* 旧Dr.Luke的日々のココロ *
下の方でビョウキの定義を述べよとのご依頼がありますので、こちらでちょっとご回答をしておきましょう。
前から何度も書いているとおり、現代の特徴は自己の病理にあります。自己をすべてとし、自己を物差しとし、自己が価値判断の中心、自己が自己に仕えること。私の定義するビョウキとはコレです。自己が世界の一部ではなく、自己が世界と同一視されてしまうこと。これが倒錯を生む。現代はこの世も、教界も等しく、この自己の病理に冒されています。かくして牧師が信徒を喜ばせ、信徒もソレに乗っかり、互いに狂言回しをしている。そして聖書はこのような時代の到来を預言している:
だれも健全な教えを聞こうとしない時が来ます。そのとき、人々は自分に都合の良いことを聞こうと、好き勝手に教師たちを寄せ集め、真理から耳を背け、作り話の方にそれて行くようになります。
また 終わりの時代は自己の時代であり、すでに次のみ言葉は成就している:
Commented by chohsuke URL2007年04月30日(月)05:37
こんにちは。 ほお、セカイ系ですか。これは初めて知りました。若者の間で流行っているのでしょうか?確かにそうかも知れませんね。基本的に人間は自分が「神になりたい」わけですから。 確かに病気の教会多いですね・・・ 私は社会学をこれまで学んできたのですが、そのタームでいうと「私化」(ワタクシカ)というのが、ここでの「ビョウキ」にあたるのかと思います。 これは社会学的見地から興味深いご意見です。確かにそうでしょうね、カタストロフィに向かうと。こういう人々は、わたしたちの主であるキリストに仕えないで、自分の腹に仕えている。そして、うまい言葉やへつらいの言葉によって純朴な人々の心を欺いているのです。
しかし、終わりの時には困難な時期が来ることを悟りなさい。そのとき、人々は自分自身を愛し、金銭を愛し、ほらを吹き、高慢になり、神をあざけり、両親に従わず、恩を知らず、神を畏れなくなります。また、情けを知らず、和解せず、中傷し、節度がなく、残忍になり、善を好まず、人を裏切り、軽率になり、思い上がり、神よりも快楽を愛し、信心を装いながら、その実、信心の力を否定するようになります。
>自己が世界の一部ではなく、自己が世界と同一視されてしまうこと。これが倒錯を生む。
「セカイ系」といわれるストーリーが流行るのに対応しているのでしょうか。
セカイ系 @wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BB%E3%82%AB%E3%82%A4%E7%B3%BB
ニッポンキリスト教界でも、聖霊派のように霊能力を持って、しるしだ、奇跡だ、預言だ、霊の戦いだ、とニッポンをキリスト教国家にしたがる人たちもセカイ系と言えるかも知れません。統一協会の「地上天国」と変わりありません。このキーワード、使えますね^^
牧師が病気なのか?神学校が病気なのか?
信徒が病気なのか?
鶏か卵か?ッてな感じですが
教会では霊の話ができないなぁ・・
最近つくづくそう思います。
聖書の話はいっぱいしますが、霊に語りかける
言葉が無い。知識偏重だからでしょうか。
牧師と役員がいなくなれば
健全に成る教会も多いんじゃ?と思うんですが・・・
こういうこと言うと異端でる?(傷んでる)って
言われるんですよね!
勝手に異端出なさい!なんていわれそうですね。
主義でも派でも運動でもない、主ご自身を純粋に
礼拝したいなとつくづく思う今日この頃です。
一人一人十字架で切れてる群れ、そんな中で
賛美したい。そう思います。
「私化」とは、たんなる自己中心主義とは違って、消費社会という全体社会の構造とぴったり対応しています。
つまり、消費社会という全体社会は私化された欲望がなければ存立しえず、そして消費社会として成立した全体社会は個々人の内面を私化せざるをえない、ということです。
ここで注意すべきは、この全体社会−個人間関係は、カタストロフィへの傾向を強める方向に傾いているということです。
つまり、消費社会は私化された主体を再生産せざるをえないのですが、私化された個々人は全体社会のことを考慮するはずもなく、まるで足元を自分で崩すかのように体制の崩壊を導かざるをえない、ということです。
c.f.鈴木広「たえず全体化する全体性とたえず私化する私性」『都市化の研究』所蔵論文 or Christopher Lasch"Culture of Narcissism"
このような社会に生きている私たちにとって、教会がはたすべき役割は、ほんとうは絶大に大きく致命的だと思うのですが…。
教会はいのちのソースとして、むしろ自己秩序化を行えるはずですが、現状はそのレベルにはないですね。混沌でしょう。