2006年01月28日

Step Forward

一歩を踏み出すことは、もちろん、日常の生活でこれまでできないと思っていたことにチャレンジすることも、奉仕や伝道に踏み出すこともそうですが、もっとも本質的なことは、「自分から離れること」です。足りない、足りないと、求めてきた自分、傷ついて自己憐憫に閉じ篭っていた自分、その自分から一歩を出ることなのです。禅の天才道元もこう言っている:

仏道をならうとは、自己をならうなり。自己をならうとは、自己を忘るるなり。自己を忘るるといふは、万法に証せらるるなり。万法に証せらるるいふとは、自己の身心、および侘己の身心をして脱落せしむるなり。−正法眼蔵・現成公案

この「万法」とは「自然の法則」であり、もちろん私たちの得ている「いのちの御霊の法則」ではありません。しかし私たちも自分を忘れて身心脱落するならば、いのちの御霊の法則に証せられるわけです。禅学の大家鈴木大拙は「わしはイエスが覚者であることは分かるが、聖霊と言うものはどうしても分からん」と言った。ここに禅者とキリスト者の違いがあります。

再建主義者はこのいのちを見ていないので、あくまでも廃棄されたモーセ律法の適用となるわけですが、私たちはこの法則に乗るのであれば、孔子も言っているとおり、

七十にして、心の欲する所に従って、矩(のり)を踰(こ)えず

となるわけです。手離しで自転車を走らせるようなものと私は喩えていますが・・・。

Commented by Sky URL2006年01月31日(火)23:51

>仏道をならうとは、自己をならうなり・・・脱落せしむるなり。
・・道元も、なかなか深いですね。

>インフルエンザがまだ気管に残っていて,冷たい風で狭窄を起こして・・。
どうぞ、ご自愛ください。お祈り致します。

One Desire

地上の幕屋に制限されている現在,その制限のゆえにパウロですらうめきをもっていたが,ひとつのことを願っている。それは一度でもいいから真に自己から離れた,セルフレスな礼拝を捧げる経験を得たいと言うこと。

Lord, I'd like to worship you solely for what You are, apart from and denying myself.

Commented by kawa 2006年01月29日(日)08:02

アーメン。真の礼拝は内から自然に湧き上がるキリストの叫びのような感があります。自分のことで精一杯の者が多い日常生活のなかで、地上で我々は既に小さな主の備え”I AM WHO I AM”を持っているから今在ることに誇りと勇気を持って今を生きていられるのではないかと思う。