* 旧Dr.Luke的日々のココロ *
と題するメッセージを始めました。やや、というよりかなりハードコアな内容です(ウォッチマン・ニーの理解に準拠しています)。真に救いの安息を得ていないと聞くことが難しいでしょう。ニッポンキリスト教界、不安と恐れを強く持っている人が多いのです。そのような方はパスして下さい。なぜなら
乳を飲んでいる者はだれでも、幼子ですから、義の言葉を理解できません。固い食物は、善悪を見分ける感覚を経験によって訓練された、一人前の大人のためのものです。
とあるとおりです。恵みがあれば最後まで語ることもできると思いますが、あるいは途中で中断するかも知れません。これをご理解いただければ、モーセ律法による石打ちの刑を復活する必要がないことが分かるはずなのですが。神は愛であり、同時に義であるからです。
掲示板にスパムが多くて削除し切れませんので、URLを一時変更しました。直接入っている人は訂正をお願いいたします。
・ワーシップ
・メッセージ
再建主議は超民俗化かつ普遍化されたモーセ律法をそのまま社会の司法制度として適用すべしと唱えるわけですが、富井さんがこうおっしゃっています:
Q.一応わかりましたけど、つまり神による統治社会が来たら、石撃ちの刑を復活させる、と言う事でしょうか。
A.石打の刑というと、何か野蛮なイメージがあるかもしれませんが、しかし、神が聖書の中において命令されたのです。どうして「野蛮だ」と、僕の分際でしかない我々が叫ぶことができるでしょうか。
処刑は、公開で、しかも、社会の構成員がじかに手を下すべきです。そうすることを命令した神の知恵は、我々の知恵をはるかに超えています。
ここで現代の専門家による死刑執行などの司法制度が不備であるとしているわけです。
私たちはこう理解しているのですね。レビ系のモーセ律法(石に書かれた律法)に代わって、メルキゼデク系の律法(心に書かれた律法)、すなわちいのちの御霊の法則が私たちの内に御霊と御言葉によって働くわけです。このいのちの御霊の法則はモーセ律法の上位互換であり、この法則に則れば自動的にモーセ律法、否、さらに高いレベルの神の基準が満たされるわけです。これを私はMS-DOSとWindowsの関係で説明したわけですが、ついに理解されませんでした。
このいのちを生かし出すことが私たちの証しであり、このいのちを人々に伝えることが私たちの任務であるわけです(御国の拡大)。なお、再建主義との対話はこちらをご参照下さい。いやあ、しかし市民が自らの手で石で公開処刑せよとは・・・スゴイ主張です。この調子ですと、中絶を行った女性はやはり公開死刑に処するべしとなるわけでしょうか?
土曜日午前中は日テレの『ぶらり途中下車の旅』をもう10年以上いつも楽しみにしている。前にも書いたが、人が生きている温もりを感じる番組なのだ。手作りの、とても儲からないような商品を売っている店とかを見ると、心の底からホッとする。
その後いつもどおりプールとサウナ。この施設もかなり年季が入っており、オジサン・オバチャンが実に多い。もう92年からの付き合いだが、なにしろマイコースを持てるわけ。ささくれ立った壁とベンチのサウナもほとんど独占状態^^(→こんな話題もありましたね)。煌びやかな新しい施設もあるのだが、何か無機質な感じで私は好まない。
安倍さんが統一協会の聖会(?)に祝辞を送ったことは前に話題になった。脱カルト協会のMLで回ってきたのだが、今回は何と山崎氏が統一協会ルートで北朝鮮を訪問したとのこと(→有田芳生の『酔醒漫録』)。ワシントン・タイム紙は統一協会系のメディアなのだが、その社長がお膳立てをしたらしい。統一協会はアメリカの福音派あたりにも金を提供することによって食い込んでいるらしいし、かなりしたたかなのだ。
今回の「パワー・フォー・リヴィング」など、どうも金に物を言わせる伝道のあり方は、私的にはとても違和感を覚える次第。福音は対面の人から人への手渡しであるべきと言う古い固定観念にいまだに縛られているわけ。手作りの温もりと言うか・・・。
『ぶらり途中下車の旅』のように、ぶらぶら歩いていると人と人が主の摂理の中で出会い(サウルとサムエルの出会いのようにかな?)、その関係の中で主が語り出され、いのちが伝達されていく。私はこんなコツコツとした、草の根的な福音を願っている。大きな聖会で自分たちの力を誇示する必要もないし、大きな教団や組織を作る必要もない。カバリング教会をアチコチに抱える必要もない。2,3人が単純に主の名によって集まるだけ。油塗りがなくなったらさっとたためばよい。お互いの関係の中に主がおられ、主のいのちと互いの生を共有すること−これが教会なのだ。
昨年末の事件については、私の知人でもアーサーのバイク・ミッションに入り、アーサーを真似て刺青を入れ、妻と娘を置いて失踪した兄弟がいましたので、他人事とできない部分があるのですね。彼はバイク・ミッションのサイトの写真にも出ているのですが、最近ようやく居所が分かってきたようです。それで前々からアーサー・ホーランドや松沢さんのメッセージを時々拝聴しておりました。
まあ、彼らはいわゆるニッポンキリスト教の牧師たちの金太郎飴説教とはかなり違いますし、本音をぶつけ、愛と人情にも溢れ、確かに人々を惹きつけるでしょうね。対する私などは、愛がなく、クールで冷たく突き放されると感じられる人が多いようでありますが・・・(反省)。彼らの、「神学校なんか出ててもろくな者になりゃしない」とか、「ジーザスは好きだがキリスト教は嫌いだ!」、には少なからず同感なのです。
しかし、故人をあれこれ言いたくはないのですが、一言だけ言わせていただきますと、彼らは危険ですね。それは彼らの教えなどが危険と言う意味ではなく、彼らが危険な場所におり、また危険なことを無自覚にしていると言う意味です。盲腸しか切ったことのない外科医が肝臓を切るようなものでしょうか。あるいは放射能のある場に防護服なしに出るようなもの(霊的領域では皮ジャンは役に立ちませんし、クサリでは悪魔は縛れません)。下に書いたような人々によるマニュピレーションに、その情の熱さゆえに容易に振り回されてしまうのです。つまり彼らはあまりにも無防備であり、裸同然です。
松沢師のメッセージもイエスに対する愛と人々への情があると共に、内側に自己破壊的な衝動がしばしば感じられます。おそらく自分でも制し得ないモノがあることを薄々感じておられたのでしょう。また説教の特徴は、感情には訴えるのですが、御言葉がほとんどない。神学などいらんと言いつつ、旧約ではこうだ、新約ではああだと言ったややこしいこともいらん、とまで言ってしまっています。御言葉によらず徒手空拳で闇の勢力に裸で立ち向かってしまわれたような今回の印象ですね。
フロイトは晩年、人間性の本質はエロスとタナトス(自己破壊的死への願望)と指摘しましたが、まさにそれらを感じさせる事件でした。遺族と成増教会の皆さんは今きわめてつらい時期と拝察しますが、主の慰めと新しい道が開かれることを祈ります。
と題する記事が今週のTIME誌にあった。方やオックスフォードの進化論者リチャード・ドーキンス(このBlogでも何度も紹介しているが、例の『利己的な遺伝子』でミームを提唱した学者)、方や国際ヒトゲノム計画の代表フランシス・コリンズ博士。彼はクリスチャン。
ドーキンスはひたすら物質界での現象を積み重ねるならば神の不存在を結論すると主張し、生物の巧妙なデザインなどもすべて進化論的に説明できるとする。コリンズは科学と信仰は矛盾しないとし、進化論では、例えば人の高度なモラル性を説明できず、その価値観の源である時空間の外に存在する神を認める必要があるとする。・・・と言うわけで、いつもどおりのすれ違いの議論が延々と続き、ややドーキンス側から人格攻撃も・・・と危ぶまれたが、TIME誌が介入。で、両者の最後の言葉が面白い:
コリンズ:ドーキンスの主張する自然科学の見解には同意する。が、私は25年以上に渡って科学者また信仰者として生きてきたが、科学では私たちがなぜ存在するか決して分からない。私はこの解答を霊的領域で見出した。しかしこれは私が科学者として妥協することでは決してない。
ドーキンス:私は私の提示した説明で自然界のデザイン性も自然定数の調和も十分理解できると考える。もし神がいるならば、神が降りてきて十字架で死ぬと言った事件はとても彼の壮大性にふさわしくない。それはあまりにも偏狭である。神がいるとしたら、これまでの神学者が提示した神よりももっとはるかに大きくかつ理解し難い存在であるだろう。
科学と信仰。私にとっても何ら矛盾なく収まるのですが。むしろ矛盾し対立するのは、科学と神学であろう(心あるサイエンティストは躓きの石イエスに躓く前に、キリスト教神学でつまづくでしょうね、やれやれ)。そして私たちの信仰の核心はここにある。
神が肉体を取られ、人となったこと。
そして最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと
これを啓示するのは血肉ではなく天の父である。
今日の日経紙一面はみずほ証券と新光証券の合併話。これで預かり資産業界4位の31.5兆円となる。下に紹介したキリスト教界の弱体化対策も一致によって結集すること。すると数十名の弱小教会は互いに合併し―これがなかなか大変でしょうね、どっちがどっちに吸収されるかで主任牧師がどっちになるかとか・・・(汗&笑)―かくして千人ニ千人、いやもっともっと一万人二万人のメガチャーチとなって、この世に対して"証し"するわけだ。
究極には再建主義のように憲法をモーセ律法に基づいて書き換えて、神聖政治を行い、地を支配する。これが神に委ねられたキリスト者の任務であると。かくして地球上にはキリスト教国家、あるいは教会国家があちこちに築き上げられ、それぞれメガネイションとなるべく、小さな国家はまた互いに合併し・・・。う〜ん、これは壮大なストーリーではある。が、しかし、どこかこわくないでしょうか?こう言われた主イエスに似つかわしいでしょうか?
わたしの国は地上のものではない。・・・野の花を見よ、栄華を極めたソロモンもそれほどに着飾ってはいなかった。
ローカルチャーチに、クリスチャン・トゥデイに、何とかデモス財団に・・・と。年始早々忙しくなりましたね(苦笑)。このギョウカイ、どうもわけの分からんことが多発すると前々から言っておりますが、わけの分からん団体も竹の子状態。私の願いは山小屋に引き篭もることなのですが、いつになるのでしょう・・・(遠い目で)。
どうも解せませんね。今週の木曜日に会談を予定しておりましたが、社長の高柳氏から延期の依頼が入りました。何でも証人が多過ぎると・・・。何というか勝手なもの。こちらはそれほど暇人ではないのですよ。
それにしても実におかしいですね。自分から山谷少佐に申し込んだ会談であり、自分たちの正当性を認めてもらう意図であれば、多くの証人がいた方がよいでしょうに。どうも訴訟をちらつかせる態度といい、住所の件といい、これまでの高柳氏や矢田氏の態度と言い、限りなく黒に近いとの印象をまたまた深めました。
何を恐れているのでしょう、この人たちは。計らずもローカルチャーチとクリスチャン・トゥデイの両者と関わってしまいましたが、共に同じ病理性と違和感を感知することは先に書きました。高柳さん、ここを読んでおられると思いますので、今一度ご自分を神のみ前で吟味されることをお勧めします。あなたは自分でますます墓穴深くしているのです。
「2ちゃんねる」におけるわがKFCスレッドでは、ローカルチャーチ関係者と思しき人々によるあまり上手ではない工作がなされており(苦笑)、ローカルチャーチが諸機関から正統であると認められたと盛んに喧伝しておるようです。
が、これには裏がありまして、特にクリスチャン・リサーチ・インスティチュート(CRI)については、かつての米国のカルト研究第一人者であったWalter Martin教授亡き後、大いに疑問視されている人物Hank Hanegraaffが、大いに疑問視される手法で所長につきました。彼自身の疑問点はコチラを。
また例えば、85年に名誉毀損訴訟で勝ったとしていますが、これはリーが金にものを言わせて相手が破産に追い込まれ、被告不在の場で一方的な主張が通ったのでした。その時の証人がJ.Gordon Meltonと言ういわくつきのカルト研究者で、サイエントロジーなどがよく証人として使う人物。彼はかつてあのオウム真理教すら擁護したのです。ちなにみ彼はオカルトがかっておりまして、ドラキュラを趣味としています(→コチラ)。当時の新聞記事。
・ロサンゼルス・タイムズ紙
・サンフランシスコ・エグザミナー紙
で、下にも書きましたが、今般、60名以上の福音主義の学者たちが何と公開書簡を送り、ウイットネス・リーの偽りの教えを捨て去り、訴訟による圧力をやめよと求めているようであります。何だかアメリカでは25,000ほどのメンバーがいるようですが、ローカルチャーチもかなりメジャーになってきている印象ですね^^
・ローカルチャーチ情報
・福音主義の学者による公開書簡
昨今のタイタスの検疫事件の様子などを見ておりますと、閉鎖空間(カプセル化)による病理性が増長しており、自らのおかしさに気がつかない(病識の欠如)ようですから、まだまだわけの分からん事件が起きてくる可能性がありますね。日本でもすでにこのような病理現象があったのですから。
クリスチャン・トゥデイ紙にはなぜかウイットネス・リーの著作と彼の『回復訳』の転載があったようですが、この会社、実に不思議です。まさか関係ないとは思いますが、私が同社に財務諸表の提出を求めると記したその後で、銀座の教文館ビルにあったはずの同社の住所が削除されました。会社案内にも住所がない!?普通では考えられませんね。この時期に銀座のビルに入るのですから、資金の流れを知りたくなるのは普通の感覚でしょう?私の友人で公認会計士もおりますので、同社から財務諸表が提出されたら監査を依頼してもよいのですね^^
で、その記事です。ニッポンキリスト教が弱体化し、教会の閉鎖も相次ぐ中、危機感を煽ってこう書いております:
こうした日本の教会の弱体化は、これまでも多くの集会で指摘されてきた。06年11月に大阪で開催された近畿宣教教会会議で同会議委員長の鈴木義明牧師は、「教会同士が対立している段階ではない。今は、一致のとき」であると、教団教派を越えた教会協力の早急な促進を指導者たちに強く訴えた。
大会期間中の決心者が2000人に上った06年11月の沖縄フランクリングラハム国際大会では、大会開催に向けて県内の約150の教会が協力した。教団教派を越えた教会の連帯が、確実な実りを結んでいる。
各地で集会を開きクリスチャン人口1%打破のための具体的宣教戦略を提唱している三谷康人師(日本伝道者協力会役員)は昨年6月に都内であったシンポジウムで、教団や教派の壁による日本のキリスト教界の分散弱体化を指摘した。聖書でも説かれ、ビジネスにおいてもごく基本的な戦略として知られる「弱ければ結集する」という基本方針を諸教会が明確に打ち立てることで宣教が活性化されると提言した。
「会議」だの、「議長」だの、「戦略」だの・・・。何だかかつての学生運動のノリですが、さあ、皆さん、このような論調をどうお感じになります?これは別にCTの責任ではないのですが、「弱ければ結集する」と言う発想。前に私は、今後キリスト教界は互いを叩き合ってうんざりし、逆に統一と合同への流れとなる。これはパワー志向でありメガチャーチへの動きである、とする趣旨の事を何度も指摘していますが、このような流れは果たして聖霊、すなわちイエスを証しする霊でしょうか?この「結集する」と言う発想はどのような霊によるのでしょうか。 そして主からこう言っていただければ幸いです。
私はあえて言いましょう。現在のニッポンキリスト教の惨めさは主の配剤であると。主は主権をもってその状態を許されているのです。それに対して超教派で結集して、1%の壁を打破すると言った発想は人間を主権者とすることでありましょう。前にリバイバル新聞にも日本民族総福音化云々と言った記事がありましたが、私はこういった論調に触れるとビビるのです。怯えを覚えるのです。怖いのです。
何度も言っていることを、またあえて言いましょう。一度この業界は死に体になる必要があるのです。惨めさの極みを通る必要があります。それは神のあわれみです。一切の希望と方法が絶たれる時、完全に自分に絶望する時、神はご自身の働きを開始されるでしょう。人が神を助ける必要も、神を煽る必要もありません。私たちはただ神の主権に服し、神を拝するのみです。
昨日のメッセージでも語りましたが、私たちは今年はますます「主にあって、だら〜」としたいと思っています。主にある安息日を楽しみたいのです。安息日の主をもっと知りたいのです。その時、何かが注ぎ出されるでしょう。ネジリ鉢巻や力のデモンストレーションなどとは無縁の世界にいたいのですね^^。次の願いをわが願いとしつつ:主の家の大庭にいる一日は千日にまさる。私はただひとつのことを願った。生きる日の限り主の麗しさをたずね極めることを。
わたしはあなたの行いを知っている。見よ、わたしはあなたの前に門を開いておいた。だれもこれを閉めることはできない。あなたは力が弱かったが、わたしの言葉を守り、わたしの名を知らないと言わなかった。
ウイットネス・リーの教えとローカルチャーチに関する面白い議論がコチラで展開しています。
いわく
・人は神と混ざって神になるのか?
・人の体にはサタンが住むのか?
・ブレンドされた兄弟たちは秘密組織か?
・タイタス・チューはなぜ検疫されたか?
などなど、他では議論にすらならないような論点が目白押しです。
特にこのページにはドイツの指導者であったJohn Soやリーの片腕で「回復訳」を訳したJohn Ingallsらの証言がアップされています。さらに米国での訴訟の動向なども。ぜひこれらの英語のリソースから情報を得て下さい。彼らの発表にはしばしばウソがあります。私の元にも山ほどの資料があるのですが、翻訳しているものはごく一部です。できるだけ公開しますが、何分時間と体力が追いつきませんですので。
・The Best of The Bereans
フラー神学校などが彼らにお墨付きを与えたとのとことですから(これには裏がありますが)、今後大手を振ってニッポンキリスト教界にも入り込んで来るでしょう。「あなたは神のVIP」と言ったご機嫌取りのメッセージしかできない商売牧師たちはおそらく太刀打ちできないでしょう。
でもね、ちょっと考えて下さい。あなたが東京で伝道し、集会を始めるとします。しかし聖書は「一行政区にひとつの教会」しか認めていないのです(彼らの主張)。するとあなたは自動的に「東京に在る教会」に出向き、彼らからのお墨付きを得てようやく正統な集会あるいは教会を開始できるのです。それは「東京に在る教会」の分家(彼らの言い方)として。しかし23区が独立したら、教会も23に分かれるのです。「渋谷に在る教会」、「目黒に在る教会」・・・と。
かくしてあなたはウイットネス・リーだけに神が与えた終わりの時代の"啓示"に従って、人の体にはサタンが住み、神と人が混ざって人は神になる〜、とリーの『ライフスタディ』や『聖書の結晶シリーズ』などをオウム返しのように祈り読みしつつ教会建造のために正常な教会生活、つまり神-人(God-man)の生活を送ることになるのです。ここでしか正常な霊的生活は成り立たないからです。かくしてカルバリーチャペルのワーシップは若者を堕落させるから回復の詩歌のみを歌い、自分の意見を持っても言ってもならず、ひたすらリーの教えに「アーメン」を唱えつつ、神の回復の御業の最前線を歩むわけですね。たとえ、リーの息子が姉妹たちを性的に陵辱していても、それを放置しつつ。
こうしてついには分裂したバビロンの娘だった諸教会(彼らの言い方)の統一が成就し、ひとりの使徒のカバリングの下、ひとつの教え、ひとつの心、ひとつの実行により、ひとつの教会を建造していくわけです。その"福音"は「あなたはイエス・キリストをあなたの救い主として受け入れますか?」、「はい」。で、次に出るのが「あなたはウイットネス・リーを現代の唯一の使徒・預言者として認め、彼の見たビジョンこそが神の御旨であることを認め、リーの見た啓示に服しますか?」。その裏には、「リーに逆らうことは神への反逆であり、呪われて裁きを受けますよ」と。
さて、あなたはどう答えますか?
何かを批判する場合、相手をよく理解すべきことは重要です。相手が言ってもいないことを批判したり、言っていることを言っていないかのように喧伝するならば、批判する側の資質が問われます。
そこで今回はローカルチャーチの神学雑誌(?)"Affirmation and Clitique"誌の記事を紹介しましょう。日本語では『肯定と否定』となっているようですが。今回の大論文は、人が神になる根拠を実に明快に論じてあります(苦笑)。まあ、再建主義との議論でも指摘しましたが、神学なる高級な学問の空転的言葉遊びに付き合うのも時にはいいでしょう。立っている基礎が砂なのに、その上に「カルヴァン神学」だの、「再建主義神学」だの、はたまた「回復神学」だのが建てられる様はかなり壮観です。
結局その世界に飲み込まれているのですね。だから自分を客観視できない。そこに批判を加えられると青筋を立てて、名誉毀損で訴えるぞ!となるわけです。さてさて、この「混ざり合い」のトリックお分かりになるでしょうか?われわれ自然科学の訓練を受けている者にはそもそも論じること自体がナンセンスなのですが・・・。自分が何をどう信じているか、十分に省みましょう。時には他人のありがたい言葉にも耳を傾けつつね^^
・Mingling(混ざり合い)-これに勝る適語があろうか,Affirmation & Clitique, Vol.1, No.3 July 1996
注:本文は私の訳出ですので、日本福音書房の記事とは訳語などが異なります。
この二つの団体、調べるほどによく似ている要素があるのです。CTの母体と思われるACM(アポストロ・キャンパス・ミニストリー)では「肢体(チェチェ)の生活(箱船の建造)」が重んじられ、そこではある意味で滅私奉公的な奉仕(使役)が求められます。これで学業が疎かになったり、生活破綻する者が出ているようです。なにしろ神の業の最終的成就が何よりも優先され、そのためにダビデ・張なる預言者(さらには現代のキリスト)による啓示が必要とされるわけです。
一方のLC(ローカルチャーチ)では「体の生活」の回復(新エルサレムの建造)が終わりの時代の神の回復の御業であり、そこでは「ひとつ」を保つために自分の意見などは持ってはならず、ブレンディングした兄弟姉妹の中に神がミングリングして(混ざって)、一人ひとりが神格を持たない神とされ、団体的な神・人なるキリストとなるわけです(→コチラをお聞きください)。リーに言わせると教会は肉において現れた神であり、神の化身です(→コチラ)。「主の回復」に従うことがすべてに優先され、その神の終わりの時代の業を成就するために必要な現代の預言がリーによって語られたわけです。中国大陸では「キリスト=リー」の教えも出現しています(さすがに欧米圏では関係を否定していますが)。
いかがでしょう、構造がとても似ているわけです。そのためには従来の歴史的教会の示した信条や教義は十分ではなく、例えば神の三位一体も、「三つの異なる位格がひとつの本質を持つ」とする教義は三神論であると批判します。リーによると、みどり児は御父であり、キリストは御霊に変わったわけです。その根拠が相互内住なのですが、実に愚かなもの。相互内住は御父が御子ではなく、御子が御霊ではないから可能であるのです。また「人が神になる」根拠がペテロ書の「神のご性質にあずかる」なのですが、人として神の性質に与ることと、神と混ざって実質までもが神になることを混同しているわけです(→コチラ)。
かくしてLCにおいては、ひとりの使徒、ひとつの教え、ひとつの心、ひとつの実行・・・となるわけで、それに反対する者は先般のタイタス・チューのように神への反逆者となるわけですね。同様にこの構図がACMでも垣間見えるわけです。ダビデ・張こそ現代の使徒・預言者・真理の回復者、神のご計画の最終成就者と・・・。そして両者の最も共通する資質は偽り、すなわちウソをつくことです。真実を隠蔽し、表だけを白く塗ることには実に見事なほどに長けています。そのためには裁判による威嚇などもするわけですが、まあ、きわめて相似形なのですね。
さあ、今日の終わりの時代において、神に忠実であるために、また神の御業を完成するために、さらに神の国を地上にもたらすために、あなたはダビデ・張につきますか、それともウイットネス・リーに従いますか?考えてみて下さい、すべてのキリスト者がダビデ・張だの、ウイットネス・リーだのを現代の神の使徒・預言者と仰いで、彼らのカバリングに入っている光景を(彼らは人に従っていないと言いますが・・・)。ある面でベニー・ヒンよりもコワイですよ、彼らはかなり深いですが、ヒン様はあまりにも底が浅いですから。それはまさしく前に述べた「キングダム・ロスト」の世界であり、背筋が寒くなる光景ではないでしょうか。今日の敵の働きのキーワードは世でも教界でもこのような「統一」にあるのです。よくよく目を覚ましていましょう。
昨年CT絡みで「2ちゃんねる」あたりで粘着されたわけですが、今般同社の高柳社長が山谷少佐との会見を申し込んできたようで、その証人として同席することになりました。私的には同氏にCT創立以来の財務諸表の提出を求めてみようと思っております。最近同社は銀座の教文館ビルに転居したようですから、資金的には潤沢なのでありましょう。同社の記者矢田氏は私に対して、会社経営は逼迫していると説明されていましたが、不思議なものですね。
加えて依然として同掲示板でローカルチャーチ(LC)側からの工作がなされているようです。必死にウイットネス・リーの正統性を主張しているようです。しかしこの偏執性がすでに病気の証拠なのですが。CTもLCもどうしてこうも粘着質なのだろうか・・・。リーは三人格の区別と自存性を主張するものの、御子は御父であり、手順を経てキリストは御霊になったとし、人の体にはサタンが住んでおり(サタンの受肉と言うようです)、人と神が混ざって人が神になるとするわけですが、この教えは正統なクリスチャン信仰であるとフラー神学校も認めたし、クリスチャニティ・トゥデイ(クリスチャン・トゥデイではないですよ)も認めたとおっしゃっているようです(→コチラ)。面白いのはこの中で、「主が勝利された」と宣言していることです。分かります、このセンス!?
実に面白い。従来のキリスト教が失っていた「真理の回復」の最前線にある彼らが、あえて旧来のものによって正統性を証明してもらう必要があるわけだ。あたかもルターが当時のカトリックによって認知されて、自分は正統であると主張しているようなもの。このように彼らはしばしば自己撞着を起こしつつ、それに気がつかない滑稽さを演じるのです。なお、私が父・子・聖霊の相互内住を言っていないと批判されているようですが、これも彼らの特徴ですね。脳内での空転現象がよく見られるわけです。
で、前に予告したローカルチャーチに関する情報を提供するサイトは疲れるので(汗)ポツポツとしか進んでいませんが、今回ひとつの資料:ウイットネス・リーとその追従者による"教え"の記録をアップしておきます。皮肉にもこの中で、リーの20年以上の片腕であり彼らの誇る「回復訳」を訳したジョン・インガルスらを糾弾したタイタス・チュー自身が、昨年全世界のローカルチャーチから検疫されたことはすでに書いたとおりです。まさに昨日の友は今日の敵・・・。
リーの教えに心酔し、神の御業の最先端を歩んでいる信じる人たちの邪魔をする意図は毛頭ありませんが、今日ダビデ何がしだの、ウイットネス・リーだの、表向きは正統性を装いながらも巧妙に隠蔽された偽りが徐々にしかし確実に入り込んでいることには、皆さんの注意を喚起しておきたいと思います。しかし新年早々、疲れるなあ〜。