* 旧Dr.Luke的日々のココロ *
外務省のラスプーチンこと佐藤優氏の『国家と神とマルクス』。前にも紹介した鈴木宗男事件で国策捜査により、二審も有罪となった佐藤氏の論考。彼はクリスチャンであり、同志社大学院の神学部を出ている。が、新自由主義の侵入と共に、外務省に裏切られ、投獄。しかし負けると分かっているが、最後まで闘う同氏の試練から生まれた思考の結晶。2,3日楽しめる。
昨日のテーマと重なる一冊―柳田邦夫著『人の痛みを感じる国家』(新潮社)。新潮社の紹介文をそのまま紹介しよう。
匿名を盾に欲望を無制限に充足し、他者を中傷する人々。麻薬のごときゲームや映像に汚染される子どもたち。「美しい国」とお題目だけ唱え人の痛みを理解しない政治家や役人……日本人の精神はこのまま腐蝕してしまうのか。ケータイ・ネットによる人格の埋没や脳の劣化を防ぐために、見直すべき「心の情景」を説く警世の提言!
同氏は科学的見方に自信を持っておられ、ある時乗り合わせた飛行機のトラブルに見舞われて、冷静な分析をなし得て、パニックに陥ることもなかったことを誇っておられた。
ところが強迫神経症で苦しむ25歳のご子息が自殺を図り、脳死状態に陥るに至って、その慢心を打ち砕かれたと証している。その際、臓器提供をされたのが、『犠牲(サクリファイス)』としてまとめられている。
それ以後の柳田氏の著作は、それまでが機械的な無機的対象を扱っていたのに対して、脆い人間を見つめる目が深くなっていったと感じる。その他、『壊れる日本人―ケータイ依存症への決別』などもまさに現代の病理をするどく抉っている。人間の最後の関心は人間なのだ。
『脳と魂』―方やすべては脳の作り出したものとする『唯脳論』の解剖学者養老孟司氏。方や脳科学と量子論を用いて悟りを説明する臨済宗の禅僧。両者の対談は絶妙なバランスで進む。
一般的には、かつては「身心問題」と言われ、最近では「心脳問題」と言われている。神経生理のノーベル賞学者エックルズは晩年、心は大脳の機能のみによるのではなく、サイコン(psychon)が大脳と相互作用をすると唱えてサイエンスを逸脱してしまった。
しかし、現代においても、脳機能が心なのか、さらに+αがあるのか、実は解けていない。果たして「わたし」の意識とはどこから生じるのか。まあ、こういった取り合わせは話題になるし、本の企画としては実に面白い。
加藤周一著『日本文化における時間と空間』。日本文化は「今-ココ」に生きる文化であることを氏の博識によってあらゆる分野の素材から論証している。日本人の時間論は、「今」に集中し、空間論は村社会で象徴されるとおり、「ココ」に集中する。よって内と外が分けられるわけ。さらに氏は「今-ココ」からの脱出の道を探るが、物理的には亡命すること、もっと精神的には禅などの二分論を超える生き方を志向すること。
氏は東大医学部卒、医学博士で、確か血液学で学位を取得されたと記憶している。『日本文学史序説』などの著作があるほどに、文学に傾倒する。大学時代も医学部の講義はほどほどにして、もっぱら文学部の講義にもぐっておられたとか。私も若い頃、氏の『羊の歌上下』を読んで憧れたもの。またわが読書術は氏の『読書術』に負うところが大なのだ。
現代日本の知性であり、聖書に基づいたキリスト教的西欧文化から、道元の『正法眼蔵』による禅文化まで網羅する。しかし多分信仰はお持ちでないようで、出エジプトに代表されるように、西洋文化に影響を与えたユダヤ文化は、始めと終わりを持つ時間論で、「今-ココ」的な時間論ではないと主張されるが、私的には神は「ありてある方」、永遠の現在形の「ある」であり、永遠の「今の方」である。この方と、まさに「今-ココ」で交わりを持つことが私たちの永遠のいのちである。この「今-ココ」は永遠と直結しているのであり、この集積が人生を構成するが、そこには神の御手による摂理が働いているわけだ。キリスト教文化は確かに氏が言われるとおりであるが、キリスト信仰は、まさに「今-ココ」であり、この姿勢は道元の時間論である「前後裁断」である。
『フラット化する世界―上』―現代の特徴がネットの普及により個人の情報発信が可能となり、このため世界がフラット化することを指摘し、未来の世界のあり方を予測する。
これは私的に言えば、ネット上では個人が勝手なことを語ることができ、いわば「神」になれることであり、これによって専門家も素人も同じ土俵で語ることができるわけ。と言うよりは、声のデカイ者が勝つ、あるいは壊れた人物が勝つという現象が起きるわけ。かくして常に低い方へとフラット化されるリスクがある。
昨日のNHK『クローズアップ現代』では、カリスマBlogライターが大きな影響力を持ち、企業も彼らを利用して商品を普及させることに力を入れているらしい。かくして流通、広報、販売、維持管理など、これまでとは違うパラダイムが求められている。いずれネットもPCからケータイにシフトし、テレビもいわゆるワンセグ化していくだろう。
極論すれば、これらのメディアによって、個人と個人の脳がダイレクトに繋がっていくわけで、岸田秀的には人間は本能が壊れており、社会などもすべては幻想であるとする唯幻論と、養老先生の唯脳論が結び合わさった世界とも言える。ある意味、脳内妄想がそのまま共有されて現実となりかねないコワサも覚える。
このような中でクリスチャンにとってもどのように信仰を保つのか、ひとつの大いなる課題であろう。オジサンにとっては、これからの10年はこのような社会にどう適応すべきか、それとも一切を捨て去り、山に篭って自給自足すべきか、そんなことを考えさせる一冊。下巻はこれから・・・。
さあて、花の金曜日です・・・。いつもどおり、iTumesから流れるJazzで過ごしております。
『陰謀論の罠』―ここでも9.11テロについては何度も触れているが、アメリカの自作自演によるヤラセとの説を徹底的に否定する。著者自身が"最強のオタク"を誇っているため、オタク文化のプライドにかけているようだ。9.11ばかりではなく、真珠湾攻撃やトンキン事件についても触れている。陰謀論の魅力は世界の事象を統一的に説明できる点で、歴史の究極的メタ言語であるわけだ。一方で陰謀論に組することは知性の放棄であり、その究極が妄想であるとなるわけだが、私的に診て面白いのは、陰謀論に組する側も、否定する側も、同じような要因を持っていること。ある種の精神的傾向の裏表として現れるようだ。
『新たな黄金時代』―ここでも過去に紹介したラビ・バトラの新著。彼は日本のバブル崩壊も警告し、さらに2000年までに共産主義の、2010年までに資本主義の終焉を予言し、次に来る社会をPROUT社会としている。現在のアメリカ主導の"グローバルスタンダード"に基づく資本主義の極みで二分化社会となり、地元の商店街がシャッター街と化し、郊外にはアメリカ型大スーパマーケットが乱立している。人が資本のシステムによって消耗品となる中で毎年3万人以上が自殺し、それにアンチテーゼを提示することもできない無力感の中で、ニートだフリーターが400万に達する今のニッポン。アメリカの住宅と石油バブルと中国の投資バブルが破れる時、次の時代を迎えることになると予言する。バトラ博士は人を活用することが鍵であると主張される。
『盗聴ニ・ニ六事件』。この貧困に育った兵士たちは天皇が自分についていると信じて決起した。しかし天皇の逆鱗にふれ、天皇自らが成敗すると宣言された。彼らを決起させた彼らの内にあったものは何だったのか。しかも昭和史の転換点となった同事件では(多分)政府が盗聴していた。その録音版に基づいて、事件の真相に迫るドキュメンタリー。
表に出る歴史はしばしば意図的な歪曲と創作がある。真実は隠されていることが多いのだ。たったひとつの文書で歴史が書き換えられることはよくあること。高校時代、歴史物は赤点スレスレできた私も、こういったドキュメンタリーにはかなりハマル。今後ますます表に見えることで欺かれることがないように備える必要があるだろう。
・神のご計画と"陰謀論"
昨日は「慣れること」だったが、今日は「馴れること」。先に紹介した元ライブドア取締役の宮内さんの本を一気に読了した。もちろん彼の目から書かれているとは言え、ホリエモンと言うキャラの問題点が次々に暴露されている。単純にして野心家。やや自己愛性人格。典型的な金の亡者である同時に、目立ちたがりにして、遊び好き。
彼は球団買収あたりからマスコミで騒がれ、その快感を覚えてしまったようだ。そしてニッポン放送に敵対的TOBをかけ、フジテレビから和解金をせしめ、同時に個人的にもライブドア株を売って百数十億を手にしてからはもっぱら芸能人などと遊びほうけていたようだ。そしてそのピークが例の衆議院選。当時は本当に総理大臣になると考えていたらしい。
これ以降、ほとんどビジネスに対する意欲を喪失し、この頃から宮内さんがその立場上、実質的にライブドアを指揮らざるを得なくなったとのこと。ところがいざ裁判になったら、ホリエモンサイドはそれを口実に、すべては宮内が独断でなしたことと言う構図をでっち上げたようだ。かくして自身は知らぬ存ぜぬで押し通していることはすでに知られているとおり。宮内さんから見れば、ある意味ババをつかまされたわけ。
彼の拘置所での生活記録もあるが、あそこはやはり相当に堪えるらしい。自分でも反省しているが、結局彼の良心はまずいことをしていると薄々はわかっていたようだ。しかしそれに触れないようにしていたらしい。かくしてホリエモンとその他のスタッフがみな互いに馴れ合ってしまった。これで時価総額7000億の会社が一挙に吹っ飛んだ。
当時、ちょうど再建主義絡みで、新自由主義あるいはリバータリアニズムの話題がここでも展開していたが、その裏事情が詳細に見えた。ホリエモンも自分で言ってたようだが、諸行無常、栄枯盛衰、奢れる者久しからず。人の道に反するとどうなるかを絵に描いたような実話ではある。これ映画化すると面白いかも。
昨日の記事について、すでに主日の定期的ないわゆる「礼拝」においてではなく、随時の交わりの中で人が次々に救われ、いのちの交わりに与っていますとの証を某地方からいただきました。また別の某地方でも新しい始りがあるようです。うれしいですね。こういった交わりが日本の各地に植えられ、育ってくることを夢見ております。
別にニッポンキリスト教から公認される必要はありません。
二人または三人がわたしの名へと(Gk:eis;En:into)集まるところにはわたしもまたいるのである。
でも中国では政府公認教会(三自愛教会)でないと地下教会とされますが、日本ではニッポンキリスト教公認でないと地下教会となるのかしらん?
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『1968年には何があったのか』―唐木田健一著。同氏は東大理学部卒、理学博士。先週、東大の安田講堂の攻防戦について、同僚である元東大全共闘議長の山本義隆氏について触れたところ、何と山本氏と共に闘った唐木田氏の奥様がKFCに来ておられ、今回同書の贈呈を受けた。ありがたく頂戴いたします。学士会名簿でもすぐ近くにお名前を発見致しました^^
当時私は小学校6年。東京への修学旅行でバスガイドが、「このすぐ向こうに有名な東大の赤門がございます」と言ったことをはっきりと記憶している。同時に「東大・・・僕とは関係ないな・・・」と想ったものだ。パラパラっとめくってみたが、なるほど山本義隆氏のお名前が出ている。テレビで観ていたアノ攻防戦の当事者の証言だけに、これはかなり楽しみ。じっくり拝読させていただきます。
多謝在基督
朝から咳と熱が出てダウン。一日中寝ていた。で、寝床で読んだ本。『アメリカの日本改造計画−マスコミが書けない「日米論」− 』。アメリカとニッポンの関係はすでに病理的であり、政治的去勢、軍事的去勢、経済的去勢の三つの去勢によって、対アメリカでは自立できないことはここでも何度も書いてきた。私の歴史観は「精神病理史観」と言えるが、ニッポンはアメリカとの間でエディプス葛藤を抱えたまま、自立を妨げられているわけ。本書はニッポン社会の様々の領域において、いかにアメリカによる対日戦略工作がなされているか、各分野の専門家が論じたもの。かなり面白く、一気に読了。彼らの主張からみて、今後のニッポンは弱体化することは確かなようだ。前にも書いたが、とりあえずサバイバルするには、日本人としてのアイデンティティとプライドを捨て、アメリカの51番目の州となることか。あるいはそれらを保って貧に甘んじることだ。
『捏造された聖書』(柏書房)−ノースキャロライナ大学宗教学部長にして、聖書本文批評の専門家による聖書の改竄の歴史を論証した本。著者はもともと監督派教会出身。十代で「本物の"再生"を経験し」、儀式としてのキリスト教から脱皮し、きわめて熱心な福音主義かつ聖書原理主義クリスチャンとなり、ムーディーズ神学校から、ホイートン大学へと進み、ギリシャ語、ヘブル語、ラテン語を学び、ついに霊感されている聖書本文は存在しないことから、聖書学を学ぶほどに「信仰を保つことに困難を覚えるようになった」とのこと。結論として彼は、聖書はあくまでも人間が神についてそれぞれの意見を述べた書物に過ぎないと言う。
と言うわけで、学ぶほどに信仰を持てなくなる−何と言う逆説!?確かに写本しか残っていないわけで、現存する聖書のテキストに転記ミスや意図的改竄があるかもしれない。そこで福音主義では、原典において霊感された神の言葉であると信じる、とするわけです。リベラル系になりますと、まさにこの著者のように聖書は人間が神について記録した記事に過ぎないとなるわけです。実際、前にも書きましたが、処女懐胎をも信じない方々がいるわけです。聖霊派では御言葉はそっちのけで、「悪霊よ、出ろ〜」、「主は・・・と言われます」・・・。
いかがでしょう、こう言った本や主張で皆さんの信仰は揺るぐでしょうか。もし揺るがないとか言えば、妄信しだとか、MCされてカルト思考にはまっているとか言われるでしょうね。で、Dr.Lukeはどうなんだと問われますと、私はあまり葛藤は覚えないのです。なぜならそのお方こそが私の信仰の対象ですから。
午前中、人間ドッグの結果を聞きに病院へ。昨年は便潜血反応で大腸内視鏡検査を受けたわけだが、今年はいつもどおり高中性脂肪と肺の換気機能の異常のみ。まあ、これらは想定内。その足で25日のオペのため耳鼻科に移動し、検査票を提出。帰路、体脂肪率計のついた体重計をつい買ってしまった。で、長女が管理栄養士国試に向けて準備しているが、結果を話すと「パパは典型的なメタボリックシンドロームね」とグサリ。
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先に佐藤外務省調査官の裁判記録『国家の罠』を紹介した。当時、同時並行的に小泉政権によって、ハイエク型新自由主義が導入されていたわけだが、佐藤氏はそのネガの部分として排除され、一方小泉氏と竹中平蔵氏は光が当たる部分で、不良債権処理から初めて一連の構造改革をなしていたわけ。その記録が二冊出た。
ひとつは竹中氏自身による『構造改革の真実』(日本経済新聞社)。もうひとつは元首相秘書官飯島勲氏による『小泉官邸秘録』(同)。今、前者を読み込み中であるが、実に面白い。小泉氏と竹中氏は「ふたりでひとり」といった感じで、その燃えるが如き困難な改革のイバラ道を二人三脚で歩んだ記録。ある種の満足感と勝利感に酔いつつ、彼の眼から見た事実を迫力をもって記録している。後者は竹中氏の記録を読んでから、さらに広い立場にいた首相側の記録として楽しみに・・・。
それにしても物事が進展する時にはある種の摂理が働いており、主要キャラの周囲にちゃんと補助のキャラが集まり、お膳立てをし、盾となり、旗を振り・・・とそれぞれのロールに応じた役回りを演じることを確認した。もしこれらのキャラがひとりでも欠けていたら、小泉改革は頓挫したであろう。現状のハイエク型社会によって格差が生じたことは間違いないが、この改革が日本の歴史にとってどのような位置づけであるかは、小泉氏が言うとおり、今後の歴史が証明するのであろう。しかしとにかくも不良債権をこれだけ処理し、金融危機を乗り越えた竹中氏らの功績は大きいと評価してよいと思う。
さて、問題は優等生のアベちゃんだが・・・。
小生の本『真理はあなたを自由にする』と『同ワークブック』がそろそろ在庫僅少だそうです。VHSビデオ2巻はすでに在庫がなくなっていますが、私の方でDVD(2枚)化してあります(→サンプル)。出版社に配慮してやや高い値段設定となっていますが、DVDはメニュがありますので、学習がし易いわけです。
またFaith03「英国の雅な風」はCDは在庫がありませんが、DVDにほとんどの曲が収録されています(→サンプル)。TVフォーマットも日本のNTSC形式に変換してありますので、テレビでもご覧になれます。
ご希望の方はサイトの右のメニュにあります、オーダーフォームからご注文下さい。
鈴木大拙の『東洋的な見方』。大拙の真髄は「即非の論理」、すなわち「AがAにあらずして、よってAである」に尽きる。彼は言う「神はその外面から見るべきではなく、その主体性の中に飛び込んで、初めて体認せられるのである」。大拙は自ら「聖霊が分からない」と告白しているから、ここで言う「神」は私たちの神ではない。彼も「ユダヤ系の神ではない」と明言している。しかし私たちの経験を実に良く喝破している。
神を神学の対象としている限り、神は経験できない。大拙の紹介する禅者百丈懐海の言葉にこのようなものがある:
祇如今鑑覚、但不被一切有無諸法管、透三句及一切逆順。透得過、聞百千万億仏出世間、如不聞相似。亦不依住不聞。亦不作不依住知解。云云。(四家語録)
訳:ただこの「見るもの」、これが一切の有無的二元性を離れている。三句(正反合としておく)などというもの、矛盾性のものを透過している。透過しているから、一切が仏だなどといっても、少しも気にかけぬ。また気にかけぬと意識もしない。それからまた、意識的知解もせぬというところにも、ぐずぐずしていない。
このような意識状態を と言う。大拙は「これを"Truth is Subjectivity(真理は主観性である)"という。私たちの表現では、真理は内にいますキリスト、また私たちはキリストの内におり、真理を知るならばあなたがたは自由となる。ウォッチマン・ニーのように20年間幽閉されていようと、彼はそのキリストにある自由を享受したのだ。塀の外とか中とかの二元性を離れる時に・・・。楽しいとか苦しいとか、その分別を離れることが自由。ブラザー・ローレンスも言っている:真に委ねた者にとっては楽しさも苦しさも同じだ、と。楽しかろうが、苦しかろうが、それを判断する自己 を放下する。主も言われる、 と。究極のオクシモロン(Oxymoron:自己矛盾的言説)。私たちの主観的経験においては、「Aであること」と「Aでないこと」が同時に成立する。唯キリストを主観的に味わうこと−これが禅的基督者の生活である。現代的に言えばキリストのクオリアを楽しむこと。離四句絶百非、天上人間唯我知。
訳:絶対的に一切を否定したところで、「独坐大雄峯」だ。自分の魂を救おうとすれば失う。失えば得る
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筋トレを少しづつ開始しております。ワークアウトした後の何ともいえない筋肉の疲労感がイイのです。
先に紹介した佐藤優氏の『国家の罠-外務省のラスプーチンと呼ばれて-』を読了した。最近こんなに密に読んだ本はあまりないのだが、相当に引き込まれた。要するの被告人の彼の立場からすると犯罪の認識は一切なく、イスラエルでの学界の費用を外務省の委員会予算から流用した背任についても、実は外務省の上が決済していたのが、何故かその書類は消失しているとか。彼の目からすると、外務大臣の田中真紀子氏が同省をかき回したわけだが、これを排除するために鈴木宗男氏と佐藤氏が利用され、利用価値がなくなると彼らが排除されたと言う構図になる。
そして面白いのは佐藤氏は哲学と神学の専門家でもあるため、自分がどのような時代背景に置かれているかを的確に分析していることだ。彼の言葉で言えば、「ヘーゲル型有機体モデル」から「ハイエク型新自由主義モデル」への転換の潮目に置かれたのだ。前者は古い体制であり、国家が個人を最大限保護し、個人は国家の一構成要素とされる社会モデルであるが、後者は国家は最大限ミニマムにされ、個人が自己責任を伴ってクローズアップされる社会モデルである。実はハイエクはリバータリアニズムの先駆者である。ここにもまた再建主義との絡みが出てきたわけだ。
小泉政権になってから、この時代の半強制的移行がなされているわけだが、鈴木氏が社会資源の「公平分配モデル」また国際的には「交際強調的愛国者」の代表であり、対して「傾斜分配モデル」また「排外主義的ナショナリズム」への変革を意図する勢力にとっては、その排除がその変革の証しとなるわけ。かくして鈴木氏に同労していた佐藤氏は共に排除されたわけだ。いやあ、このあたりの佐藤氏を切る外務省の冷酷さは背筋が寒くなるほど。これが組織と言うものか。
面白いのは彼を調べた検事である西村氏との間で、ある種のストックホルム症候群とも言えるような互いに敬意を抱き合う同士意識が生まれること。西村氏自身がこれは国策事件であると指摘しているし、西村氏は最後には、何と左遷されるのだ!?佐藤氏は西村氏に最大限の賛辞を送っている。かくして事件は訳の分からない上の力によって突如終結を迎える。そして佐藤氏の主張は裁判所ではほとんど採用されず、有罪となるわけだ。一緒に起訴された人々はみなそれぞれに自分の利益を考える供述をしつつ、素直にお縄につくのだが、佐藤氏はあくまでも真実を訴える。かくして512日間の拘置所生活となるわけで、その間の事が実に細く記録されており、将来の参考になった。
ちなみに本件にまつわる外交文書は2030年には公開されるので、それらを精査すれば佐藤氏の主張が裏付けられるとのこと。私の個人印象では、やはり佐藤氏は国家上級(I種)のキャリアではなく、専門職(ノンキャリア)であることが災いしたように思えるのだ。この記録を読むと、政府と検察のつながりが相当に密であり、司法の独立がどの程度担保されているか不安になってしまう。そして何よりもニッポンはやはり東大法学部を頂点とする官僚国家なのだ!小泉氏もこの牙城を崩すことはついにできなかったし、もしかすると小沢さんでも無理かも。なぜなら「朕は国家なり」ならぬ、「役人は国家なり」だから。
加えて、極悪人のように扱われた鈴木氏と佐藤氏であるが、検察のリークする情報によってマスコミの作り上げたイメージはかなり歪んでいるのだ。これもコワイ。真実のありか−やはりヘーゲルの『精神現象学』の東洋版かつ映像版である『羅生門』を撮った黒澤明は天才である。