* 旧Dr.Luke的日々のココロ *
と題する記事を宮内氏が書かれていた。イザヤ書にあるユダヤがバビロニアに滅ぼされる状況が今日のニッポンと酷似していることを指摘しています。確かに下記の御言葉に照らす時、親王誕生と浮かれている場合でもないのかも知れません。
わたしは、若い者たちを彼らのつかさとし、
気まぐれ者に彼らを治めさせる。
民はおのおの、仲間同士で相しいたげ、
若い者は年寄りに向かって高ぶり、
身分の低い者は高貴な者に向かって高ぶる。
わが民よ。幼子が彼をしいたげ、
女たちが彼を治める。
わが民よ。あなたの指導者は迷わす者、
あなたの歩む道をかき乱す。
シオンの娘たちは高ぶり、
首を伸ばし、色目を使って歩き、
足に鈴を鳴らしながら小またで歩いている。
ああ。朝早くから強い酒を追い求め、
夜をふかして、ぶどう酒をあおっている者たち。
ああ。悪を善、善を悪と言っている者たち。
彼らはやみを光、光をやみとし、
苦みを甘み、甘みを苦みとしている。
4月26日に「姉歯氏について哀れさを感じる」と書きました。ところがどっこい、しばしばもっともらしい素振りをする"被害者"は真実を歪めているもの。姉歯氏にはすっかり騙されました(→記事)。
* * *
主にある捧げ物をいただくことがあります。サーバーの維持経費などに使わせていただいておりますが、感謝いたします。
女児が頭に重傷を負って発見された事件で、24歳の女性看護師が逮捕された(→記事)。精神科通院歴があるらしいが、どうも最近この手の人たちによる犯罪が多発している。で、ここで問題となるが表題の二つの関係。gレードオフの関係にあるわけ。
現在の精神保健福祉法などでは患者の人権に相当配慮がなされており、保護措置入院なども資格を持つ医師2名の同意がないとできない。かくして精神科を開業する義兄の言葉、「世の中、患者さんがあっちこっちにフラフラと野放しで歩いている・・・」−これが実情なのだ。キリスト教界にもこの手の人々が寄って来る。彼らはこちらがやさしい顔を見せているうちは大人しいが、苦言などを呈したりすると、たちまち豹変する。その変わり様には実に驚くほど。
しかも最近ではこういった人々がネットを徘徊して自由な自己主張が可能となっている。またこうした人はすでに述べた様に病理を共有しフォリ・ア・ドゥ化し、ひとつの勢力すら持つようになる。こうして互いの妄想を膨らませ、屈折した自己像を肥大化する。しかし前から指摘しているが、こう言った人々とはけっしてガチンコしてはならない。それはきわめて危険。その病的な感情をかわすか、こちらが折れること。
しかしながらこれはこちらが大人であればの話である。彼らの病理性が弱い女児などに向かうことは、社会の防衛システムとして何とかならないものか。しばしば「人権派」と言う単語は十分に言霊あるいはミームとして社会にマインドウイルスを蔓延させるのだ。そしてそれは弱いところで発病している。
と題する記事を宮内氏が書かれていた。イザヤ書にあるユダヤがバビロニアに滅ぼされる状況が今日のニッポンと酷似していることを指摘しています。確かに下記の御言葉に照らす時、親王誕生と浮かれている場合でもないのかも知れません。
わたしは、若い者たちを彼らのつかさとし、
気まぐれ者に彼らを治めさせる。
民はおのおの、仲間同士で相しいたげ、
若い者は年寄りに向かって高ぶり、
身分の低い者は高貴な者に向かって高ぶる。
わが民よ。幼子が彼をしいたげ、
女たちが彼を治める。
わが民よ。あなたの指導者は迷わす者、
あなたの歩む道をかき乱す。
シオンの娘たちは高ぶり、
首を伸ばし、色目を使って歩き、
足に鈴を鳴らしながら小またで歩いている。
ああ。朝早くから強い酒を追い求め、
夜をふかして、ぶどう酒をあおっている者たち。
ああ。悪を善、善を悪と言っている者たち。
彼らはやみを光、光をやみとし、
苦みを甘み、甘みを苦みとしている。
4月26日に「姉歯氏について哀れさを感じる」と書きました。ところがどっこい、しばしばもっともらしい素振りをする"被害者"は真実を歪めているもの。姉歯氏にはすっかり騙されました(→記事)。
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主にある捧げ物をいただくことがあります。サーバーの維持経費などに使わせていただいておりますが、感謝いたします。
女児が頭に重傷を負って発見された事件で、24歳の女性看護師が逮捕された(→記事)。精神科通院歴があるらしいが、どうも最近この手の人たちによる犯罪が多発している。で、ここで問題となるが表題の二つの関係。つまり社会のリスクを低くすると患者の人権が制限され、患者の人権を配慮すると社会のリスクが高くなる。つまり互いにトレードオフの関係にあるわけ。
現在の精神保健福祉法などでは患者の人権に相当配慮がなされており、保護措置入院なども資格を持つ医師2名の同意がないとできない。かくして精神科を開業する義兄の言葉、「世の中、患者さんがあっちこっちにフラフラと野放しで歩いている・・・」−これが実情なのだ。キリスト教界にもこの手の人々が寄って来る。彼らはこちらがやさしい顔を見せているうちは大人しいが、苦言などを呈したりすると、たちまち豹変する。その変わり様には実に驚くほど。
しかも最近ではこういった人々がネットを徘徊して自由な自己主張が可能となっている。またこうした人はすでに述べた様に病理を共有しフォリ・ア・ドゥ化し、ひとつの勢力すら持つようになる。こうして互いの妄想を膨らませ、屈折した自己像を肥大化する。しかし前から指摘しているが、こう言った人々とはけっしてガチンコしてはならない。それはきわめて危険。その病的な感情をかわすか、こちらが折れること。
しかしながらこれはこちらが大人であればの話である。彼らの病理性が弱い女児などに向かうことは、社会の防衛システムとして何とかならないものか。しばしば「人権派」と言う単語は十分に言霊あるいはミームとして社会にマインドウイルスを蔓延させるのだ。そしてそれは弱いところで発病している。
公立学校の先生は実に気の毒と思う。税金をもらっているためだろうが、「夏休み」は夏休みではない。「研修期間」なのだ。報告書を出して、図書館で研修、自宅で研修・・・と。何が研修で、何が研修でないか、オンブズマンとかにチェックされるそうだ。
あのね、ただでさえ、ニンゲンという不可解な動物を相手にしているのだから、先生たちもどこかで抜かないと、ビョウキになってしまうもの。現に長期療養休暇を取った教員の約15%が精神疾患による。エリートコースを突き進んできた私の友人の教師も、この数年間うつ病で苦しんでいる。ちなみに牧師のうつ病などの精神疾患もかなり多い。(えっ、元々が変?・・・それは言わない方が^^)
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驚きましたね。ベニー・ヒン聖会で「君が代」の合唱だそうです。BBSにも書きましたが、お分かりになります?これが敵の方法です。集団の流れがそうなると誰も抵抗できない!その会場から立ち去った人が一人くらいいることを願います。
これがマインドコントロールの本質である「認知的不協和最小化の原理」です。この記事にあるとおり、初めはとまどう、しかし流れに抗せないと、それを行う、その結果を正当化し、自分の一部に組み込む。ここに参加した人たちは今後「君が代」を歌うことは当たり前になることでしょう。そうしないとこの時の自分を否定することになるからです。こうして徐々にしかし確実にクリスチャンの良心を崩していくのです。大きな堤防も針の一穴から崩壊します。
それにしてもこの村上何とか言う牧師はベニー・ヒンを擁護していらして、リッパな先生だこと(実は自分を擁護しているのです)。すでにWW2の教訓は過去の遺産となっているようです。なぜ拒絶しないのでしょうか。しかしリバイバル新聞も単なるチョウチン記事を書く御用新聞になってしまったのでしょうか・・・。社長の谷口さん、あの頃おっしゃっていたことはどうなったのですか?
自己愛性or妄想性人格障害を持つと思われるタレント志望の女が放火容疑で逮捕(→記事)。Blogで現場レポを・・・。歪んだ自己顕示欲の現れ。わが実家の近くでも燃えたとか。今日、この世も教界もこの手の人物による迷惑な事件がほんと多い。現代は「自己の病理」の時代・・・やれやれ。
再建主義の富井氏が奇跡について、
科学の活動が帰納法に基づいており、経験できることから法則を抽出することによって成立する以上、科学は、人間の経験の範囲内のことについてしか明言できないのである
として、 と言われ、さらに として、 としています。手を放した瞬間にコップに自然法則が働いて、そのコップを下に引っ張るかどうか「絶対の確実さを持って言え」ないからである。次の瞬間に1000億回に1回だけ起こるきわめてまれなイレギュラーな現象「コップが上に上る」が起こるかもしれない
「<絶対>、この法則が働く」ということは科学は主張できない。科学の認識方法が帰納法により、経験に基づき、演繹法や教条主義を排除するならば、「絶対」という言葉を使うことはできない
奇跡について科学は何も言うことはできない
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BBSで正教と福音派の対話をご紹介いただきまして、私もざっと目を通してみました。とても面白かったのですが、困ったことは、ICHIROさんも言っておられますが、用語がよく分からない。「奥義」を「機密」としていたり、「聖霊」を「聖神」としていたり、人名も発音が相当に違っています。
まあ、それらのテクニカルな部分はおいといても、自分たちは使徒直伝の正統な教会(オーソドクス)であり、福音派は1500年以降に出たものであって、初めから存在していなかったではないか、と。さらには、私たちから見るとカトリックとどこが違うのかもよく分かりませんが(聖霊の発出処が問題らしいですが)、カトリックは邪教的なものを入れて異端化していると。これは逆も言えるわけでして、正教のいわゆる聖伝なるものが何なのか、私たちには異物混入と感じられて、カトリックとあまり変わりないではないかと思えてしまうわけです。
BBSにも書きましたが、一言でまとめれば、カトリックは「自分たちはもっとも普遍の教会である」と、正教は「自分たちはもっとも使徒伝承の教会である」とし、福音派は「自分たちはもっとも聖書信仰の教会である」とするわけで、さらに聖霊派が出てきて、「自分たちは聖霊を知っている教会である」とし、これがまた異言をめぐってペンテコステとカリスマがあるわけです。さらに再建主義なるものが出てきてモーセ律法で教会を再建すると、さらにそれぞれの中は細かく分かれ、互いに相手を異端・カルトとレッテルを張り合っているわけで・・・。
私などもカルト教祖にされたり、ヒューマニストであってクリスチャンではないと断罪されたり、異端だとのラベルを貼られたりと、ニッポンキリスト教と関わってからと言うもの、目が点になるめくるめくような経験をたくさんすることができたわけですが(汗)、改めて、いやあ、一言、何なの、キリスト教界って?
主は言われたはずです:
わたしは、もはや世にはいません。・・・わたしたちのように、彼らも一つとなるためです。・・・父よ、あなたがわたしの内におられ、わたしがあなたの内にいるように、すべての人を一つにしてください。彼らもわたしたちの内にいるようにしてください。そうすれば、世は、あなたがわたしをお遣わしになったことを、信じるようになります。あなたがくださった栄光を、わたしは彼らに与えました。わたしたちが一つであるように、彼らも一つになるためです。わたしが彼らの内におり、あなたがわたしの内におられるのは、彼らが完全に一つになるためです。こうして、あなたがわたしをお遣わしになったこと、また、わたしを愛しておられたように、彼らをも愛しておられたことを、世が知るようになります。
世が神を知ることは、しるし・不思議でも、立派な"油注ぎの器"でもなく、ひとつであることによると書いてあるのですが・・・。それは教義や実行の一致ではありません。いのちを知ることです。なにぶん私などは悲観主義ですから、クリスチャンメディアなどが"リバイバル"の音頭を取ったり、アメリカあたりの立派な"預言者"たちが"大リバイバル"のラッパを吹けば吹くほど、遠ざかりたくなります。彼らは果たして何を求めているわけ?
聖書はいのちの書ですが、文字で触れるとキリストの体をバラバラにするもののようです。霊は人を生かし、文字は殺す、とあるとおりです。私的にはキリスト教界を離れて、この世で主と静かに交わることにしましょう。
ニッポンキリスト教という業界と関わるようになって、すでに丸7年が経過した。で、よくよく分かったことは、心に病を持つ人が実に多いと言うこと。彼らは心が弱いのではなく、実は魂の力が強すぎるわけ。欝病者なども、実に落ち込んで自己評価が低いときと、逆に増長して自己肥大を起こすときを繰り返すが、彼らの魂の中には鬱屈したエネルギーが充満している。自分でもそれを持て余すわけ。自分のことが自分で処理できない。
それから人格障害。特に自己愛性や境界領域性、そして妄想性の障害が実に多い。いわゆる教役者で、預言だの、悪霊追い出しだのに入れ込む人は、妄想性+虚言症の人が多い。信徒あたりでも、変に神学に入れ込んでいたり、霊的知識があったりすると、妄想と知識が渾然一体となってくる。
前にもちょっと書いたが、彼らはだいたい一目見ればその風貌や表情や物腰から容易に判断がつくが、彼らの特徴のひとつがすべてを自己を基準とすること。自分にとってどうか、自分をどう扱うか、自分をどう評価するか。
彼らに対して十字架を取ることや、魂を否むことを期待することはほとんど無理のようだ。ここでいわゆるヒーリングが繁盛するわけ。この業界でいかがわしい商売をしようとすれば、いくらでもできることも分かった。人は幼稚なことや馬鹿げたことにけっこう金を惜しまないからだ。自分を救うためには。
一方で見栄えのするもの、力のあるものなどの、肉を喜ばすパン種で空虚に膨れただけのところもある。いやはや、現状はリバイバルどころではありません、サバイバルなのです。ニッポンキリスト教は。
かくして私たちは、古いパン種や悪意および邪悪のパン種をもってではなく、むしろパン種の入っていない純粋さと真理とのパンでもって、祭りを祝おうではないか。
かつてアノ横井秀樹氏が白木屋などを株の買占めで乗っ取った時代があった。小説にもなっているが・・・そして今また・・・
どうもいわゆるネット関連会社の、金に物言わせた株の買占めによる会社の乗っ取りは、イヤな感じがしますね。村上ファンドのあのトッチャン坊やは「TBSの方はいませんか。買収がイヤなら何で株式を公開してるんですか!」とエラそうに・・・。
会社は株主のもの−確かに商法ではそう。しかし会社は従業員の生活場であり、人生なのだ。彼らが営々と築いたものだ。そこを食い荒らすようで、実に気分が悪い。
金で人の頬を張るみたいなやり方は必ず社会の荒廃を招くであろう。小泉氏のやったこともこれから10年、20年にわたって、ジワジワとニッポンの心を蝕んでいく。
もう少しまとめておきましょう:富井さんは、<永遠のいのちを得ること=義認>として、<神の基準に沿った祝された生活を送ること>とは別のものとしていますね。これも大きな驚きです。
なぜなら、私たち自然科学者からすれば「いのちと生活はひとつ」だからです。犬は犬のいのちによる生活、人は人のいのちによる生活。で、律法を行なうにはソレを行なえるいのちを得ればよいわけです。自動的に生活もそれを反映します。
今回の議論、なかなか面白いです。私たちが最終的に重んじることは、神はシンプルであること。自然の法則はきわめてシンプルかつビューティフルなのです。たとえば、
E=mc^2
などね。