2006年12月01日

ウイットネス・リー教会の分裂騒動

「主の回復」とか「○○に在る教会」と称するリー教会でこの数年間、否20年近くにわたってくすぶってきた問題が再燃。かつてリーの側近中の側近だったタイタス・チューが検疫された。世界中の長老たちが署名する検疫声明文が公開されると共に、タイタス・チューを糾弾する集会の模様がビデオとオーディオで公開されている。5時間にわたる糾弾集会なので、まだ一部しか聞けてないが、変わっていませんね。このコワイ体質。「神は個人的な罪は赦されるが、教会の行政に関する罪は反逆の罪であり、決して赦されることがない・・・。ひとりの使徒、ひとつの務め、ひとつの教え、ひとつの心、ひとつの実行、ひとつの立場・・・」と。かくしてタイタス・チューと彼の同労者たちは排除されたようです。詳細はこちらのサイトを。

lordsarmy

この中にタイタス・チューを糾弾する集会の日本語通訳の音声ファイルも聞くことができます。やや怖いですが。

アナハイムでの糾弾集会(日本語11月11日2006年)

前回は89年でしたが、"反逆者"を検疫するのは彼らの常で、10-20年ほどの周期で繰り返されているようです。ちなみにこのロサンゼルスタイムズ紙の記事は77年の検疫事件です。

ロサンゼルスタイムズ紙記事12月11日1978年

【付記】「2ちゃんねる」もカルトも、ポイントは自分が「」になれること。前者では検閲なく自由に判断し何でも言える仮想的全能感によって、リー教会ではもろ「神と人が混ざって人は神になる」(神格は持たないらしいですが・・・笑)わけで、善悪知識の木の実を食べるように誘惑されたあの言葉がそのまま肉を心地よく疼かせるのです。

Commented by Luke 2006年12月02日(土)08:43

ウォッチマン・ニーの教えた地上に顕われたキリストの体としての地域ごとの教会のあり方は、各地ごとに直接に主イエスの頭首権に服すること、つまり地域教会の独立であって、ただ主イエスの名の下に集まることだったのです。私はローカルチャーチのある教会がベニー・ヒンを招いたら、ニーの教えどおりだと認めたいと思いますが(笑)パウロも言っていますね、ある者はこうしており、別の者はああしている、と。

今回のタイタス・チューの事件では、彼は現在のローカルチャーチが「ひとりの人」の教えや実行によって統一的であることを指摘したようですね。しかし彼らは一切そのような事実なく、自分たちはウイットネス・リーに従っているのではなく、リーを通して神が与えた「新約のビジョン(啓示)」に従っていると主張しています。見事に<リーの教え=神の新約の啓示>となり、リーの傘の元に置かれてしまっています。これに反することを言うと神への反逆者として検疫されるわけです。最近ロシアでも反プーチン発言すると毒を盛られますが・・・。

ちなみに上のサイトを見ますとある地方の集会の様子がビデオで紹介されていますが、タイタスらの働きによって、これらの集会がロックミュージックで賛美するなどの堕落路線に導かれたと告発しています(カルバリーチャペルのワーシップのようですが)。では私たちなどは地獄路線を行っていることになるでしょうね(笑)。

彼らは全世界のローカルチャーチは統一されていないとしつつ、タイタス・チューを検疫する声明文は全世界の長老たちの署名が並ぶわけですから、自己撞着です。タイタス・チューはキリストの体を傷つけたと糾弾されていますが、どうも彼らの意識では自分たちだけがキリストの体であると思っているようです。自分が何をしているか分かっていないのです。

なお、このように自己欺瞞を抱えたままですと、何度でも同じ問題を繰り返しますが、専門用語では「強迫反復」と言います。彼らの特徴として、この強迫性が目立っています。

Commented by Luke URL2006年12月03日(日)09:36

今回の事件でカルバリーチャペルのワーシップを用いるなどして"堕落"し、「主の回復」に"反逆"したタイタスらの影響下にある教会に対して、「主の回復」のリーダーが書き送った手紙を上のURLに入れておきました。やたらと「ブレンディング」なる用語を用いていますが、これを読むと彼らにとってのウイットネス・リーの位置づけがよく分かりますね。

情報と国家-収集・分析・評価の落とし穴-

アップロードファイル 5KBテレビでよく見かける江畑謙介氏著。ややオタク系かなと思っておりましたが、かなり学術的。

先の論考とも関係するが、日本語には対人関係に関わる語彙はややこしいほど豊富なのだが、情報に関わる語彙がきわめて貧弱。日本人にとっては対人関係は敏感かつ大切なのだが、情報についてはうとい。元々「情報」なる単語もあまり適切ではない。文字通り「情」の「報せ」だから。これってやはり西周あたりの造語でしょうか?

江畑氏はここに落とし穴があると指摘する。第一に"DATA"に相当する日本語がない。第1次的に得られる生の数字なり、文字なりのこと。確かに私たちも「データ」と呼び、日本語では???。データが集まって種類に従って関係性が見えてくるとそこに意味が生じる。これが英語では"INFORMARTION"。それを分析し評価して得られるもの"INTELIGENCE"。こうして生のデータは文脈化され生きたものとなる。

ところが日本語には各レベルに相当する単語がない!?WWUにおいて勝敗を決めたのは情報戦だったわけだが、日本人は「情」に対しては敏感であるが、「インフォメーション」にはうといわけだ。これは現在も同じ。このあたりも「情」先行になってネットを使いこなせない原因だろう。第一、イラク関係の米軍の機密情報すらも自衛隊からWinnyを通して漏れる始末。

なお、国家レベルの情報についても、例えば冷戦時代においてすら、CIAは東側の80-95%の情報を公開情報から得ていたとのこと。問題は公開されている情報を生かすも殺すも、受け取る側の姿勢によるわけだ。かなり面白い1冊だった。

で、私たちもこれからCT関係のデータの分析にかかるわけだが・・・。何が出てきますかね^^

20世紀少年

アップロードファイル 16KBついに『20世紀少年』22巻が出ました。夏に子供のを横取りしてはまったのですが、今回は私が自前で・・・。2008年に映画化されるとか。楽しみですね。

日本人の病理とITメディア-加虐性と被虐性-

昨日紹介したフィンランド人とケータイの関わり方と日本人のそれが本質的に相違している事実は極めて面白い。ネットにおいても日本人の匿名性が指摘されているが、これはアイデンティティの確立と無関係ではない。

実は自殺の社会的要因として、ドゥルケムは「匿名的自殺」と「自己中心的自殺」をあげている。前者は社会的拡散と共有する価値観の喪失を原因とする。これは現代の日本で言えば、中高年の自殺の要因と言える。後者は屈折した自己主張的自殺と言えるが、最近の子供たちのイジメを理由とした自殺が該当する。

日本人のITとの関わり方の特性として、実はこの匿名性と自己主張性が非常に巧妙に絡んでいる。すでに述べたように、希薄な自己(匿名性)の屈折した確認法(自己主張)としてネットが日本人の心性にピタリと適合する。日本人の精神病理の本質は強迫性である。いわゆるガンコ・マジメ・完全癖・意地を張る・こだわる・嫉妬深い・妬み深い・・・。

これがためにクルシチャンは自家製の律法(ねばならない・かくあるべし)を設けて自作自演的に苦しむわけ。ひどくなると強迫性障害(強迫観念・強迫行為)に陥るが、日本人の場合、強迫性人格障害者はかなり多いと推測される。前者は強迫神経症であるが、症状が苦痛で(自我疎外性)、治りたいと感じる人々なのだが、後者は症状については自我親和的で、この場合、本人は苦しまないが、他人がとばっちりを蒙る。

この強迫性は分析的には肛門期におけるリピドーの固着と退行として説明される。つまりは2-3歳位になると自我が芽生え、親との確執を経験するようになる。この時期に排便のしつけが行われるが、これが親との交渉の武器となり、自己主張の道具として用いられる。つまり日本人の湿ったネチネチした性格は、この時期における葛藤(これをエディプス葛藤と呼ぶが)に起因するわけ。他者と自己の境界線が曖昧なのは、いわば親子関係の再現であるから。よって無礼を良心の呵責を覚えずに行うことができる。日本人の公共心の欠如も世間は家庭の延長に過ぎないから。大人の人間関係のトラブルは実は親子関係の再現なのだ。

この時期にこじれた感情はエディプス・コンプレクスと呼ばれるが、実はこの葛藤と去勢不安(言うことを聞かないとオチンチンを切っちゃうわよ)によって、子供は超自我(良心)を分化させる。(実はトイレを観るとその国民性が分かるのだ。)この時期には親との葛藤で相当のせめぎ合いがなされ、親に屈する屈辱感と、親から受け入れられる安心感のアンビバレンツ(両義的)な複雑な感情を抱きつつそれらを抑圧する。この要素が強い性格を肛門性格と言う。これが他人あるいは自己に対する攻撃性(肛門加虐性)と逆に受身性(肛門被虐性)となる。

このリピドーが性的色彩を帯びたままダイレクトに表現されると、性的倒錯としてのサディズムとマゾヒズムとして、このリピドーが知性化あるいは合理化されて表現されると、言葉と論理による偏執的な攻撃性になる。最近のイジメの問題も、実は学校制度の問題などではなく、この精神病理によるのであって、制度をいじったところで決して解決しない。しかも加虐性と被虐性は何かの契機によって簡単に入れ替わる。しばしばいじめる側とられる側は同じ病理を有している(cf.「ユダヤ人と日本人」)。

ITメディアはまさにこの精神病理の表現・解消手段として、日本人には絶好のアイテムとなる。かくして肉の中にブロックされたコンプレクス(感情観念複合体)の発散を試みて、延々と掲示板の誹謗中傷・ケータイでの村八分・Blog炎上・晒しなどのITリンチが行われる。しかも見かけは冷静に、世間の常識に沿っているかのように、知的によそわれた形によって。このあたりの消息は昨日紹介しいたサイトを参照のこと。あるいは自殺サイトで一緒に逝ってくれる仲間を求め、互いに暖め合いながら、逝ってしまう。

昨日紹介した『他人を許せないサル』において著者は、ケータイなどのITメディアは進歩と言うよりは、日本人の心の根本的問題へとむしろ回帰させていると述べているが、まさにそのとおり。今後の日本はますます閉鎖性と倒錯性を高めることだろう。その倒錯した閉鎖世界で、病理が加虐性として現れるならば「2ちゃんねる」などに観られる現象が、被虐性として現れるならば、自殺サイトで知り合った見知らぬ者たちが一緒に練炭自殺するような現象となる。

キリスト教界においても、例えば見かけの神学論争なども、実はこの病理と密接に関係しているわけで、キリスト教界で起きている事象なども、霊的真理の探求と言うよりは、ほとんどは精神病理の表現に過ぎない。つまり魂の現象。メインラインは福音派を見下し、福音派は聖霊派を見下し・・・と言う「入れ子構造」も、まさに上の病理の現われに過ぎない。神学の立場は異なるとしても、実はいずれの病理も同じなのだ。

しかし真に聖なる神にわずかでも触れ、神に対する正常な畏れをいただいているならば、表現形はもっと変わるだろう。少なくとも現在の状況とは異なるはず。論争の開始はいわゆるこだわりの感覚が惹起され、粘着現象として開始されるが、この粘着性はまさに肛門性格の偏執性そのもの。表面はきわめて知的に装われていても、根底にあるのは同じ。キリスト教界の病理とは実は日本人の病理そのものなのだ。(→閉鎖社会の共同幻想

今回のCT問題で絡まれついでにちょっと考えてみる機会がもてたのだが、これでストーカーの病理を論じる準備もできました。また、後ほど。

温泉までT-27Days