自分が自分でおれるのだ。すべて十字架を回避した「福音」は偽りである。私たちはすでに死んだ、復活した、新しい創造とされている!あなたはこれを信じますか?

信じた者は自らのわざをやめ、安息に入る。

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アップロードファイル 9KBFaith06-Amazing-のサンプルビデオをもひとつ紹介しましょう。これはイントロですが、福音の伝道メッセージになっています(ただし英語)。こちらからご覧いただけます。