最近の日記

オウム事件の10年

オウム事件。日本にとっての9・11。ついに、というか、ようやく麻原氏に死刑確定。しかし裁判とは不思議なもの。私たちの裁判も8年間かかったが、いったい麻原の弁護士はどのような使命感でしたのだろうか?ビジネスと割り切って?ちなみにライブドア事件と麻原事件は多分に似ていると感じているが、ホリエモンのヤメ検の代理人はビジネスのようだが。訴訟指揮においてもかなり混乱したが、明らかにある種の霊の介入がある。

上裕氏が自分は坂本弁護士とサリン事件が教団の仕業であると知っていたと告白し、当時はウソをついていたと認めているようだ。面白いのは彼の目が今と当時ではまったく違うことだ。

からだのあかりは目です。それで、もしあなたの目が健全なら、あなたの全身が明るい

とあるとおり、人と接する時、目は人を判断する大きなポイント。先に書いたネットにおける自己表現の怖いところは、相手の目が見えないこと。文章だけからするとまともに読めても、その人物が見えない。目が見えない状況はひじょうに不安を覚える。(ロリコン植草教授も理路整然としているが、目がアブナイ・・・)

心理学的には、意識的な言語のやり取りの間、無意識のうちに目によるコミュニケーション・リンクを確立し、無意識はそれで相手を判断しているのだ。だから意識の上では同意でも、感覚的には釈然としないことが起きる。BBSにカキコがあったので追加的に触れたが、この釈然としない不協和感覚を大切にすべきである。

上裕派サイトでは

人である教祖を神としたことが事件の原因となった点では、元代表に限らず、多くの信者に責任があることを深く反省し、今後は真実の道を切り開いていきたいと思います。

と声明を出している。私なども一部では「カルト教祖」にされたりもしたが(やれやれ)、人が神に奉られたら、昭和天皇ではないが、互いに不幸を招く。

果たして上裕氏らは「道」を見出すことができるのだろうか。まことの道はJESUSである。中途半端に霊的事象・世界に関わると、かえって混乱に落ちることは、聖霊派あたりのクリスチャンを見ていてもよく分かる。ちなみにまたまた本件についての山谷少佐のBlogが実に面白い。この4つの判断基準、キリスト教界でもかなり?

不従順の結果は?

下のモラトリアム領域についてご質問を受けました。「もし神の御旨に反した意志の用い方をしたらどうなるのかこわい」と言われるのですね。大変すばらしい感受性です。

もちろんその決断の実を自分で刈ることになるでしょう。例えばあえて姦淫に落ちるならば、AIDSなどのSTDに罹ることもあるでしょうし、幸いな結婚生活を破壊することでしょう。この意味で

神はあなどられる方ではない。人は皆自分の撒いたものを刈り取ることになる

とあるとおりです。

しかし不従順の罪のためにイエスの血が流されています。悔い改めによる赦しの道がつねに開かれているのです。何度でも十字架に立ち返ることです。

律法が入り込んで来たのは、罪が増し加わるためでありました。しかし、罪が増したところには、恵みはなおいっそう満ちあふれました。

とあるとおりです。が、パウロは

では、どういうことになるのか。恵みが増すようにと、罪の中にとどまるべきだろうか。

と問題提起し、自ら回答を与えています。

決してそうではない。罪に対して死んだわたしたちが、どうして、なおも罪の中に生きることができるでしょう。

鍵はキリストと共なるにとどまることです!

しかも私たちの不従順あるいは不真実ですら神の真実を無にしません。むしろ神はそれを摂理によって用いて、ご自身のご計画を推進されるのです。

かくしてまたもし、わたしの偽りによって神の真実がいっそう明らかにされて、神の栄光となるのであれば、なぜ、わたしはなおも罪人として裁かれねばならないのでしょう。

とあるとおりです。鍵は

人はすべて偽り者であるとしても、神は真実な方であるとすべきです。「あなたは、言葉を述べるとき、正しいとされ、/裁きを受けるとき、勝利を得られる」と書いてあるとおりです。

神は宇宙の全権を有していますから、私たちの不実すらその上に主権を行使できるのです。ハレルヤ!

華厳の滝

今回はふと思い立って、奥日光のにごり湯を堪能してきました。いやあ、料理も渋くてなかなかにっこう、ではなく、けっこうでした(サムっ〜)。華厳の滝も霧が晴れて迫力満点。ここはかの旧制一高生藤村操が飛び込んでから、自殺者が続出したのですね。彼の名文遺書に酔ってミームに感染するわけです(これをウェルテル効果と言う)。

巌頭之感
悠々なる哉天襄、
遼々なる哉古今、
五尺の小躯を以て此大をはからむとす、
ホレーショの哲学竟に何等のオーソリチィーを値するものぞ、
万有の真相は唯一言にしてつくす、
曰く「不可解」我この恨を懐いて煩悶終に死を決す。
既に厳頭に立つに及んで、
胸中何等の不安あるなし、
始めて知る、
大いなる悲観は大いなる楽観に一致するを。

実を言いますと、私もかつて旧制一高生に憧れ、けっこう感染したのであります。

写真は後ほど・・・。

仮想社会

今週号のカバーストーリーは安部氏だった。同氏の国粋主義的スタンスを論じていた。彼は懸命に「美しいニッポン」の形を作り、ニッポンのアイデンティティを確固たるものにしようとしている。

また本日の『日経』に小学生が教師に暴力を当たり前に振るい、そのひとりの「英雄的行為」によりクラス全体が盛り上がって学級崩壊を起こしていると言う記事があった。教員も殴られる一方で、手が出せないのだ(児童の人権により体罰はただちに懲戒解雇の理由となる)。

さらに『週刊文春』に精神分析学者の岸田秀氏が「天皇制は希薄なアイデンティティの日本人の共同幻想を維持するためのシステムである」として、日本国の維持のためには(良し悪しは別として)天皇制が必要であると述べていた。この3つの話題、実は根っこは同じなのだ。

昨今、若者が他人を見下す傾向が強いことが指摘されている。客観的な根拠は何もない。これを「仮想的優越感」と言う。これは若者ばかりでなく、ネットなどでも、言いたいことが言え、書きたいことが書けるため、ある種の幻想的全能感を抱く。かくしてネット上にはきわめて多事争論、リッパな「論客」が多いわけ。

こういった行為は他者を貶めて自分の価値を上げ底しようとする心理機制であり、境界性や妄想性人格障害などの人々などでは特に顕著に見られる。これらの人々の特徴はある種の幻想(あるいは妄想)的世界に生きており、リアルの世界では、実はきわめて自己充溢感(アイデンティティ)が希薄なことである。

自分に真の意味での実質・自信・満足・喜びがない者ほど、仮想空間では根拠のない自我の肥大化を起こす。このような人々が集まることにより、前にも書いたミームを共有し、互いの共同幻想を膨らませ、空虚に肥大化した自我をさらに肥大化させていく。まさに精神病理的なバブル現象と化す。

現在のニッポンの社会で、またそれを上回ってニッポンキリスト教界で起きていることは、実にコレなのである。精神病理的バブル、霊的バブル、共同幻想の肥大化。先の宮内氏の指摘される崩壊の兆候は確かに見えている。

Commented by 宮内 学 URL2006年09月18日(月)13:51

友人に「君のことが掲示板で話題に上がっている」と教えられ、こちらにたどりつきました。
精神医学的な観点からのご指摘は、非常に勉強になります。と同時に、ある種のキリスト教には反対されつつも、キリストへの信仰に満ちていることに共感します。
ご迷惑でなければ、Lukeさんの日記にリンクを張りたいのですが、よろしいでしょうか?

Commented by Luke 2006年09月18日(月)17:07

あ、これははじめまして。いつもBlogを拝見しております。格調高い文章と幅の広い内容で感銘を受けております。こちらこそよろしくどうぞ。

人間イエスの葛藤に思う

少し進んで行って、うつ伏せになり、祈って言われた。「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに。」更に、二度目に向こうへ行って祈られた。「父よ、わたしが飲まないかぎりこの杯が過ぎ去らないのでしたら、あなたの御心が行われますように。」

イエスはこのとき明らかに「杯」を回避しようと願った。が、それは父の御旨ではないと知っておられた。イエスの意志と父の意志が葛藤したのである。

主は何を恐れたのであろうか。イエスがもっとも恐れたこと―それは磔刑の苦痛ではない。人類の罪に触れること、いやそれをすべて引き受けること、いやさらに一体とされることだ。汚れをまったく知らない聖なる方が罪とされること(1コリント5:21)。病んだ人間の心の事実に直面することは、実に、イエスですらためらわれ、恐れたのだ。それほどに人の心は汚れ(マタイ15:18)、病んでいる。

人の心は何にもまして、とらえ難く病んでいる。誰がそれを知りえようか。

再建主義の富井さんが救世軍の山谷さんに再び挑戦しておられる。山谷さんはもはや乗られることはないだろうが、富井氏の「黒か白か」、「0か1か」の有無を言わせないスタンスは相変わらずだ。もちろん真理にはグレーゾーンはない。しかし私たち人間と霊的世界の関わりにおいては、私たち人間の自由意志、あるいは裁量権の領域がある。神学では中間領域と言うようだが、心理学的にはモラトリアムの領域と言うべきか。ここで私たちは自分の良心と聖霊の関わりにおいて、自分の意志を通すか、神の意志を通すかの選択が任されている。ローマ書2:14に

たとえ律法を持たない異邦人も、律法の命じるところを自然に行えば、律法を持たなくとも、自分自身が律法なのです。こういう人々は、律法の要求する事柄がその心に記されていることを示しています。彼らの良心もこれを証ししており、また心の思いも、互いに責めたり弁明し合って、同じことを示しています。

とあるとおり。このモラトリアムの領域には諸霊が働きかけ、イエスに対して悪魔がなしたように時に誘惑し、葛藤するイエスに対して天使が仕えたように時に私たちが神の意志を選べるように助けてくれるのである。

実に天使たちは皆、奉仕する霊であって、救いを受け継ぐことになっている人々に仕えるために、遣わされたのではなかったですか。

イエスの苦しみの足りないところを補うことは真に栄光でもあるが、私的には避けたいのだ。ある人の祈りがある:「主よ、今はあなたに従えません。しかしあなたのは必ず私を服させ、あなたが勝利されることを私は知っています」。

人間性を忘れ、いのちに仕えない神学などは何の役にもたたない。それは見かけは立派でも食べたら腹を壊すいのちのない蝋細工。それ自体が

人間の言い伝えにすぎない哲学、つまり、むなしいだまし事によって人のとりこにされないように気をつけなさい。それは、世を支配する霊に従っており、キリストに従うものではありません。

神は人になられた。しかも30年、ナザレで淡々と大工の倅として生きられた。この奥義は真に奥義である。

そのあなたが御心に留めてくださるとは/人間は何ものなのでしょう。人の子は何ものなのでしょう/あなたが顧みてくださるとは。

【追記1】富井さんのパーシャルプレテリズムに基づく黙示録の構造図解は面白い。これは資料として保存しよう。

【追記2】山谷少佐の13日の記事は情報として非常に重要です。クリスチャン・トゥデイ紙については脱カルト協会でもやや問題提起されております。しかしこのメガチャーチ幻想に基づく「教会国家」はヒトラーの「第三帝国」や「文化大革命中国」と同じ臭いを醸していると感じ、私も鳥肌が立ちますね。前に書いた予測の不気味な成就です。ここで紹介されている「キングダム・ロスト」は私も気になっていた作品です(最近「キングダム・ニューヨーク」とか言うマルチ商法詐欺をしていたのがあったりで・・・汗)。

Commented by MajorMak Eメール URL2006年09月15日(金)11:40

せっかくですから、すこし食いついてみましょう(笑)

富井氏はご親切にも小生に「最低でもカルヴァンのキリスト教綱要を読め」と勧めてくださっています。まことに感謝なことです。

しかし、小生は、「富井氏がカルヴァンを読んでおられないこと」こそが最大の問題だと思っておる次第です。

なんとなればカルヴァンは

「われわれが、神への敬虔を損なわずに、儀式律法を廃棄することが出来たように、隣人への愛を損なわずに、司法律法を廃棄することが、確かに出来るのだ。諸国の政府は、『愛』という律法の本質を達成するために、刑罰の程度においては司法律法から異なってこそいても、国家が置かれたその時々の状況に応じて、必要な法を正当に制定することが出来るのだ」と綱要第四編で論じております。

さらにまた「司法律法によって統治するユダヤ人国家のごときものを、現代に再現する必要はない」と申命記講解説教で述べております。

なお、富井氏は、「二項図式」が、聖書由来、カルヴァン由来の正統だ、とも主張なさっておられるようです。

しかし、聖書の世界観は「神・天使・人間」という三項図式であり、カルヴァンの世界観は「神・摂理・人間」あるいは「聖定・摂理・自由意志」という三項図式なのです。

富井氏は、いまいちど、カルヴァンの著作を味読熟読された上で、改革派の神学校の通信でもお受けになられたらよいでしょう。

Commented by Luke 2006年09月16日(土)19:46

富井氏にはすでにミームの伝播様式である刷り込みにより、ある種の選択的フィルターがあるのでしょうね。見ても見えない、と言うか、前意識的(意識に完全に上る寸前に検閲がかかる心理機制)にネグレクトあるいはディストーションするわけです。

その後の詳細な情報を感謝いたします。クリスチャン・トゥディ紙についは脱カルト協会でも出自が怪しい(特に統一協会との関連疑惑)として監視中。ニッポンキリスト教はあまりにもナイーブですから、少佐の時代ウォッチングの感性と働きはとても重要と認識しています。

最も怖いもの

それは病んでいる人の心から出るもの。その真実に直面し、それをまともに受けること。実に怖い。

自分と関わりのない人であれば、当たり障りなく流せばよろしい。別に何でもない。

しかし自分に関わりがあり、自分が愛する人の真実を見ること。これはものすごく勇気が要る。

神の愛は恐れを取り除くが、人の愛は人を臆病にする。マザー・テレサが「愛は傷つく」と言われたとか。本当に人の真実をすべて受けることができる方はイエスのみなのだ。

彼の打たれた傷によってわれわれは癒された。

追記:もし十字架のイエスの口からあの言葉がなかったなら、もし罪のない方を十字架につけたその裁きを宣言されていたら、これは全宇宙を恐怖と絶望に突き落とす。

父よ、彼らを赦して下さい。自分が何をしているか分からないのです。

亡国の予兆

と題する記事を宮内氏が書かれていた。イザヤ書にあるユダヤがバビロニアに滅ぼされる状況が今日のニッポンと酷似していることを指摘しています。確かに下記の御言葉に照らす時、親王誕生と浮かれている場合でもないのかも知れません。

わたしは、若い者たちを彼らのつかさとし、
気まぐれ者に彼らを治めさせる。
民はおのおの、仲間同士で相しいたげ、
若い者は年寄りに向かって高ぶり、
身分の低い者は高貴な者に向かって高ぶる。

わが民よ。幼子が彼をしいたげ、
女たちが彼を治める。
わが民よ。あなたの指導者は迷わす者、
あなたの歩む道をかき乱す。

シオンの娘たちは高ぶり、
首を伸ばし、色目を使って歩き、
足に鈴を鳴らしながら小またで歩いている。

ああ。朝早くから強い酒を追い求め、
夜をふかして、ぶどう酒をあおっている者たち。

ああ。悪を善、善を悪と言っている者たち。
彼らはやみを光、光をやみとし、
苦みを甘み、甘みを苦みとしている。

Commented by Luke 2006年09月13日(水)17:18

本日の「現代日本の権力構造」も読み応えがあります。本質をズバリですね。多分私たちが真理を生きる上でのもっとも大きな壁は「大衆」なのです。これは世でも、キリスト教界でも同じこと。天皇そのものではありません。

悠仁親王

お名前が決定。「ゆったりとした気持ちで、長く久しく人生を歩んで欲しい」との想いからだそうです。かくして万系一世万世一系、Y遺伝子が残りました。この国はやはり天皇が必要なのでしょうね。西欧式の「王権神授説」とか、「国家契約説」とか言われても、「よくわかんない〜」わけで、でも親王が誕生されると、私ですらうれしくなるわけで・・・。

ちなみにオウム事件で有名な脱カルト協会の滝本太郎弁護士は見事にこの名前を予言(?)されていました:

そりゃ、「天皇」みたいな象徴的な存在があったほうが、国は治めやすいものでしょう。人は、自らの人生が有限であると気づくとき、久のもの、それも自己の位置を明確にする久のものを求めたがるから。
つまり、日本人というか大和民族であるとき、天皇制があったほうが、自分が所属する大和民族としての久性を感じられて、その「伝統的支配」に魅せられやすく、それが確かに柱にしやすいものですから。

でも、同氏は

それで、「天皇」は、もはや公的な制度ではなく私的なものにしてしまうべきだと思う。
とりあえず、憲法どおり、本来の伝統どおりの象徴にするために、京都にお帰りいただくのが良いのですが。

とおっしゃっています。

さて、この天皇と言う存在はニッポンの歴史をどう決めていくのでしょう?再建主義者富井氏の言うように、天皇家にはユダヤの秘密が隠されているのでしょうか?それとも主イエスと礼拝対象の座を争う存在とされてしまうのでしょうか?ただこのベイビーには何も責任はないのですが・・・。

Commented by イザヤ・ベン・ハー 2006年09月12日(火)21:42

某掲示板に紹介されていました。同意です。
http://www.mainichi-msn.co.jp/shakai/wadai/news/20060912k0000e070053000c.html

"被害者"の真実

4月26日に「姉歯氏について哀れさを感じる」と書きました。ところがどっこい、しばしばもっともらしい素振りをする"被害者"は真実を歪めているもの。姉歯氏にはすっかり騙されました(→記事)。

 * * *

主にある捧げ物をいただくことがあります。サーバーの維持経費などに使わせていただいておりますが、感謝いたします。

アメリカの欺瞞

アップロードファイル 59KB昨日はTim&Joelleとの交わりをエンジョイしました。Timのメッセージをアップしてありますので、お聴きください。言語学者なのですが、やや英語がクリアではなかったですね^^Joelleは名前から分かるとおり、フランス人で、彼女の英語はもろフランス・アクセント。フランス語を聴いている錯覚を起こしました。いやあ、実にインターナショナルでしたね^^

 * * *

アメリカの上院でアルカイダとフセイン政権は何も関係がなかったこと、さらには大量破壊兵器も1996年以降保持していなかったと言う報告がなされました。当時愚かにも一部のクリスチャンがブッシュをほめたたえ、9・11テロにおけるイラクの影を指摘していましたが、すべては嘘でした。イラク戦争の大義は根本からなかったわけです。一説では一般民衆が10万人以上犠牲になっていますが、この欺瞞の刈り取りは今後長く続くことでしょう。

イラク戦に関する預言(と、気取りましたが、精神病理に基づいた予測です)
イラク戦-その後

英国よりのゲスト

本日はまたオープンキャンパス。お客様の接待デーでした。

そしてまた明日は英国のKingdom Faith Londonからご夫妻が見えます。KF_Londonは最近誕生したばかりで、人数は30-40名ほど。ご主人は言語学者で、今回東大における学会に参加される予定。来週1週間、横浜と京都・奈良を訪ねるそうです。

というわけで、彼らにイギリスの様子などをシェアしていただきますので、Dr.Lukeのメッセージはありません(どんどん私のメッセージの機会がなくなることを願っているのですが^^)。その後横浜を見物し、ランドマークでお寿司を食べ、69階展望台へとお連れするつもり。

言霊(ミーム)の風

これは何も「人権」に限ったことではない。放送禁止用語や差別用語の問題や、いわゆる社会的タブーなどは皆同じメカニズムが働く。ニッポンキリスト教においても、いわゆる「思考停止(エポケ)」をもたらすものは皆本質的に同じこと。

例えば「イスラエル」。イスラエル・フリークはもちろんのこと、イスラエル至上主義の某福音番組などを長年視聴して(刷り込まれて)いる人たちは、「イスラエルは神が選びし民、神の瞳であって、彼らに逆らうならば呪われる」と無意識に判断している。そこでは現実世界でイスラエルがなしている行為や、それに対する自分自身の感覚や考えは拒否されている。

あるいは「リバイバル」。この単語を前面に出されてしまうと、あたかも水戸黄門の印籠のごとき力を発揮して、異議を唱えることができなくなる。すべてを正当化してしまう単語なのだ。かくしてニッポンキリスト教においては、天皇制の是非を論じる以前に、すでに自分たちが諸霊の支配下にあることを知るべきである。表看板が「基督」か「天皇」かの違いであって、彼らが服している霊は一緒なのだ。現代の使徒だ、預言者だ、油注ぎの器だと、彼らがプロモートする風(霊)に吹き回されている様は、かつての「挙国一致」、「鬼畜米英」と吹き回された時代となんら変わりがない。だから「われら天皇の臣民は、自らを否み、自らの十字架を負って・・・」とごく当たり前のようにできてしまうわけ。

戦前と前後において、入れ物(社会システム)は「現人神社会」から「民主主義社会」に変わったとは言え、人間の本質は何も変化していない。同様に基督者と非基督者においても、その支配する霊が同じ点で何も変わらない。戦中のように、共に八紘一宇の実現のために邁進する場面が再現することは、今後十分に考えられる。問題は風の吹く方向。今回の安倍さん旋風と同じ。

さあて、今後このギョウカイ、どっちの方向へと流されていくことであろうか?

同様にわたしたちも、未成年であったときは、世を支配する諸霊に奴隷として仕えていました。しかし、今は神を知っている、いや、むしろ神から知られているのに、なぜ、あの無力で頼りにならない支配する諸霊の下に逆戻りし、もう一度改めて奴隷として仕えようとしているのですか。

最悪の結末

女子高専生殺害事件は加害少年の自殺で終わった。私は8月30日に「保護する必要がある」とし、あえて「逮捕」とは書かなかった。ここでも少年犯罪と言うことで、加害少年の情報が警察から一切流されなかったが、今日の『週刊新潮』では彼の写真と実名が出ている。しかし遅かった。

「少年犯罪」の言霊に束縛され、警察は情報公開などに及び腰となり、その結果社会が被るリスクを高めている。今回は逆に初動操作が後手に回り、保護することができなかった。この少年はネットからかなりマニアックなポルノ系やスプラッター系のビデオを入手していたらしい。遺体に対して凌辱行為をしていたとのこと。おそらくサディズム傾向を有していたのであろうが、同時に知性も高く、自省心もある少年だったようだ。これでかえって自殺という結末に至ったのだろう。以前の町田の少年とはここがやや違う点である。・・・が、これで真実が葬られ、両家族の無念さと虚しさだけが残った。

フロイトは晩年、人間性に絶望していた節があり、人間存在の本質をエロスとタナトス(死の願望)とした。自己破壊的な人間の闇に直面せざるを得なかったのだ。かくしてこの少年もサディズム傾向を抑制できず、同時に自省するキャパはあるために、その葛藤が自己を抹殺する形へと行かざるを得なかったのだろう。

何ともやりきれない後味の悪い事件であったが、ここでも昨日書いたように、少年の「人権」を守ろうとして、今回は(社会の被害ではなく)少年の命を失わしめた。社会から「人権」という城壁でソフト的に彼を隔離し、ハード的に彼の居場所を喪失せしめたのである。「人権」というミームを持つマインドウイルスのなせるわざである。あまりにも硬直化した「少年犯罪」の言霊から解かれ、対応をもっと具体的に考え直すべき時期なのではないか?

社会のリスクと患者の人権

女児が頭に重傷を負って発見された事件で、24歳の女性看護師が逮捕された(→記事)。精神科通院歴があるらしいが、どうも最近この手の人たちによる犯罪が多発している。で、ここで問題となるが表題の二つの関係。つまり社会のリスクを低くすると患者の人権が制限され、患者の人権を配慮すると社会のリスクが高くなる。つまり互いにトレードオフの関係にあるわけ。

現在の精神保健福祉法などでは患者の人権に相当配慮がなされており、保護措置入院なども資格を持つ医師2名の同意がないとできない。かくして精神科を開業する義兄の言葉、「世の中、患者さんがあっちこっちにフラフラと野放しで歩いている・・・」−これが実情なのだ。キリスト教界にもこの手の人々が寄って来る。彼らはこちらがやさしい顔を見せているうちは大人しいが、苦言などを呈したりすると、たちまち豹変する。その変わり様には実に驚くほど。

しかも最近ではこういった人々がネットを徘徊して自由な自己主張が可能となっている。またこうした人はすでに述べた様に病理を共有しフォリ・ア・ドゥ化し、ひとつの勢力すら持つようになる。こうして互いの妄想を膨らませ、屈折した自己像を肥大化する。しかし前から指摘しているが、こう言った人々とはけっしてガチンコしてはならない。それはきわめて危険。その病的な感情をかわすか、こちらが折れること。

しかしながらこれはこちらが大人であればの話である。彼らの病理性が弱い女児などに向かうことは、社会の防衛システムとして何とかならないものか。しばしば「人権派」と言う単語は十分に言霊あるいはミームとして社会にマインドウイルスを蔓延させるのだ。そしてそれは弱いところで発病している。

Commented by Luke 2006年09月07日(木)22:07

7月9日にゆりかもめの車中で塩酸をまいた35歳アルバイトは「自分は心身障害者の代弁者である」とする犯行声明文までも用意していたようだ。が、何のことはない仕事を転々とし、やはり通院歴のある者だったのこと。

最近は芥川賞の候補作も駄作ばかりだそうで、しかもビョウキの人の物語ばかりだとか。今年の受賞作品も、私に文学読解力がないためであろうか、何が言いたいのかよく分からないのだ。ニッポンキリスト教ばかりでなく、社会全体にビョウキがその表層を覆ってしまっている感じがする。

Commented by ひろこ 2006年09月08日(金)20:34

 近年いろいろ驚くような事件が出ている。人の心の闇、悪の思いが理性で、制御できなくなっているのか、または情報がすぐ日本中に伝わるから、多いのか
なんとも悲しい。科学、文化は進んできているようだが、人の心は昔から進歩していないようにおもう。
 私は、ささやかであるが、静かに主の愛が流れるようにいのろうとおもう。 

Commented by ICHIRO 2006年09月11日(月)10:34

またうつ病の母親が娘を殺しましたね。
公務員の飲酒運転もあちこちで、、、。
どうも私も気が滅入ってしまいます。