* 旧Dr.Luke的日々のココロ *
『弓と禅』で有名なドイツのカント学派哲学者オイゲン・へリゲルは(神学も研究している)、自ら弓道を通して禅の道を了知した。彼の著『禅の道』には、次のような言葉がある:
禅の道を歩む者は、行くところまで行くと、自己自身を放擲する。禅に対する<信仰告白>は瑣末なことだ。重要なのは、その人間の<行為>と<境涯>なのである。重要なのは、一切を包括する真理を拠り所としてその真理と一つになって生きて行けるかどうかなのだ。真理の家へと帰還し、つまりは、主体的に生きることが、あたかも生かされていることになり、生かされていることが、主体的に生きることになることによって自由と必然とが一つになることこそ、重要なのである。
いかがでしょう。ここでは偶然と必然の問題も、自己からの解放の問題も、さり気なく解かれているでしょう?「禅」とは一種のメタ関数における変数のようでもあり、ここに「キリスト」を代入しても、この文意は十分に通じるわけです。禅とは生そもものです。しかしてパウロも「生きることはキリスト」と。極私的には、思弁的ないわゆる西洋神学より、このような東洋的智恵の方が、体験的にはるかに神に切迫していると感じているわけです。
さて、本日は仕事であります・・・。