* 旧Dr.Luke的日々のココロ *
今晩のNHK『クローズアップ現代』の米国メガチャーチの報告はいかがでしたでしょうか?あるメガチャーチの牧師の言葉:
政治家も勝利したければ、私たちの言うことをきかなくてはならないのです。
がすべてを証言していると感じましたが。イエスの栄光は何処へ?
某団体からあのパワー・フォー・リビングのアーサー・S・デモス著『神が示される成功の秘訣』と称するパンフレットが送られてきた。ざっと見ると、経済的に繁栄し、幸福を得る秘訣は神を第一とすることであり、ついてはコレコレをなせと、御言葉を上げつつ説明してある。
うーん、なるほどこれがキリスト教である。お分かりになります?聖書的実行をすれば、あなたは繁栄し、成功し、ハッピーになれますと。対してウォッチマン・ニーは言っています、「神が命じるのであれば、私は地獄にでも行きたい」と。ニーの最後とパワー・フォー・リビングと、どちらが神の栄光だろう?キリスト信仰の究極は「キリストと自己のどちらを選ぶか」であり、キリスト教の本質は「自己を救うために聖書の教えを行う」であります。この冊子に終に出て来ない御言葉は次の御言葉です:
わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の魂(Gk)を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために魂(Gk)を失う者は、それを救うのである。
しかしキリスト教は実によくできている。人の肉を巧妙に刺激し、喜ばせる。しかし神の国ではけっしてキリストと自己(セルフ)は並び得ない。ひとつの国に二人の主人はあり得ないからだ。が、キリスト教はこれを実に巧妙になそうとする。それは神を利用したビジネスであり、実は最も深刻な罪を犯しているのだが、それに気がついていない悲惨さを抱えている。自分は聖書に従っていると言う自己が活き活きと生きている!?かくして本質的にキリスト教は自己欺瞞の構造を抱えている。
前にも書いたが、真の福音、あるいはキリストにとってもっとも巧妙な阻害要因は、実は創○学会でもなく、エホバの証人でもなく、自己の正統性を誇り、正しい教理を守り、自己の努力の上に"何か"を建て上げているキリスト教そのものなのだ。
7月8日分の
・ワーシップ
・メッセージ
最近のLCでは内部からの問題指摘が活発となり、様々な事実がサイトなどで公表されるに至っている(→情報サイトのリンク参照)。私も知らないイロイロな事実が隠蔽されている事に驚きを隠し得ない。
そして興味深い点は、リーによると、自分は各時代に神がただひとりだけ立てた真理の回復のための器であり、神のThe Oracleであり、自分を通して神が回復の御業を推進している。自分が語ることは他の誰にも語ることのできない啓示であって、従来のキリスト教会はバビロンであり、私たちはそこから出て地方合一の立場に集められた者たちである・・・(→リーの言葉)。と誇るわけだが、なぜか最近、自らが堕落して死んでいるキリスト教とする人々からの認知を懸命に求めているようだ。
例えば、フラー神学校が認めた、CRI(Christian Research Institute)が認めた、ECPA(Evangelical Christian Publishers Association )に加入した・・・などなど。やれやれ、これで自分が自己撞着を起こしている事に気がついていないとすれば、彼らの病状は重いと言わざるを得ない。あたかも宗教改革当時のルターが当時のカトリックから正統のお墨付きを得るようなものだろう。
フラー神学校に関しては、CTの創始者ダビデ・張氏も教授に着いており、CRIについては創始者のWalter Martin教授とは訴訟の可能性を秘めた対立関係にあったのが、教授亡き後きわめて疑問の持たれる手法でCRIの所長の地位を得たHank HanegraaffがLCを認めたのである。彼はMartin教授時代の所員らを強引に解雇し、彼の娘さん夫妻ともトラブルを起こし(→娘さん夫妻のサイト)、さらには刑事事件的な疑惑までも持たれている人物である(→こちら)。またECPAの加入に際しては、同会に献金をしており、この加入については欧米の専門家が疑義を呈している(→こちら)。ついでに指摘すると、85年に金にモノを言わせて勝訴した裁判のリー側証人J.Gordon Meltonは、何と当初のオウム真理教を擁護していた"カルト専門家"である!サイエントロジーなどが証人としてよく使っている(→こちら)。
面白いのは、これらの動きがCTのダビデ・張とそっくりであることだ(こちらとこちら参照)。彼も自分こそは神の真理の回復の業をなしているとし、CTの母体ACM(Apostlos Campus Ministry)は、クリスチャンたちにも"福音"を伝えて、自分たちへと回復しようとするらしい。さらに資金やIT技術の提供によりWEAの北米理事についてるわけだ。構造的にCTとLCはきわめて類似しており、さらに行動的にもそっくりの動きをしている。
かつてリーは「自分のライフスタディを読めば聖書は不要」と豪語したほどに、彼らは聖書を読むのにライフスタディと言うフィルターがかかるわけで、よって彼らの語る事は、リーのオウム返しとなる。行動と思考のパタン(臭い)がリーのものであり、実に興味深い。一方ダビデ張の教え(これが隠されているのだが、一部の脱会者の証言によると)こそが、聖書の真理を解いているとするCTの母体であるACMの教義。うーん、実に似ている。そして最も深刻かつ滑稽な問題は、自己撞着に自分自身が気がついていない点。やたらと難しい事を語っているかと思うと、やっていることが実に幼稚なのだ。言葉と行動の乖離性。これらが彼らの病理であるカプセル化現象の最たる兆候なのだ。
まあ、私の語っていることの真偽を確認されたい方は、LCの集会にとぼけて出てみたらすぐにお分かりになるでしょう。集会所に入ったとたん、プーンと臭ってきますから。「おお、主ぅ〜、イエスよ〜、アーメン、ハレルヤ!(繰り返し)」と。
クリスチャン・トゥデイによる山谷少佐への訴訟の圧力は、少佐が調停を蹴ったことにより、いよいよ提訴かと思われましたが、現在までのところ、どうも不発のようです(→私の診立て)。少佐は現在Blogでの新たな情報提供を控えていますが、着々と興味深い情報が集積されております。
一方、私の関係しているローカルチャーチについては、久ぶりにかの場所を覗いたところ、懸命にフラー神学校によって正統だと認められた、と喧伝していますね。ちなみにCTのダビデ・張もフラー神学校の教授をしているわけです。ウイットネス・リーは自分の指導下にあるローカルチャーチ以外を、すべて偽りの教会にしてバビロンと断罪し、自分だけが見た回復された真理の"啓示"を誇るわけですが、何ゆえに従来の機関からのお墨付きが必要なのでしょうか?自己矛盾を起こしているのですが、それ自体にも気がつかず、懸命に正統性を主張しているわけです(→参考資料@、参考資料A)。
その上、某所で雲さん(ハンドルネーム)が立てた私の告発スレまでも持ち出してきました。これはいずれ誰かがやるだろうと予想していましたが、批判者のクレジットを貶めるための常套手段です。山谷さんもCT側から同様の工作を受けています。実はすでに昨年の段階でこれを持ち出そうとした御仁がいたのですが、何とその時、雲さんご本人がそこに出て下って、私のことを擁護して下さったのです。
これにはいたく感動しましたが、本件で彼らに累が及ぶことは本意ではありませんので、その旨伝えると、彼は「自分の立てたスレがルークさんに不利に用いられることを懸念している、そのような事のないように祈っている」とまで言って下さったのです。前にもちょっと書いたのですが、このことでは本当に主をあがめた次第です。彼の真実さをも今回きちんと証ししておきたいと思います。もしかするとここにも覗きに来ているローカルチャーチ側の工作員もいらっしゃると思いますが、私はあなたがたのことを主にあって祝福したいと思います。真に真理にあって安息していれば、私が何を語ろうとも、リーの真実を暴こうとも、何ら影響を受けないはずでしょう。工作などする必要もないはずです。ご自分が欺かれていることを知り(それを認めるのは十字架によって真に自己を否む必要があります)、主にあるまことの自由へと立ち返ることができれば幸いです。リーのライフスタディを読んで聖書を知ったと思うのでなく、御霊に頼りつつ自らの頭で考え、御言葉と対峙してください。何よりもウイットネス・リーと言う人物の本性を見抜くことができるように祈ります。
どうも山谷さんのCT問題追求により、さらにニッポンキリスト教そのものが追求される必要がありそうだ。ここでも何度も指摘したとおり、フェイク(はりぼて)である。
人はとにかく高い物を建てたがる。CTをバックアップしておられるVIPクラブの広告塔佐々木満男弁護士は、銀座に30階建てのVIPクラブビルを建て、VIPクラブのスペールシャトルを所有し飛ばす事がビジョンだとか。ちなみに英国からゲストをランドマークタワー69階の展望台にお連れすると、「なぜこんな高いタワーを建てるのですか?」と聞かれる。私は「分かりませんが、力のデモンストレーション、つまりバベルの塔でしょう」と答える。
対して主イエスのご性質はどうか。彼は言われた、「わたしはまことのぶどうの木。あなたがたは枝である」と。ぶどうの木をよくよく見ていただきたい。けっして上へ上と伸びる木ではない。それは地上のやや上を、横へ横へと延びるのだ。檜や松に比べても、見栄えもけっしてよろしくない。ぶどうの木の成長とは、高くなることではない。ただひたすら横へ横へと伸びること。今回福島の山小屋でもこのビジョンが共有された(→こちら)。
山に登る人は、高い山ほど血が騒ぐとか。人の肉はヴァーティカル(垂直方向)を志向する。男は特に、「高さ」が物差しであろう。まあ、これが悲劇でもあり、喜劇でもある男の性であるが。しかし御霊はホリゾンタル(水平方向)を志向する。主のご性質は低きを選ばれるのだ。
時代はすでにメガフェイクの時代に入っている(→参照@,A)。よくよく目を覚まして欺かれることがないように。野心や色気や下心を持っている人は容易に騙されるのだ。この時代に霊的いのちにあって生き延びる秘訣は、一重に自分の心の動機を見張ることによる。そして意識的に人が喜ばないこと、人が評価しないこと、人から嘲られること、人の目に見栄えのしないこと、を選べば間違いがない。水は低きに流れるが、いのちも低きを選ぶからだ。
私たちと月に一度パン裂きを共にしている韓国の天声教会は、元々韓国の長老教会の張牧師が設立されたものだそうだ。私が昔2年ほどいた寿町のカナン教会も、実は韓国の天声教会から遣わされた徐牧師が開いたのだった。
私は意図せざる形で2001年春にそこを離れざるを得なかったが、昨年、いろいろな事情があり韓国の兄弟姉妹たちも出て来られた。そこで私に牧師をして欲しいとの要請があったのだが、何しろ私はニッポンキリスト教的には真っ赤な偽牧師ゆえ、また韓国語もできないゆえに、これまでずっと固辞しているわけ。
今回、その天声教会の主任牧師の張氏が見えているので、夕食の会食会と相成った次第。
で、早速、今般話題のクリスチョン・トゥデイについて尋ねると、なんと、そんな新聞はまったく知らないとのこと。張氏は正式な韓国の長老教会の教職だから、韓国の重要な業界新聞は皆購読しているが、CTは初耳だとか。ところがCTは自称韓国で一番購読数の多い新聞であると喧伝するわけだが、一体どうなっているのか知らん(笑)。ダビデ張などももちろん知らないし、そもそも最近の韓国では異端が普通の顔をして一般の教会に侵入する手法が頻繁に取られているとのこと。と言うわけで、ますますクリスチョン・トゥデイって何なの、と疑惑が膨らむ次第。
その張師も私と同じような危惧を、現在のキリスト教界に対していだいているとのこと。人に媚びる、人を気持ちよくするヒューマニズムの"福音"が溢れ、魂と霊を切り裂く十字架がない。牧師は教理は知っていても、御言葉そのものを知らないし、ましてその力を自らが経験していない。格好だけの説教に明け暮れ、動機は自分の教会をデカクすること、つまりはキリスト教商売。アメリカあたりの流行を追っかけ、聖会だの、何とかドリヴンだの群がる連中が多いが、これは韓国でも同じだとのこと。
対して彼は単純に御言葉を語り、御言葉をまくことを淡々と繰り返す必要を訴えていた。後は御言葉がそのいのちの力によって人を変え、建て上げていく。よって、いわゆる牧会と称するコントロールなどはまったく不要なのだ。
さらに社会も、現在の韓国は出生率は日本よりも悪く、年金問題も深刻。アメリカ式の自由主義が放縦と取り替えられ、国をまとめる背骨も消失しつつあるとのこと。また北朝鮮の状況が微妙になってきているが、いずれなされるであろう統一へ向かっての準備が着々となされているとのこと。しかし具体的なことは一切表には出せない。なぜなら北はそれを挑発ととらえ、政治的プロパガンダに利用するからだ。現在ジョンイルさまの状態が悪いらしいから、統一は予定よりも早まるかも知れないとのこと。彼らとしては後継者のことは一切考えていないらしい。でも、実際に統一がなされたら、現在の韓国はドイツのように耐えられるかどうか、とも。
・・・といったことを話し合って、韓国の本場の焼肉をご馳走になった次第。いやあ、実に美味いが、かなり辛くて、今胃が焼けている・・・。
ドクターKさんの「みことばざんまい」に驚愕の世界の記事があった。驚きますね。
でも、このような倒錯が倒錯と感じられるうちはまだイイ。最も深刻なのは病識を喪失し、倒錯と感じられなくなる状況である。ドクターKさんも、パーパス・ドリヴンだの、パワー・フォー・リビングなどの"おかしさ"を指摘されているが、少なくともこれらについて疑義を呈しているのは、私たちくらいであろうか。ニッポンキリスト教一般には歓呼の礼をもって迎えられている。
おかしいと感じなくなること―これがもっとも重篤なのだ。キルケゴールでないが、"死に至る病"はクリスチャンと呼ばれる人々が、リバイバル音頭のバブル踊りで霊的不感症となる中で、着々とこの業界を犯している。
TOWSの要点を2時間でまとめていただきました。題して「契約の子孫」と「預言者の子孫」です。神のすべての約束と契約はキリストにあってアーメンとされました。キリストは神のアーメンであり、この方のいのちとなされた事がすべて私たちのものであることを見るとき、私たちは自分がどのような存在であるかを知ることができます。
TWOSは聖書のパースペクティヴを得る事ができるコースです。そして同時に神から直接に語っていただける訓練をも得ることができます。神と私たちの間にいわゆる預言者などは不要です。今日自称預言者や使徒には十分すぎるほどに注意を払うべき時代です。
なぜなら聖書は『それらの日の後、わたしが/イスラエルの家と結ぶ契約はこれである』と、/主は言われる。『すなわち、わたしの律法を彼らの思いに置き、/彼らの心にそれを書きつけよう。わたしは彼らの神となり、/彼らはわたしの民となる。
彼らはそれぞれ自分の同胞に、/それぞれ自分の兄弟に、/「主を知れ」と言って教える必要はなくなる。小さな者から大きな者に至るまで/彼らはすべて、わたしを知るようになり、
わたしは、彼らの不義を赦し、/もはや彼らの罪を思い出しはしないからである。』」
神は「新しいもの」と言われることによって、最初の契約は古びてしまったと宣言されたのです。年を経て古びたものは、間もなく消えうせます。
と語っているからです。王なる方、祭司なる方、そして預言者なる方が私たちのうちにおられるのです。今日特別の"油注ぎの器"が必要でしょうか?もちろん不要です。
まず今週の主日のフェローシップの光景のビデオ映像です。
明日はThe Way of The Spiritのカンファレンスです。Pennyさんにリードしてもらいます。現在日本の各地で学びをしておられる方々のために、いつもどおりネットでもお聴きいただけるようにします。
<脱宗教>、<脱いわゆるキリスト教儀式>を英国のノーウィッチでは実行しています。何しろ日曜日のいわゆる礼拝をしていませんから。礼拝に出席するしないはクリスチャンの歩みにとって本質ではありません。まあ、牧師の懐具合には影響するでしょうが(笑)。
主イエスはこう言われました:
婦人よ、わたしを信じなさい。あなたがたが、この山でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る。・・・しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。なぜなら、父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ。神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない。
礼拝の場とは、私たちの至聖所である霊なのです!ここで親しく主イエスとお会いし、甘い交わりを持つ事ができるのが、新約のクリスチャンの特権です。Mr.Sugarが言われるとおりです。
今日は愛餐会でして、賛美に、証に、ショートメッセージにと、イロイロと豊富でした。先週に続いて英国のPenny姉妹に交わっていただきました。ワーシップとメッセージと証が収録されています(→コチラ)。またミッション・ラザロの元ホームレスのMさんも証して下さっています。実に味のある兄弟でして、抱腹絶倒の証しです。
ウイットネス・リーのローカルチャーチは世界的にも本邦でも、すでにけっこう有名ですが、別のローカルチャーチがありました。リーのローカルチャーチは"The Church in ○○(○○に在る教会/召会)"と称していますが、彼らは"The Church at ○○"です!?"in"と"at"の本質的な相違は・・・?と、言うわけですが、やはり現在のリーのリーカルチャーチと同じく、どちらが正しいか、あるいは聖書的かで、"検疫"をし合っているようです。
・The Church at Hebron
・The Church at Antioch
クリスチャンであると言われている台湾の李登輝氏が靖国神社を参拝(昨日だったら大変だった・・・)。同氏の兄が祭られている事を感謝すると言っている。
李登輝については、ウイットネス・リー(李常受)も自分の教会のメンバーにしようと画策したことがあるが、失敗した。どうも自分の教会や団体に政治家や大企業の経営者など、世での有力者たちを招き入れようとする動きが目立つ昨今である。しかるにパウロはこう言っている:
神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです。
兄弟たち、あなたがたが召されたときのことを、思い起こしてみなさい。人間的に見て知恵のある者が多かったわけではなく、能力のある者や、家柄のよい者が多かったわけでもありません。
ところが、神は知恵ある者に恥をかかせるため、世の無学な者を選び、力ある者に恥をかかせるため、世の無力な者を選ばれました。
また、神は地位のある者を無力な者とするため、世の無に等しい者、身分の卑しい者や見下げられている者を選ばれたのです。
それは、だれ一人、神の前で誇ることがないようにするためです。
有力者がテレビで成功を証し、大層なパーティーを開いて、果たしてニッポンが霊的に覚醒するとでも考えているのだろうか。愚かなものである。人の浅知恵は滑稽ですらある。そしてこのような空気がCTなどの侵入を許すのだ、色気のある人々によって・・・。 またパウロは言っている: けだし、人の評価はしばしば破滅をもたらす。
* * *
『週刊新潮』によるとあのZARDの坂井泉水氏は、やはり表の顔と裏の顔の間の乖離が激しく、本人も葛藤が深かった模様。作詞も自作ではなく、ゴーストライターがいたようだ。イメージが一人歩きしてしまうことの悲劇。人からの評価はむしろ得ない方が、自分のペースで自由に生きることができるのだ。栄誉を受けるときも、辱めを受けるときも、悪評を浴びるときも、好評を博するときにもそうしているのです。
わたしたちは人を欺いているようでいて、誠実であり、人に知られていないようでいて、よく知られ、死にかかっているようで、このように生きており、罰せられているようで、殺されてはおらず、悲しんでいるようで、常に喜び、物乞いのようで、多くの人を富ませ、無一物のようで、すべてのものを所有しています。わたしたちは、自己推薦する者たちと自分を同列に置いたり、比較したりしようなどとは思いません。彼らは仲間どうしで評価し合い、比較し合っていますが、愚かなことです。
英国のノーウィッチからPennyさんが来られましたので、私のメッセージはショートです。彼女がノーウィッチの状況をシェアして下さっています。ワーシップとメッセージが一緒になっております(→コチラ)。
ノーウィッチでは、いわゆる主日礼拝をしていません。またいわゆる集会所あるいは礼拝堂もありません。それぞれの家々、あるいはパブで相互に交わり、また未信者の方にアウトリーチしています。このビジョンは私のものと非常に似ておりまして、不思議な導きを覚えています。そういった主の名における交わりがあちこちに生まれる事を夢見ております。この交わりは誰のカバリングにもなく(主だけです)、教団などの組織も作らず、まったく自律的に、それぞれが主に直結して歩む群れです。ニッポンキリスト教の公認は不要です^^ただ主の約束の言葉:
二人または三人がわたしの名へと(eis)集まる時、わたしもまたそこにいるのである。
に信頼すること−条件はこれだけです。そして新約の奉仕者に必要なものは の御言葉によります。世界に目を向ければ、とても面白い事が起きているのです。狭い世界にいると何かと視野狭窄を起こして先鋭化してしまいます。この1ヶ月間は私たちも主によって攪拌していただきたいと思います。独りで何かできるなどと思う資格が、自分にあるということではありません。わたしたちの資格は神から与えられたものです。神はわたしたちに、新しい契約に仕える資格、文字ではなく霊に仕える資格を与えてくださいました。文字は殺しますが、霊は生かします。