日記

うーむと思わず

やはりコワイです。このキリスト教と言う業界。ジュンヌ・ダルクをはじめ、異端審問で焼かれた人も昔はいたわけですが。再建主義では中絶した女性は死刑だそうです。私は彼らを理解しようと努力したのですが、やはり超えられない一線がありました。

不思議なのはなぜ自分が正しいことをしているのであれば怒るのでしょうか。「人の怒りは義を全うしない」とあったような。私たちが間違った聖書解釈をしているのであれば、納得できる説明があればいくらでも改めるつもりです。私は自由主義神学書など見たこともありません。

創世記4:6-7「なぜ、あなたは憤っているのか。なぜ、顔を伏せているのか。あなたが正しく行なったのであれば、受け入れられる。」

Uテモテ2:25−反対する人たちを柔和な心で訓戒しなさい。もしかすると、神は彼らに悔い改めの心を与えて真理を悟らせてくださるでしょう。

とあるのです。もし私の態度に失礼な部分がありましたら謝罪いたします。お赦し下さい。

それに加えて、驚くのは、かつての某集団の人たちもやっぱり見ているんですね、ここを。もう20年前なのですが・・・。で、こんな場面で、富井氏に私のことを告発して、いまだに私に粘着してくるとは・・・。ほんとに驚きます。ほとんどストーカーです。

この集団の名前を出してもいいのですが、まあ、今回は伏せておきましょう。分かる人には分かると思いますが。私は何しろその集団のほぼ絶対的指導者の秘密を握っており、彼を批判したところ、「神に反逆する者」の烙印を押された者ですので、こうなると時が時ならばホント身の危険も覚えます(汗)事実脅迫も受けていますので・・・。

映画でもカトの修道院の隠微な世界を告発したショーン・コネリーの『バラの名前』(だそうです)とか、日本でもカト系某学園の内情を曝露した花村萬月の芥川賞作品『ゲルマニウムの夜』など、この業界に題材をとった作品はたくさんあります。私も文才があれば書いてみたいと思っているくらい。

何でクリスチャンが1%なのか。それは主が憐れみをもって制限されているからです。とても今の現状では人を養うことなどはできません。前にも言いましたが、進化論を批判するならばもっときっちりと勉強してからして欲しいし(私は創造ですよ)、クリスチャンになどとても経済や政治は任せられるわけがありません。そのためにはいのちの成熟と専門性の学びと訓練です。

再度言いましょう:古のヨセフもモーセもエジプト(この世)で学び訓練を受けたのです。神学オツムで世から切断されてはなりません。どんどん世と関わって、世から学び、世のものを神の幕屋の設立のためにぶん取る(合法的にですよ^^)必要があるのです。今の流行のチャーチスクールだのホームスクールだのは今後10年で実を刈り取ります。精神病理の専門家として言えば、それはちょっと寒くなる状況でしょうね。これはここで明言しておきましょう。

新約聖書でもっとも律法を強調したヤコブですらこう言っています:

憐れみは裁きに打ち勝つ。

クリスチャンの議論のあり方

午前中はいつもどおり、プールとサウナ。これをしないと1週間がシャキっとしません。92年からですから、もう13年。このスイミング・クラブはちょっと旧くて、平均年齢も高いのですが(おばちゃんばっかり!)、サウナもコースも「マイ」で行けますから。プールの目的は泳ぐこと。若い子を見ることではありませぬ。

女性コーチたちは体型がなんとも日本人でして、若い子にはとても夢を与えません(太目のほぼ5頭身だぁ・・・)。しかし贅沢は言えません。近くの高級クラブは設備もいいし、コーチもピチピチしているのですが、イモ洗い状態。皆さんキラキラと人の目を惹かないものがイイのです。午後はカミさんと次女とでいつもどおりチネチッタにて映画。

 * * *

ディスカッションではイロイロと刺激になりましたが、結構収穫があったと思います。同じ聖書を読みながら、これほどに異なる受け止め方をしている人がいることの発見は貴重です。しかしもしかしたらコチラの常識がおかしいのかも知れないと、下の科学者的姿勢でも言いましたとおり、ちょっと留保を残しておきましょう。

私たちにとって大切なのは交わりです。聖書の解釈の違いを超えて、交わりを維持すること−これが最も重要であるとウォッチマン・ニーも言っています。とかく同じ意見で群れる方が楽ですから、そちらに流れるのが人の常。これは世も教界も同じ。違った相手を受け入れることにおいて霊的な度量が問われるわけです。その人を通して流れる神の何かをミスすることのないように。

交わりの本質はいのちにあります。相手に何がしかの真実といのちが感知されるならば、開く必要があります。相手が悪意のある単なる戯言者であるならば、無視すればよいのです。その人が自らの言葉で自らを証しし、裁かれるだけです。この意味で意見の相違や神学の種類でキリストの体が分けられていることには、私たちはうめきを覚える必要があると感じております。

自然科学の方法

どうも神学オツムの方は、ひとつの神学のフレームを持つと、頑なにソレを御言葉に優先し、むしろ御言葉をそのフレームにはめたがるようです。

私たち自然科学者は逆です。なるべく一定のフレームを持たないことを心がけます。私はこれを「カラスの論理」と呼んでいます。自分がこれまでに見たカラスが黒かったから、一応「カラスは黒い」と主張します(「不完全帰納法」と言います)。が、もしかしたら白いカラスがいるかも、と留保をつけて置くのです。なにしろ世界中のカラスを見たことはないのですから。

対して神学オツムはいったん「カラスは黒い」となると、たとえ白いカラスを見ても、「いや、アレはカラスではないのだ!」となります。ヤレヤレ。

アインシュタインが出る前にもニュートン力学の矛盾は知られていました。が、彼以外の人はその世界(フレーム)から出られなかったのです。だから理論がコジツケでした。しかしアインシュタインは単純に実験による事実(光速度不変の原理)を認めてしまったのです。これを説明するためにコジツケをするのではなく、逆にこれからすべてをスタートしたのです。これが特殊相対性理論です。

しかし物理理論は必ず実験による検証と言う関門をくぐります。彼はパスしました(妄想ではなかったのです^^)。次に一般相対性理論を作りました。これは特殊が等速度系での理論であるのに対して、加速度系での理論です。これがやはり実験で確認されました。

しかし特殊相対論はニュートン力学を否定しません。むしろその中に吸収し、含むのです。だからロケットを飛ばすのはニュートン力学で十分です。同様に一般相対論は特殊相対論を否定しません。むしろ含むのです。こうして神の造られた世界の構造はますます精緻に理解されるようになったのです。

モーセ律法といのちの御霊の法則の関係も同じです。MS-DOSとWindowsの関係がご理解いただけないとは・・・涙、涙であります。どうも神学の方は永遠にニュートン力学(いや、それ以前)に留まりたいようですね。そこはとても不自由な世界なのですが。相対論の世界の方がはるかに自由であり、楽しめるのですがね・・・。まあ、あえて折伏はしませんが、少なくとも私の言っていることは正確に理解いただきたいと願うだけです。

(ホンネ:再建主義がすべての分野に適用されたら、これはもうニュートン以前に戻りそう・・・汗)

いやあ、驚きました!

富井さんとのディスカッションと言うか、どちからと言えば、私が聞き役に回っておりましたが、大変に刺激的でした。「モーセ律法はいのちの御霊の法則」であり、「旧約の人も新約の人も同じいのちを得ていた」・・・。これを読んで本質が見えましたので、もはや十分であると判断いたしました。(彼、大丈夫かな・・・)

私はニッポンキリスト教徒と接していて、いつも私の専門が疼かされます。実にニンゲンを見るわけですね。前にも言いましたが、それぞれの精神病理に従って神学を選んでいることはますます証明されてきます。繰り返しになりますが

ニ・ン・ゲ・ン−この不可解な存在。何故に神は・・・と。

本質に迫ってきました

富井さんとのディスカッションは、結局、レビ系の祭司制度でのモーセ律法に対して、よりすぐれたメルキゼデク系の祭司制度での律法とは何か、という本質的な論点に来ています。英語では律法もlaw、法則もlawです。

祭司制度の変更によって律法も変わると明確にヘブル書に書いてあるのです。しかもこのレビ系の律法は富井さんの言われる律法主義者の「律法」ではない。純粋なモーセ律法です。

エレミヤ書の新しい契約で心に書かれる律法はモーセ律法であると富井さんは言われたわけです。これは石に書かれたものが心に書かれるわけですから、まあ納得できないこともありません。

しかしヘブル書では祭司制度の変更によって律法も変更されるとあります。では、そのメルキゼデク系の律法とは何か?

富井さんの回答を待ちたいと思います。印象として、富井さんの議論はいのちの次元が忘れられているのですね。しかし契約神学についても学べましたから、収穫はありますね。

 * * *

楽しんでいます、『三国志』。私と漢文の先生で話していたら地理の先生までも興味を持たれ、読み始めました。ちょっとしたブームになっています^^

古典の魅力

三国志。横山光輝の漫画ヴァージョンですが、何と60巻あった!同僚の漢文の先生(中国語もペラペラの方)に聞いたところ、入門用としてはグッドだと。1年くらいは楽しめるかな・・・。これでイメージができたら、吉川英治あたりに、そしてハードボイルドタッチの北方謙三あたりに行こうかと考えている。

漢文は引き締まってカッコイイので高校時代結構好きだった。また漢文の影響を受けた作品を多く残した中島敦の『山月記』も好きだった。

隴西の李徴は博学才穎、天宝の末年、若くして名を虎榜に連ね、ついで江南尉に補せられたが、性、狷介、自ら恃むところ頗る厚く、賤吏に甘んずるを潔しとしなかった・・・

と始まり、虎に身を窶して後、友人に会い、

人間であった時、己は努めて人との交を避けた。人々は己を倨傲だ、尊大だといった。実は、それが殆ど羞恥心に近いものであることを、人々は知らなかった。・・・我が臆病な自尊心と、尊大な羞恥心との所為である。己の珠に非ざることを惧れるが故に、敢て刻苦して磨こうともせず、又、己の珠なるべきを半ば信ずるが故に、碌々として瓦に伍することも出来なかった。

己は次第に世と離れ、人と遠ざかり、憤悶と慙恚とによって益々己の内なる臆病な自尊心を飼いふとらせる結果になった。人間は誰でも猛獣使であり、その猛獣に当るのが、各人の性情だという。己の場合、この尊大な羞恥心が猛獣だった。虎だったのだ。これが己を損い、妻子を苦しめ、友人を傷つけ、果ては、己の外形をかくの如く、内心にふさわしいものに変えて了ったのだ。

と告白する。当時、自分の心を見透かされているようで実に怖かったが、一方でこの文章を声を出して読んでいると、何とも言えない甘美な味わいがあった。そう一種のナルシシズムの世界。

それから10年後主に出会うことができたが、主に出会っていなかったらおそらくこのままを実演していたことであろう。

収穫の秋

BBSの月光仮面さんは、そのHNから察しますところ、結構お歳なんでしょうか。昭和30年以前でしょうか。私は白馬童子はよく覚えていますが、月光仮面はウル覚えなんです。当時は東京は大森に住んでいまして、あの頃の光景がいつくか思い浮かびます。

「人生は短い」とのテーマでして、私などもすでに50一歩手前。そろそろ引退の用意をと考えてもいるわけです。まあ、あまり地上で何かを達成したいとは思っていないのですが、それでも今日のメッセージでも語りましたが、ノーベル賞を辞退してみたいですね^^

極私的にはつねにマイペースで来れたことは感謝です。カミさんにも言われますが、どうも学生気分が抜けなくて、フラフラといまだに浪人生活しているような感じです。家でも大学でもチャペルでもGパンですから。あの中村雅俊の『俺たちの旅』を引きずっているわけ。人からは、よく言えば若いとかあまり生活臭がないとか、悪く言えばガキっぽいとか言われておりますが。

ちなみにあの小泉チルドレンの筆頭頭の元財務省キャリア官僚で舛添氏の元奥様だった方(最近名前がよく飛ぶのだ)。もしかしたらキャンパスですれ違ったことがあるかも、完全に時代が重なっていますから。えらく貫禄があって、舛添氏も彼女の前では何も言えないとか。ところがドン小西氏が彼女のファッションを80年代で時間がストップしていると酷評してました。確かにあのヘアスタイルも、スーツもね。バブル前後です。引きずるのです、ニンゲンは。

しかし霊的には私たちはこの世では寄留者なわけでして、まさに旅路の途中なわけです。あまりここで何かを達成して未練を残すと、その時にレフト・ビハインドとなりかねないわけでして・・・。その辺のバランスが鍵かなと。

イロイロ思い巡らす秋なわけです。

(つぶやき:しかしココへ来てまた体重が戻ってしまいそう・・・)

お詫びとお知らせ

BBSではかなりハードな議論が展開されており、話に入れない〜とのお声をいただきました。そこで「何でもお話しましょう」はライトな話題を、神学や哲学や科学などのヘヴィーな話題は「ハードコア・セッション」でやろうと思います。ライトかヘヴィーかはどこで分けるのだ、との質問もあるでしょうが、まあそれは個人の判断に委ねると致します。

では、そこんとこ、ヨ☆ロ☆シ☆ク。

実は小生も、疲れるから・・・と言いつつも、こういった込み入った話もけっこう好きなんですね^^やり出すと相当にハマリますので、あえて避けているといった感じですかね。けっこう一応インテリなんですが、それが何か?

大きな収穫です

BBSでの再建主義者の富井さんとのディカッションは有意義ですね。私との一番大きな違いは、彼は

 「律法はいのちを与える」

と言われる。パウロは(Dr.Lukeも)

 「律法はいのちを与えない」

と言う。この違いはなんでだろう、と思うわけです。御言葉に明らかに反している。(ここで相手を理解しようと努めるわけです)で、続けて読むと

 「律法を行なうことによって得られるいのちと信仰によって得られるいのちは違う」

というわけ。なるほどとうなづいた次第。

しかし「律法を行なうことは聖霊に拠らなければ無理」なので、「旧約でも神は聖霊を送られてユダヤ人たちに律法を行なうことを可能とさせたと考えられる」と言うのです。また「律法は道であり、歩ませる原動力は霊であるが、それを行なわせる力がないことをもっていのちを与えないと結論づけることはできない。車が故障していてもマップは捨てるな。なぜなら車と言う原動力があればマップは役に立つ。」と・・・?この論理展開、分かりますか、みなさんは。

かくして「救済」の意味も違ってくるのですね。私の理解は「いのち(Zoe)を得ること」、すなわち「善悪の道からいのちの道への回復」なんですが、彼は善悪の道の上でもいのち(Zoeとは違う)を経験し、救済を得ることができるらしい。クリスチャンも実にイロイロなんだと感慨です・・・。

ただ感想を言えば、彼の議論は私たち客観性を最も重要視するサイエンティストから見ると、とても主観的ですね。なにしろ私の言っていないことをもって、私を「・・・とみなす」わけですから。してもいない犯罪を問われるようなものです(笑)他にも「と言った方が正当なのです」とか、「総じて言えば」とか、「・・・と考えることは可能です」とか。まあ、個人がどのように、総じて、考えるかは自由なのですが、サイエンティストは明確なエヴィデンスを求めるのです。

しかし一応冷静な噛み合う議論ができたことは収穫でした。議論のやり方のポイントは単純です。同意する部分と、不同意の部分を明らかにするわけ。別に相手を折伏する必要はありません。それは疲れますから。

で、私たちは神学者の学説や著書ではなく、御言葉によってジャッジするわけです。御言葉を認めないのであれば、それは相手の責任でして、これはもう別にディスカッションする必要もありませんから。

人生山アリ谷アリですが・・・

が300円の大幅安。米ダウが下がったのと、外人が手を引いたとの噂。でも当面の基調は変わらないでしょう。郵貯350兆の行く先もココしかないわけ。原油で潤った資本は行く先を探しています。自民大勝で改革が進み、ニッポンの金を巻き上げるチャンスが増えているのです。しかし私的には信用で買ポジションにあるヤツが来週期限なのです。どうも損が出てしまいそう・・・涙。う〜ん、株は人生だ!!!

 * * *

子供たちや、何とカミさんからも言われる:パパって仕事いつやっているの?まあ、いわゆるサラリーマン的には追われていませんし、講座制ではないので上司もありませんし、自分の時間は持てますし、個室はありますし、講義は学生と楽しんでいますし、メッセージも楽しい間だけやるつもりですし・・・そう遊びと仕事の区別はあまりないですね。ただし、今日だけはシンドイ。予備校の講義・・・。われわれはいわば「高等遊民」といった感じかな(おい、勝手に「高等」を名乗るなとの声も・・・)。青筋立てるのは、年に1,2度でいいかなと。

それにしても「一億総福音伝道」とか・・・、ちょっと敬して遠ざけたい。「今は終わりの時代だ、そんな生ぬるいことやっててどうする。滅び行く同胞のために己の十字架を負い、己を投げ打って、家族や仕事も捨てて伝道せよ・・・」とか、「祈って、祈って、祈り抜け!!!」とかね。この臭いはかつての一億玉砕の大和魂と同じ。あるいは現代の使徒預言者による宗教改革とか・・・。コワイですから、この世の人は逃げますよ。マチガイナイ!

ニッポンキリスト教の本質的問題は、神学の問題ではなく、この強迫性(ねばならない・かくあるべし)という精神病理にあるのだ。これが自家製の律法をご苦労様にも作り上げる。で、ネバネバ、ギスギス、トゲトゲ、ネチネチ、イライラ、そしてウツウツと。互いに粘着し合いますから疲れます。サラサラとパウダー感覚がイイのです、が。

アダムとエバはエデンの園でどんな生活を送っていたと思いますか?ちょとだけ想像して下さい。イエスはご自分のlifeを私たちに豊かに分与(ディスペンス)し、そのlifeを楽しむようにと、エデンの園以上を回復して下さったのです。イエスが地上におられた時、どんな内面生活を送っていたと思います?それを私たちに下さると言うのです!祈りもその主との親しいプライベートな会話でしょう?一言、「主よ〜」と呼べば、内側が甘く満たされるでしょう?涙、出ませんか?

(holiness)とはいのちの健やかさ(wholeness)。あのね、再建主義者が批判するような、「恵みとは自分勝手ができること」なんてやってごらんなさい。このいのちがたちまちシュンとしてしまうでしょう。いのちは神の基準を喜ぶのです。で、それを生きる時、ますますいのちは成長・増殖するのです。喜びがあればそれはいのちによって律法を行なっている証拠。律法を守ろうと自分で意識しなくてもね。このとき律法はむしろ慕わしく思えますよ。神の愛の表現ですから。バロメーターはJOYです!

神の御心はいのちを楽しむこと。イロイロな困難や苦難は避けられないでしょうが、その中でも楽しむことができるいのちです。楽しむクリスチャンを神は求めておられるのです!

わたしが来たのはひつじがいのちを得、しかも豊かに得るためである。

イロイロの世界と関わって・・・

人生イロイロ、男もイロイロ、会社もイロイロ、議員もイロイロ、で、クリスチャンもイロイロ・・・と。いやあ、本当にイロイロですよ。最近はもう体力気力が衰えていますので、それぞれに対応することはできなくなっております(汗)。ひたすら失格者にならないように、自分自身の救いの達成に努めるばかりです。人を自分の神学で折伏する余裕などはとてもとても・・・。

しかし不思議なことに、ここのアクセス数は1日に350を超え、メッセージを聴いてくださっている方もどんどん増えている(これはサーヴァーのログを見ると分かるのです)。私の語っていることは高等神学でもないし、お金になるわけでもないし、祝福を語っているわけでもないし、愛を説いているわけでもない。

ただ皆さんから受ける感想は「元気になる」とか、「自由を得る」と言うもの。疲れていてもいのちが満ちるのだと言われる。ある方は鬱でどうしようもなかったのに、シャキっと立てるようになったとか・・・。

あまり人のお役に立とうなどと大それたことは考えてもいないわけで、ただ楽しくやれるうちだけやろうと思っているわけ。楽しくなくなって、歯を食いしばるようになったらすぐにたたみます。しゃべっている方が楽しくないメッセージなど、聴かされる方はたまらないでしょうからね。

改めて、皆さんからの励ましのメールをありがとうございます。ここでまとめてお返事いたします。

Every blessing!

秋ゆかば・・・

ある方からメールが来た:「自分はルークさんをこれまでずっと恨んできました。でも分かりました。恨んでしまってすみません。」と。「う〜ん、何だ、これ???」

TVでもよく見る上智大の福島先生も、かつて患者のストーカーに粘着され、当時はストーカー規制法もなかったので、エライ目にあった、と著書にあった。先生はあまりのストレスでPTSDになったとか・・・。

私もしばしばこういったことは経験する。アメリカなどでは治療で虐待を受けたとかで、セラピストを訴える訴訟妄想患者も多い。大学でも学生と自室で話すときのために、ドアのガラスは素通しになっている。密室でのことを訴えられたらこちらは弁護のしようがなくなるため。

私たちのような立場は、ある種の映画のスクリーンみたいなもので、それぞれの理想像とか、父親像とか、期待像を映し込まれるわけ。これを投影と言う。その像に沿っているうちは"すばらしい人"となるのだが、ちょっとでもそのイメージに外れると、期待値が高いほど、裏切られたと感じ、失望から憎悪に変わる。分析用語で言えば、陽転移から陰転移になる。

(陰の声:ニッポンキリスト教の名牧師は、この投影を実にうまく受けることができる人なんですね。つまりはアイドル。永遠のアイドルの役柄を続けることができる御仁なのです。その点、私などはキャンディーズ、いや都はるみなわけ・・・わっかるかなあ〜?)

この豹変振りはある意味で驚くべきほどであって、私たちはつねにこのようなリスクを負っているわけ。つまり「Dr.ルーク」がリアルな私から分離して、勝手な投影されたイメージが一人歩きするのだ。

私の精神科医をしている義兄もつねにある種の危険を感じていると言う。昨今では妄想が即実行に移される率が高まっている。実際対応を誤って刺されてしまう医師もいるのだ。彼らとは決してガチンコをしてはならない。彼らの内に蓄積されたネガティヴなエネルギーを抜く必要がある。これがうまく抜けると実にコロっと変わって、穏やかになる。この豹変振りも驚くほど。

まことに人は一体は何故に・・・。またこのような人を神は何故に・・・と。ニ・ン・ゲ・ン−この不可解なモノ。

もの思ふ秋だなあ・・・はあ〜。

やや失望しました

今回BBSにあるとおり、再建主義の富井さんが私の文章を引用し、私が語っていないことを語っているかのように批判された。例えば、モーセ律法を悪者扱いするとか、律法は破棄されたから人間の標準で何でも自由にしていいのが恵みであるとか、私が語っているかのように。

反対に私が語っていること−例えば、モーセ律法はいのちの御霊の法則によって、つまり信仰によって全うされること−については一切無視されたままだ。そして彼のサイトで公に的外れの批判がなされているにもかかわらず、こちらはそこにカキコができないと言う不合理な状態がある。他人を批判し、後は一切シャットアウトといった非常識は少なくともアカデミズムではあり得ない。(常識の問題と言う前に、そもそもモーセ律法の義に反する思うのだが・・・)

喩えて言えば、私が「1+1=10」と書いたことに対して、「お前は間違っている。1+1=2だ」と批判し、私が2進法を用いていることを無視するようなもの。実は今回の機会をとらえて、彼との積極的な交流をと期待したが、どうもその後何らのレスポンスもいただけない。残念なことである。私は彼をかなり評価しているのだが。

かつて富井氏と救世軍の山谷氏が大論争を繰り広げた。互いに自説を主張し合って、今回と同様に富井氏が山谷氏をシャットアウトしてすれ違いに終わったが、その論争から学ぶべき点が多々あったので、今回もそのつもりでいたのだ。ただ御言葉がすべてを露にするので、私はこれ以上追求するつもりもないが(そんな気力もないかな・・・^^)。

思うことは、前に「最も本質的なこと」としてディスペンセイション主義者と再建主義者の論争のあり方を論じたが(論争自体は大いになされるべきであるが、そのあり方はかなり病的である)、その時も、また今回も感じることは、ニッポンキリスト教には知的にはかなり高い資質を持ち、聖書の解釈や神学をよく知っている人はそこそこいるが、情緒的に成熟した大人はあまりいないと言うこと。むしろ情緒的にはきわめて幼い。

ニッポンキリスト教の諸悪の根源はこの情緒的な幼稚さにあることを痛感している。神学の問題ではなく、精神病理的問題なのだ(私は、どの神学を選ぶかはその人の精神病理と密接に関係していると感じている)。いのちの成熟がない。私たちに必要なのは成熟した繊細な霊的感受性なのだ。

妄想と現実の間の消失

最近実銃や改造モデルガンで人が撃たれている。私は車で高速を使って出勤しているので、実はこのこと(撃つことではないですよ・・・)を考えたことがあった−もし隣にピタリと着けられて、ピストルで撃たれたらオシマイだな、と。

昔スピルバーグの出世作で『激突』と言う映画があった。車で出勤中のサラリーマンが、巨大トレーラーに粘着されて、命を狙われると言う恐怖を描いたもの。恨みによって粘着されることは、私も経験があるが、実に不気味と言うか、コワイことなのだ。

わけても車は実にコワイ。車に乗るとそのドライバーの精神病理が拡大されて表現されるわけ。高速などはまさにビョウキの人のビョウキが暴走する場。

そしてニッポンでもまさかこんなことが現実に起きるとは・・・。サバイバルゲームをしていたら人を撃ちたくなったとか・・・。人間が壊れてきている。妄想と現実の境目が消失しているわけ、この世でもキリスト教界でも・・・。実にコワイことだ。

自然界で最もコワイもの、それはニ・ン・ゲ・ン。