2006年01月13日

教えの風のルーツ

ニッポンキリスト教ががんじがらめのクルシチャンを大量生産することは明らかのようですが、その教えはどこから来るのでしょう?また「パーパス・ドリヴン」などの流行の風はどこから吹いてくるのでしょう。

パウロは言っています:

キリストの充満の〔持つ〕規模に到達し、もはや未成年者ではなく、人間たちのサイコロ遊びまがいの、人を欺き惑わすだけの奸計じみた教えの〔送り出す〕どのような風にも〔挑発されて〕荒波立てたり振り回されたりすることなく、愛にあって真理を語り・・・(岩波訳エペソ4:13,14)

この風のルーツは、エペソ2:2では「アイオーン」と訳され(岩波訳)、人格化された時代の霊であり、天空という権勢領域の支配者に従って、不従順の子らの内に働いている霊(アイオーン)」とあります。ガラテヤ4:3;4:9;コロサイ2:8;2:20では、「世を支配する諸霊(新共同訳;原語ストイケイア)」と訳されています。

つまりこの空中には何か霊的存在があり、彼らが人間にある種の考えのヒントを吹き込むのです。あるいは絶対主権者の神は、温度が原子運動によるにも関わらず、絶対零度でも原子運動を許していますから(論理的には矛盾。不確定性原理により観測の限界)、大脳の不確定性要因によって、何かのアイデアが閃くのかも知れません。前に述べた「間」の病理によって相互作用しているかも知れません。(私たち医学者からすると分裂病者や欝病者の幻覚や妄想が聖霊派のようにすべて悪霊由来とは思いません。大脳生理的要因があります。)

いずれにしろ、私たちの内に生まれたその種は、ここが大切な点ですが、私たちの肉を刺激するのです!十字架と御言葉を経ていない肉にとって気持ちがいいのです(肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢;これが私の言うヒューマニズムです)。この意味で私は「人間的教え」と言っています(新改訳では上の聖句も「この世の幼稚な教え」と訳しています)。つまり人間の責任を無視し得ないのです。かくして肉はふくらみ、論理的肉付けをなし、さらには御言葉の「裏づけ」まで取り付けて、ひとつの確固とした思想体系が構築されます。これが肉の要塞のひとつです(2コリント10:4)。これが風となって時代を動かします。ニッポンキリスト教などはまさに赤子のように吹き回されているでしょう?

では、この空中の権を持つ者たちはどこから生じたのでしょう。これは実は私のカレッジの「スピリチュアル・バイブル・リーディング」と「真理の探究」で詳細に述べていますが、創世記1章を開いて下さい。創造が6日でなされたことが書いてありますが、よ〜く、読んで下さい。第2日目に大空を分けました。他の日ではすべて言われている「神は見て、良しとされた」の句がこの日だけないでしょう?何故でしょう?ここでウォッチマン・ニーと言うよりは、そのルーツのG.H.Pemberは、このときに空中の存在者も解き放たれたのだ、と言います。ではそれまで彼らはどこにいたのでしょう?はい、これから先はカレッジをどうぞ(と宣伝してしまった^^)。

かくしてこれからキリストに充満されていないニッポンキリスト教は、ますますアメリカ産の油注ぎの器や、先生たちの流行の風に吹き回されることでしょう。加えてメディアがヨイショ記事で煽ります。株と同じで、メディアが煽ったらオシマイ。御言葉で啓示されている主の御心は、黙示録3章のフィラデルフィアの教会にあります。ご自分でぜひ声を出してお読み下さい。

見よ、私はお前の前に扉を開いたままにしておいた。それは誰にも閉めることができない。なぜなら、お前は小さな力しかないのに、私の言葉を守り、私の名前を否認しなかったからである(岩波訳)

扉は人がムーヴメントで開くものでもなく、力のあるメガチャーチを打ち立てることでもない。「小さな力」を主は尊んでくださるのです!欺かれてはなりません。

なお、リンクで紹介したMax&Sheilaは何と"Lerning to Spirit-led, Not Purpose Driven"をロゴマークにしてしまいました^^彼らも言っています:福音とは普通の人が偉大な救い主を知ることであり、私たちが偉大になることではないのです!

Commented by Luke 2006年01月13日(金)23:31

山谷さんは、このストイケイア/アイオーンがメガチャーチのルーツと再建主義の間にどのように働いてるか、解説して下さっているわけです。私も前から指摘しているように、「現代の使徒・預言者の宗教改革」はかなりアブナイですね。

Commented by 立ち寄り人 2006年01月14日(土)14:47

あ、ほんとですね。100ヘエです。2日目だけない!?気がつきませんでした。

主の御心とは?

せっかくヒゲをはやしたものの、何とマスクをする際、ムズムズとして耐え切れなくなって、ついに剃ってしまいました(笑)。これは主がヒゲを伸ばすのをお許しにならなかったためで、そのために風邪も主によって許されたのです・・・と、言った「証し」が聖霊派あたりではよくなされるようであるが、私にとってはこれが主の御旨なのか単なる生理現象なのか、判断できない。

このような「証し」が嵩じると「御心を行なえ」→「聴き従え」となって、深刻な事態が生じる。「御心」って何?「聴き従え」って、誰に?かくして「御心」から落ちることや、不従順の裁きを恐れて戦々恐々として、とてもクオリアどころではなくなるわけ。こうして牧師センセイ様が教会のトップにお座りになられる次第。この根底にはパラノイドの病理がある。主から見捨てられる、裁かれるという恐れと不安。

主の御心は何でしょうか?主の御心はただひとつです。「主ご自身を知ること」。私たちの失敗において、主の憐れみを知る。私たちの不従順において、主の愛を知る。生きるにせよ、死ぬにせよ、あらゆることで主を知ること。主のクオリアに触れること。これが御心です。このことだけを動機のすべてにしているとき、万事はOK!

安心して罪を犯してください、とは言いませんよ、パウロも言っていますが。しかし罪の満ち溢れたところには恵みもさらに満ちるのです。不従順のある心には主の愛によるメルティング(溶解)があるのです。あなたは自我を砕かれたいですか。ニッポンキリスト教の「自我を砕き〜」から解かれて下さい。主よ、私の頑なさをあなたの愛のクオリアで融かしてください、と祈りましょう、ね♪

パーパス・ドリヴンへの警鐘

救世軍の山谷さんがとても重要な指摘をされています。人間の目に訴えるものは真理のようで、実はフェイクです。終わりの時代、流れに飲み込まれて欺かれてはなりません。

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