2003年10月09日

やっぱりですね

う〜ん、やっぱりですね。唐沢寿明と江口洋介ではカルイ。要するにニオイがないのですね。田宮二郎には体臭と皮脂油がありました。濃いオーディコロンがプンプン臭う感じで。まあ、新しいドラマとして見ればいいのでしょう。

最近の役者は体臭がなく、存在感が薄いところを、オーバーアクションでごまかそうとするために、滑稽になるわけです。クリスチャンも、同じように、臨在をただようわすのではなく、賜物や金歯・金粉の現象の追求に走っているので、浅薄になります。臨在感を伴う存在感、これを求めたいです。

    *  *  *  *  *

駿台での講義の為に朝10時に車で出たときの話。交差点で右折をしようと真ん中に入ったところで、なんとガス欠。車が新しいので、ガスメーターの感覚がないため。焦りましたね。警察を呼び、JAFに電話して待つがなかなか来ない。そこでペットボトルを持って近くにGSに走り、500ccだけ補充して、かろうじて脱出。冷や汗ものでした。

ところが夜9時過ぎに駐車場から出ようとすると、またガス欠。500ccあれば4,5キロは走れると計算していたのですが、タンクの中で気化してしまったようです。またまたGSに走り、今度は5リットルタンクを借りて、ようやく帰路につきました。走りましたね、冷や汗をかきながら・・・。やれやれ。

ちなみに、車はFORDトーラスからエスケープに乗り換えました。わが家は私より大きい子供が2人もいるので、国産車では小さいのですね。

    *  *  *  *  *

世界史の先生と話していると、彼いわく、「イラクでは独裁でないと、彼らはやっていけないのですよ。とても自主独立などできません。独裁を壊す前に、なぜ独裁が起きてきたのか、そこを考えていないので、アメリカはド壷にはまっています。それにしても、日本はATMではない(これまではそう思っていたわけですね)、などという発言は彼らの横暴さと無神経さを証明していますね。彼らはアホですよ。」まったくもってそのとおり。

しかしクリスチャンでも「主義」にはまっている人はかえってこのような視点はなくなり、事が見えなくなる。ややこしい預言解釈論争や政治思想論争に落ちてしまう。「教条」にはめ込んだ見方しかできなくなるためである。自然の感情や、自然の感受性を大事にしたいと感じている。

白い巨塔

日記を朝書くのも変ですが(もっとも私はすでに自分の墓を用意していますが^^)、今晩から山崎豊子の「白い巨塔」が始まる。77年に田宮二郎主演による同ドラマに吸い込まれた私としては、唐沢寿明では田宮二郎を超えることはできないだろうと思いつつも、少しは期待している。

山崎豊子は中国残留孤児を描いた「大地の子」や、日航機墜落事件を物語にした「沈まぬ太陽」でもそうであったが、徹底した取材と客観的にして理論的な文章で、真実を記述する。その筆遣いはある種の解剖学者による病理解剖のような印象がある。

大学病院の裏を暴くドラマであるが、財前教授の野心に脂ぎった様は唐沢寿明(淡白・平板すぎる)ではちょっと演じ切れないであろう。この野心に反して、母親を思う単純な子供っぽい部分に彼が単なる悪役ではなく、こちらも感情移入してしまうわけだが、昨今の内視鏡手術の実態から見て、医学部の古い体質はまだまだ健在である。

一方で私はニッポンキリスト教の有様は、大学医学部の医局のそれととてもよく似ている印象を持っている。・・・っと、時間です。

続きはまた後ほど・・・