2003年10月21日

たばこ裁判

たばこのパッケージにその毒性が明示されてないために、自分たちはタバコをすって肺ガンや肺気腫になったとして、JTと国を訴えた裁判で、「タバコを吸ったのは原告の自由意志である」として原告の主張が退けられた。真に妥当な判決である。仮に毒性がうたってあったところで原告がタバコを止めたかどうか、疑わしい。ほとんど言いがかりに近い訴えである。

自己責任がどこかへ飛んでいる、というよりは、責任転嫁もはなはだしい。ローマ書8:1には「今やキリストにある者は罪に定められることがない」とあるが、これは何でもアリのお墨付きではない。私たちは個々の具体的行動において、その結果を必ず刈り取ることになる。

それは神の責任でもなく、牧師の責任でもなく、親の責任でもなく、自分の責任である。自分ですべき事をせず、心の病を理由に逃避したり、人の責任にしたりしつつ、この自己責任を回避する甘えの構造が日本社会にも、またそれにもまして教界にはびこっているのは嘆かわしいことである。

霊的な代理権威

今年のFaithキャンプのジョン・ビヴェアのメッセージに、「地上における神の代理権威に服することが重要である」とあるが、これについて質問をいただいた。ある種の牧師はこれを盾に自分の独裁体制を作る傾向があるらしい。

私たちの信仰生活で、国家をはじめ、親や上司、夫婦や兄弟関係において代理権威に服することは、油の滴りを受け祝福を得るために重要である。しかし大切なのは、どの代理権威に服するか、自分で選ぶことができなかったらならば、これはカルトの支配構造となる。

私が現在英国のコリン・アーカートに服しているのは、隷従しているわけでもなく、自ら選んで服している。彼の上にある霊的な権威を認めているからである。つまり主の権威のありかを見ているからである。ダビデもサウルにそれを認めていたから、自分を殺そうとするサウルに自ら手を下すことがなかった。それぞれが自ら選びとってしかるべき権威に服すること無しにはクリスチャンは糸の切れたタコとなる。

私と共にセレブレーションに与る人もいれば、自ら離れる人もいる。私は来る者は拒まずであるが、去る者は追わずである。服することも主の権威を認め、自らの自由意志で選び取った結果であり、そのためには先にも書いたが神の前にまず自分が単独者として立っている必要がある。きわめて単純である。

ニッポンキリスト教の問題は、個人が神の前で確立しておらず、自分で立つことなく、盲従的に、あなた任せにし、自分の甘えが満たされている間はニコニコ、しかしいったん甘えが裏切られるとプッツンする。牧師を選ぶのも、医師を選ぶのも自己責任で主体的にしてほしいものだ。要するに大人になることである。