2005年01月20日

普通であるということ

横浜山手にある聖公会教会が放火されて燃えた。何と信徒が火をつけたとのこと。その牧師いわく、「これは火の洗礼だ・・・」。う〜ん、ちょっと違和感。まことにお気の毒と思うが、このような場合、普通に「火をつけられた」でいいのではないか?さらには犯人に対して憤っていいのではないか?超霊的になる必要はあるまい。普通の人として、普通の反応をすればいい。

何故かクリスチャンはいろいろな事象にゴテゴテと霊的な意味づけをしたがる。「このことを通して主はこれをお語りになりたかったに違いない・・・」など。主が語られる時は明確であり、あえて「違いない」とダメ押しする必要はない。超霊的な解釈や解き明かしは時として幻想を生む。

Commented by 長谷川 彌由紀 Eメール 2005年01月21日(金)23:35

アーメン!
霊的に目を開かれていない人の普通とどう区別しましょうぞ!?
普通であることは、その人その人の普通であるとすれば、、、、、、、?
師のおっしゃっておられることは、良く分かりますが、
他の人に(特に目開かれていない人々に、どう話したらわかってもらえるかと、、、、。

深まる混乱

NHKと朝日と政治家と告発者と四つ巴で、朝鮮総連などの思惑も絡んで、互いに訂正と謝罪を求める要求を出して、混乱はますます深まってきました。どこに真実があるのか、こうなるともはや判定は不可能ですね。

一方アメリカもついに大量破壊兵器捜索は打ち切り、何とか30日の選挙の実現に向けて努力しているようですが、抵抗勢力はそれを阻止してアメリカの威信を傷つけようと躍起です。こちらもただ混乱が深まり、先が読めなくなっています。


■ローマ3:3-4
では、いったいどうなのですか。彼らのうちに不真実な者があったら、その不真実によって、神の真実が無に帰することになるでしょうか。絶対にそんなことはありません。たとい、すべての人を偽り者としても、神は真実な方であるとすべきです。それは、「あなたが、そのみことばによって正しいとされ、さばかれるときには勝利を得られるため。」と書いてあるとおりです。