* 旧Dr.Luke的日々のココロ *
下の方でビョウキの定義を述べよとのご依頼がありますので、こちらでちょっとご回答をしておきましょう。
前から何度も書いているとおり、現代の特徴は自己の病理にあります。自己をすべてとし、自己を物差しとし、自己が価値判断の中心、自己が自己に仕えること。私の定義するビョウキとはコレです。自己が世界の一部ではなく、自己が世界と同一視されてしまうこと。これが倒錯を生む。現代はこの世も、教界も等しく、この自己の病理に冒されています。かくして牧師が信徒を喜ばせ、信徒もソレに乗っかり、互いに狂言回しをしている。そして聖書はこのような時代の到来を預言している:
だれも健全な教えを聞こうとしない時が来ます。そのとき、人々は自分に都合の良いことを聞こうと、好き勝手に教師たちを寄せ集め、真理から耳を背け、作り話の方にそれて行くようになります。
また 終わりの時代は自己の時代であり、すでに次のみ言葉は成就している:
こういう人々は、わたしたちの主であるキリストに仕えないで、自分の腹に仕えている。そして、うまい言葉やへつらいの言葉によって純朴な人々の心を欺いているのです。
しかし、終わりの時には困難な時期が来ることを悟りなさい。そのとき、人々は自分自身を愛し、金銭を愛し、ほらを吹き、高慢になり、神をあざけり、両親に従わず、恩を知らず、神を畏れなくなります。また、情けを知らず、和解せず、中傷し、節度がなく、残忍になり、善を好まず、人を裏切り、軽率になり、思い上がり、神よりも快楽を愛し、信心を装いながら、その実、信心の力を否定するようになります。
映画『ドリームガールズ』を観てから、私の中に眠っていたディスコの感覚(センセイション)が甦ってしまった。で、映画を観ながら音楽ショップを見ていると、ディスコのアルバムがあるではないか。題して『Best of Disco Nights』。うれしくなってつい買ってしまった。これシリーズなので、楽しみだ。マイケル・ジャクソン、アース・ウインド&ファイアー、ノーランズ、スリー・ディグリーズ、ウェザー・ガールズ・・・と。実は英国KFMのワーシップチームのパーカッション&ペット担当のラウル・ド・オリベイラは、日本のドリカムのバックでペットを吹くが、ずっと以前スリー・ディグリーズなどとツアーを組んでいた。
わくわくしつつ車の中で早速聴くが、わが大脳辺縁系の海馬が刺激され、偏桃核に火が灯り、当時のディスコの場面がフラッシュバック。何とも懐かしい感覚が・・・。世間もどうも昭和回顧の傾向があるようだが、私も完全に70年代モード。テレビでも、『ダンシング・シスター』などがケータイのCMに使われているが、多分私たちの年代のプロデューサーが仕切っているためだろう。
家でCDをかけると、風邪で寝ていた長女が「パパ、何でメグちゃんが知ってる曲かけてるの?」と。「これはパパの青春時代の曲だあ」と見栄を張ったが、実は今の学生のファッションセンスも、私たちのセンスとかなり似ている。世の空気が何となく70年代なのだ。昨日紹介したラビ・バトラも言っているが、時代(コスモス)はまさに循環するのだ。これもストイケイア?
午前はいつもどおりプールとサウナ。午後は映画。あのアカデミー賞で話題になった『バベル』。神の怒りに触れ言語を乱されて散り散りになった人類。神学的にはストイケイアの分散統治の下に置かれているわけだが、その地上のモロッコ、メキシコ、ジャパンで起きたそれぞれの事件。最初はつながりが分からないが、徐々にその連鎖関係、因果関係が見えてくる。
何気ない子供のイタズラでひとりの女性が負傷する。その銃は厚意によって人から人に渡ったもの。そして女性の子供たちは過酷な運命を経る。この3つのストーリーが一つの流れに収斂する。言語が違うために味わうフラストレーションと葛藤。これは私自身も外国で経験する。この緊張感がずっと続き、かなりシンドイ。が、最後は・・・。
ある意味、摂理的な事件のつながりで、これもストイケイアのなせるわざと言えるも知れない。3つの事件のひとつのテーマは家族の絆とも言える。言語は違っていても、これだけは人類普遍のもの。カタルシスはあまり望めないが、思い巡らすにはまことに適切にして、ある意味で聖書的でもある。ブラッド・ピットもアイドルからうまく脱皮しつつあり、なかなか渋い。
本日の夕日に映える富士山
クリスチャン・トゥデイ紙については、正常な霊的判断能力があれば、諸々の証拠と共に限りなく黒に近いと判断し得るが、依然として同紙に記事を書いている人もいるようだ。何故人はこういった事象を見抜くことができないのだろうか。
理由は簡単、色気があるから。メディアに露出したい人、メディアを利用して自分の団体を大きくしたいとか、名前を売りたいとか。要するに下心があるわけ。こういった人々にはいくら証拠を提示してもまず目が覚めないのです。
騙される人は騙す人によってソコをつけ込まれるわけです。ある意味で持ちつ持たれつの二人三脚。これはアメリカ発の諸々の現象も同じ。パワー・フォー・リビングでリバイバルが起こると思いますか?アブソリュートゥリー・ノー!
主は決して欺かれる方ではありません。だからこそ究極的にご自分を捧げることができたのです。先に私が畏れる人は、真にへりくだった人と書きました。今日は、欺くことができない人は自分を捨てている人である、と書いておきましょう。
さあて、花の金曜日です・・・。いつもどおり、iTumesから流れるJazzで過ごしております。『陰謀論の罠』―ここでも9.11テロについては何度も触れているが、アメリカの自作自演によるヤラセとの説を徹底的に否定する。著者自身が"最強のオタク"を誇っているため、オタク文化のプライドにかけているようだ。9.11ばかりではなく、真珠湾攻撃やトンキン事件についても触れている。陰謀論の魅力は世界の事象を統一的に説明できる点で、歴史の究極的メタ言語であるわけだ。一方で陰謀論に組することは知性の放棄であり、その究極が妄想であるとなるわけだが、私的に診て面白いのは、陰謀論に組する側も、否定する側も、同じような要因を持っていること。ある種の精神的傾向の裏表として現れるようだ。
『新たな黄金時代』―ここでも過去に紹介したラビ・バトラの新著。彼は日本のバブル崩壊も警告し、さらに2000年までに共産主義の、2010年までに資本主義の終焉を予言し、次に来る社会をPROUT社会としている。現在のアメリカ主導の"グローバルスタンダード"に基づく資本主義の極みで二分化社会となり、地元の商店街がシャッター街と化し、郊外にはアメリカ型大スーパマーケットが乱立している。人が資本のシステムによって消耗品となる中で毎年3万人以上が自殺し、それにアンチテーゼを提示することもできない無力感の中で、ニートだフリーターが400万に達する今のニッポン。アメリカの住宅と石油バブルと中国の投資バブルが破れる時、次の時代を迎えることになると予言する。バトラ博士は人を活用することが鍵であると主張される。
昨日の青春の話にはいくつのレスをいただきました。泣けてしまったとのお声もありました。やっぱり、どなたも甘酸っぱく、同時にちょっとホロ苦い想い出を持っているのですね。ジョニ・ミッチェルの『青春の光と影』と言う名曲がありましたっけ(映画にもなっています)。
邦楽では森田公一の詩がしみじみと迫る年代になりました:
卒業までの半年で答えを出すと言うけれど
二人が暮らした歳月を 何で計ればいいのだろう
青春時代が夢なんて あとからほのぼの思うもの
青春時代のまん中は 道に迷っているばかり
二人はもはや美しい 季節を生きてしまったか
あなたは少女の時を過ぎ 愛にかなしむ人になる
青春時代が夢なんて あとからほのぼの思うもの
青春時代のまん中は 胸にとげさすことばかり
でも私などはいまだに迷っているかも知れません。根本的に自己決定をしたくないのだ。考えてみると学生時代からわが生活も服装も変わっていませんし、気分もほとんど同じ。いまだにフラフラしていますし。カミさんとの関係も当時から古びた感覚もしません。子供たちは成長しましたが。 もっともっと力の抜けた、生きることの味わいを知るクリスチャンがどんどん出てくることを願っているところです。
クリスチャンではありますが、ニッポンキリスト教徒にはなりたくありませんし、この業界の病理と倒錯は想像以上だと分かりましたし、イロイロ言われても、まあ、創価学会で言われるようなもの。私の人生とは関わりがない。ただこうして皆さんとの個々の出会いと交わりは大切にしたい。
何とか教団の決議だの、決起声明だの、日本民族総福音化何とかなんて恐いだけですし、昨日述べた学生運動のアジ演説みたいなもの。ややうるさいBGMです。たまたま主日にはメッセージをしていますが、別に集会をでかくしたいわけでもない。油塗りがなくなって楽しくなくなったらただちにたたむ予定。ビョウキの人のお相手はほとんどしたくないし、信仰も基本的に自己責任でと考える。私はニッポンキリスト教公認の牧師などではないのだ。福音も主が伝えるべきと導かれた人には語るが、こちらから折伏することはない。互いに人間同士の関係を楽しんでいる。
まあ、こう書くと目を吊り上げた人たちからは怒られそうだが。依然としてモラトリアムしているわけかも。憧れるのは山に篭ること。桜と富士を愛で、温泉を楽しみつつ、生きること自体を慈しみたい。学生との触れ合いもそのひとつの楽しい場面ですし、個々のクリスチャン同士の交わりも同じ。こうして一期一会を大切にしつつ、主が下った時々刻々、日々、年月を主と共に生きる。これにまさる幸いはないわけ。
リバイバル音頭で、あの聖会だ、あの油注ぎの器だ、あの教えこの実行と、かまびすしいニッポンキリスト教徒を見ていると、何故か悲壮さと血気と油と汗の臭いがするのだ。もっと力を抜いて、日々を慈しみつつ生きればよろしいと思うのですが・・・。まあ、余計なお世話でしょう。あらゆる事柄の上に主のあわれみといつくしみに満ちた御手を覚え、その摂理の中に生かされていることを思うとき、何なのでしょう、意味不明な喜びがこみ上げるのだ。主にあっては私たちの光も影も、その栄光で包まれ、ナッシングと化してしまう。この死のダイナミズム!
聖なる方 聖き方に
誉れと栄光 賛美 永久(とわ)に
御座から恵み 憐れみ満ち
御顔の栄光に 我 消えゆく
すべてに 勝る
主よ ただあなただけが 完全 真実
アイ・スタンド・イン・オウ
聖なる方に、聖き方に、
高き御名 子羊 主よ
とこしえまで 変わらぬ方
造られしもの 何を持ても
御顔の栄光に 影 落とせず
−Faith05の"I Stand In Awe"(←視聴可)の和訳:
お昼休みにPCで、英語耳を養うために、DVDの『トップガン』を観ていたら、ドアをノックする音。出てみるとひとりの女子学生が。何か訳あり気なので中に入れてあげると、最初は話たがらない。で、こういう場合、大体の見当がつくので、ちょっと話を振ってみると、「先生、何で分かるんですか!?」と。もう20年以上、この年代の子達を相手にしていますから、黙って座るだけで細木数子程度には分かるのだ。
それから彼女も話し出して、私が「そう、がんばったんだね」と言うと、突如泣き出してしまった。ティッシュの箱を渡してあげて、話したり泣いたりで、小一時間ほど。表情がほぐれてきて、「ありがとうございましたぁ」と帰って行った。歳は20歳、わが次女と同じだ。彼らは何も考えてないようだが、それなりに彼らなりの重いモノを背負っているのだ。
で、ふと自分の当時を思い起こしてしまった。あの当時は何だかひたすら空回りしていた。大学へ行って、悪友と顔を合わせるとすぐに渋谷へ。当時は渋谷のセンター街も実にのどかだった。インベーダーゲームの真っ盛りで、喫茶店でコーヒー1杯で3時間は粘ったもの。「名古屋撃ち」をマスターしてから、腕が上がった。
わが悪友のひとりは加藤締三と麻原彰晃を足して2で割ったような風貌のむさい男。新潟出身で、新潟弁が面白く、何故か引越しばかりしていた。理由は大家が気に食わないから。私も引越しの度に駆り出されたが、結構新しい場所へ移るのは楽しかった。ある日彼のアパートの部屋でベッドの上に妙なものを見つけた。真っ黒になっているクマちゃん人形だ。「おい、これ何だよ?」と聞くと、あわてて隠そうとする。で、問い詰めると、何と「オレ、これがないと寝られないんだ・・・」。「ええ、お前、抱いて寝てるの!?」。実に面白い奴だった。その後農学部を出て、今アメリカにいる。今、前に紹介した唐木田氏の著書を読ませてもらっているが、彼らは学生運動の真っ只中で、サルトルの実存主義哲学を読まれている。彼女とのつきあいも、ボーボワールを介してだ。団塊の世代と私たちにはかなりのギャップがあるかも。対して、私たちの世界観は思想性はゼロ、汚いGパンをはいて、パーマでクルクル頭にした中村雅俊の『俺たちの旅』でしたから(今もわがカラオケの定番)。確かに駒場では学生運動家もいて、駒場寮はその根城だったが、私は彼らの「われわれはぁ〜、われわれのぉ〜、断固としてぇ〜、粉砕するぅ〜」といったアジ演説は全くのBGMだった。
職場でも団塊の世代とはけっこう付き合った。88年ごろに私の同僚でやはり学生運動をした方がいた。私より10歳上で、よくお世話になった。飲みながら「君は老成し過ぎているっ!もっと冒険しなくてならないっ!」とか、あの団塊の世代特有の独善的押し付けムードで迫られたりもした。彼は学生時代に結婚しているが、運動の女性同士がある晩の雨の中、汚いアパートにずぶ濡れで訪ねて来て、ふたりは結ばれたそうだ。まさにかぐや姫の『赤ちょうちん』の世界だ。その彼も1億5千万の家を購入した直後、書いていた本のゲラの校正をして徹夜の連続。ある朝、自宅のコタツで眠るように逝った。享年42歳、死因過労死。団塊の人の典型かも知れない。と、つらつらと書き連ねたが、ついに娘たちが当時の私の歳になったわけで、その頃のわが写真を次女に見せたところ、「ええ、これでタメ?老けてるぅ〜」と黄色い声をあげた。まあ、青春の形も実に変わりつつある。う〜ん、想へば、遠くへ来たもんだ・・・。
ずっと前にアメリカで、日本人学生が「フリーズ」の意味を知らずに射殺された事件があった。この場合は「止まれ」の意味だが、元々は凍ること。人は面白いもので、先の電車の中でのレイプ事件のような場面では、フリーズしてしまうのだ。思考停止、そしてアクション停止。
今回の米国の射殺事件のレポートをTIME誌で読んだ。非常に詳細に事件を記述しており、その臨場感のゆえに私までも背筋が寒くなった。多くの学生や教師がなぜたったひとりを制止することができなかったか。証言を読むとやはりフリーズしている。生存者の言葉があるが、頭の中は「次は自分だ」と、ただ机の下にもぐっていただけだったようだ。
これはまた致命的になり得る病気に罹患した場合なども同様。真実を受け止めることができず、恐れの感情によって思考が停止し、フリーズする。姿勢は受動的で、自らアクションを起すことがきわめて困難となる。
サタンもしばしばこうやってクリスチャンを威嚇する。例えば、クリスチャン・トゥデイやローカルチャーチのように裁判の威嚇をもって真実の隠蔽を図る。こういったとき、決してフリーズして受動的になってはならない。何らかの声を上げ、アクションを起すべきなのだ。
ちなみに今回山谷さんは提訴された場合、クリスチャン・トゥデイが2ちゃんねるでなした同氏と救世軍に対する名誉毀損に対して、1円の損害賠償金を求める訴訟を提起することも予定されているようだ。いいですね、大いにやりましょう。何なら、私も原告として加わってもいいですよ^^
かくのごとく、自分の立つところを明確に宣言すること。聖書の真理を自らに語り、また人に語り、サタンに宣言すること。サタンは恫喝の名人なのだ。多くの心病んでいるクリスチャンを見ると、ほとんどの人がこの受動性の罠に落ちている。自ら立つこと自体に恐れを感じているのだ。結果は、されるがまま。
最も効果的なことは主の御名を語ることだ。イエスの名を大胆に語る時、そこに主ご自身もおられる。あるという方がおられる。
神に従いなさい。そして、悪魔に立ち向かいなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げ去ります。
まず神に服すること、そして立ち向かうこと。神に対しては能動的に受動性を取るが、敵に対しては能動的に立ち向かうこと。けっして恐れによってフリーズして、されるがままにされてはならない。
聖書は創造主による人間の取扱説明書にして、霊的な精神医学書なのだ。
・受動性の問題について
例のタバコの件、その後、再び憤懣やるかたない様子であの教員がわが部屋に押しかけてきた。実は事務が気を利かせてくれて、私を別の部屋へ移動してくれたのだが、それを追っかけてきた!?ドアをノックするのだが、外で何かブツブツと言っている。よほど私の「仕掛け」にイライラしているのだろう。多分タバコ吹かしてもリラックスするどころではないでしょう(苦笑)。
ドアを開けてみると、彼いわく、「タバコを吸っていけないのは学生だけだ。教員は自分の部屋なんだからいいんだよ。事務に確認した」とか目を吊り上げているので、「じゃあ、事務に行って確認しましょうか?」と、彼と共に事務へ。結果は、「すべて禁煙です!」、チャンチャン。この人、どう見ても「公」と「私」が倒錯している。大学を自宅と勘違いしているのだろう。
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午前はいつもどおりプールとサウナ。午後は映画。『クイーン』−1977年8月31日、パリでダイアナが事故死する。その悲劇的死により世界中が一種のヒステリー状態に陥るが、その死に際して、たった独り涙を見せなかった女性がいた。エリザベス女王。父親の不慮の死により50年間女王を演じてきた女王とダイアナの価値観の相違は明らか。かくして女王から見ればダイアナは自由奔放過ぎたのだ。その確執が宮殿の陰謀説なども生むが、確かにその説を生み出すだけの因縁はあった。
女王はバッキンガム宮殿を離れ、バルモラル城に篭り、世間に対して一切のアクションを起さない。このことがますます世論をして女王批判をかきたて、1/4の国民が王室廃止を訴える。しかし新任の若いブレアが女王を説得し、ついに女王は国民の前に姿を見せ、追悼の辞を述べる。この1週間の女王の微妙な心理を描写する。
バルモラル城に篭りつつ、女王は自らドライブに出て、車が故障する。自らドライブして警護なしに出かけるのもビックリだが、彼女がやたらと車に詳しいことも意外。戦争中は車の修理をしていたらしい!?そこで何ゆえかの涙を流すが、ふと見ると品格のある雄鹿の姿が。女王はそれに感動し、ハンターから逃がす。が、数日後その雄鹿は殺される。わざわざその死骸の納められている場に自ら運転して出向く女王。その死骸を見て、深く憐れむ。
多分、この悠然たる雄鹿に自らを投影していたのであろう。女王は自らを退けて、まず国民のために奉仕することをすべてとしてきた女王。しかしダイアナに裏切られ、また国民に裏切られようとしている。ダイアナの死に対して冷静であるのに、雄鹿の死を痛む女王の心がやや怖いが、彼女の生き方がその倒錯を生んだのだろう。が、ついにブレアの進言に従い、国民とかろうじて和解を果たす。
ヘレン・ミレンが人間女王の孤独を実に見事に演じている。役者がそれぞれ実在の人物を彷彿とするのが、何かモノマネ合戦を見ているような可笑しさを覚え、これで救われる。また当初は微妙な緊張関係にあったブレアが、最後には50年間女王を演じてきた彼女を擁護し、結局は女王の威厳を守っている作品だった。日本の皇室では、例えば日本のダイアナ的存在である雅子様と皇后の確執や、彼女の孤独と葛藤など、こうは描けないであろう。ややシニカルが好きな人にはお薦め。
山谷少佐はクリスチャン・トゥデイ紙高柳泉氏による民事調停という、水面下でコソコソと問題を処理する魂胆に対して、毅然と拒否する心を固めつつあるようだ(→こちら)。その場合、CTは訴訟提起するだろうから、裁判となるが、弁護士費用が必要となる。しかし彼は年収300万未満世帯とのことで、それは困難。そこで本人訴訟(弁護士をつけないこと)も検討中とのこと。
私どもとしては、CT高柳氏の一連のやり方に対して、主イエスの名によってその卑劣さを断罪する。もし彼(高柳氏)が本当に裁判に打って出るだけの気概があるのであれば、私どもは少佐に対する支援を喜んで申し出たいと思う。「支援する会」を立ち上げることもできるだろう。ここをお読みの皆さまもCT高柳社長のこれまでの振る舞いにより、クリスチャン・トゥデイの本質が十分にご理解いただけていると思います。
NHKの『プレミアム10』でのカーペンターズ特集。一曲一曲が沁みて、一言、よかった。カーペンターズの曲を聴く時に、私は高校時代の夏を思い出すと同時に、10年以上前、子供たちが幼い頃に夏の北海道をドライブした場面を思い出す。当時、北海道を走る時にはつねにカーペンターズだった。
珍しい映像もあったが、カレンの素人っぽさが印象的だった。悪く言えばダサイ。ステージ上の衣装も振る舞いも、振り付けも何かぎごちない。人気が出るほどに大衆にサービスしなくてはならなず、それが彼女の本性とミスマッチを起していたような感じだ。彼女はドラムの後ろで歌うのが本当の自分だったのだ。彼女は普通の結婚をして母になることを夢見ていたようだが、それも破れた。
そしてついに拒食症。摂食障害を持つ女性はしばしば低い自己像を持っており、大人になることを無意識に拒否している。性的にも成熟することが怖いのだ。彼女は兄リチャードの後ろについていくことが本来の自分だったのだろう。しかしステージでは表に立つことを余儀なくされた。しかもその兄もクスリに溺れた。大衆を喜ばせ、それに仕えることの代価はあまりにも大きい。
リチャードが最後に言っていた、「カーペンターズは自分の人生でもあり、悲しみでもある。今、素晴らしい曲が思い浮かんでも、それを歌う声がない」と。
(写真は高校時代に擦り切れるほど聴いたアルバム"NOW and THEN"のジャケット)
『盗聴ニ・ニ六事件』。この貧困に育った兵士たちは天皇が自分についていると信じて決起した。しかし天皇の逆鱗にふれ、天皇自らが成敗すると宣言された。彼らを決起させた彼らの内にあったものは何だったのか。しかも昭和史の転換点となった同事件では(多分)政府が盗聴していた。その録音版に基づいて、事件の真相に迫るドキュメンタリー。
表に出る歴史はしばしば意図的な歪曲と創作がある。真実は隠されていることが多いのだ。たったひとつの文書で歴史が書き換えられることはよくあること。高校時代、歴史物は赤点スレスレできた私も、こういったドキュメンタリーにはかなりハマル。今後ますます表に見えることで欺かれることがないように備える必要があるだろう。
・神のご計画と"陰謀論"
クリスチャン・トゥデイ紙は山谷さんに対して、民事調停を申し立てたようだ(→こちら)。名誉毀損による損害賠償額金一千万円を要求している。皆さまにもぜひ本件を祈りに覚えていただきたいと思います。これでクリスチャン・トゥデイの「何か」が証明されることでしょう。このような策で山谷さんを沈黙させたいとは、彼らは一体何者なのでしょうか?