2005年02月10日

死と言うこと

そろそろ私も死を具体的に考える年代になった。昔ならば人生50年。私も後2年に過ぎない。禅僧では、浮世狂言止めたと、自ら食を絶って眠るように召される人がいる。達観した高僧は生死を越えた生き方をしている。

対してクリスチャンは死から自由にされたと言いつつも、けっこう生に未練がある。かく言う私も死はこわい。ただそれは自分が虚無の中へと消失する恐怖ではなく、未知の領域へと入るこわさと言える。新しい学校や職場に入る時の感覚に近い。つまり一方ではどこかに楽しみがあるのだ。

1日の労苦を終えて布団に入り、眠りにつく心地良さと似ているだろう。地上での自分の責任を全うしたら、おそらく「もうやることはやった・・・」という解放感と安堵感を覚える日が来るだろう。生と死を隔てる一線を超えて、主の懐にやすらうことのできる日が。

それまではSalt氏も言うとおり、その日その日の苦労があるのだ。Saltさん、私も登校拒否症、というより、この世にいること自体に適応障害を起こしていますよ^^

・Salt氏の日記(励まされます)
http://sakura.sarasou.com/cgi-bin/diary04/cdiary.cgi?room=ikemoto7

Commented by Salt 2005年02月12日(土)01:56

天のリアリティーをもっといっぱい味わえるといいのですが、どうも最近は憂いがちです。

流氷を見に行かれるのですね。
私も北海道は大好きですが、冬は知りません。
ゆっくり楽しんで着てください。食べ物もおいしいし、温泉もいいし・・・ちょっと浮世の垢を落とせそうですね。

私の春休みは、おそらくふたたび新潟入りです。

備えること

クリスチャンはしばしば超霊的になる。生命保険も入らない、医者にもかからず薬も飲まない、信仰によって神の超自然的癒しを求める。癒しの賜物のある器に祈ってもらう、などなど。

私は霊能力者でもなく、神学者でもなく、一介のサイエンティストなので、体に異常があれば、ドクターにかかる。またいい薬を処方してもらう。また年に1回ドッグで全身を調べてもらっている。血液データも学生時代から25年にわたって蓄積しているので、異常があればすぐに検出できる。自分の体の真実は把握している。

生命保険や癌医療保険、さらに損害賠償保険も入っているし、共済年金に加えて個人年金や子供学資保険も積んでいる。私が突如召されても、マンションのローンは団体信用保険でまかなえるし、残った家族を路頭に迷わすことのない備えをしている。子供の学資も私が召されたら年金が下りるし、節目節目でまとまった金が下りてくるので、きわめてありがたい。大学の資金としても200万は確保できるので、私立でも何とか可能となる。癌保険も、癌と診断されたら300万をもらえる。

こういった対策を不信仰であるとして、見下すクリスチャンも多いことを知っている。ある先生は「生命保険に払う金があったら信仰をもって献金せよ」と言われる。私はこうした奨めには拒否反応を覚える。古のヨセフを見ればよい。来るべき飢饉に対して計画的に備え、イザと言う時に国民を救ったではないか。

人間としてなし得る対策をなし、人間の側の責任を果たす必要がある。それを超えた分は神が責任を負ってくださる。昨日の兄弟に対しても、私は訴えたいのだ:「妻や子供たちのことを考えよ」と。自分の超霊性を保つために家族に犠牲を強いてはならない。・・・ただ、もう遅いかもしれない、その真実を知ることが、正直言って私もこわい。

ああ、兄弟よ!

Commented by まひるちゃんのパパ Eメール 2005年02月10日(木)21:37

一昨年心筋炎で生死をさまよった、うちのまひるも、家族の祈り、兄弟姉妹の連鎖断食祈祷、そして、最新の医療設備と手技で生還しました。トロントのアーノット師がおっしゃいました「信仰の決断と、無謀な冒険とは全く違う。医師の診療を受ける事と真の信仰とは矛盾しない。」Luke先生、もう一度兄弟とお話下さい。私は祈ります!