2007年10月17日

あわれみは裁きに打ち勝つ

私たちがキリストの御座(ベマ)において裁かれる時(2コリント5:10;白い御座ではない!)、各自のしたことはすべて露にされる。木、草、藁は焼かれ、しかし本人は火の中をくぐるかのようにして救われる(1コリント3:12-15)。

神は峻厳なる方であり、私たちの今の地上の生活がその裁きにおいて耐えられるかどうか、仮に主の名によって華々しいパファーマンスをしたとしても、それが法則によらないものであれば、主ご自身から、あなたを知らないと拒否される(マタイ7:24)。コレは永遠の滅びの宣告ではないが、千年期の王国からは排除される。

その座において耐えられるものは何か−ただ各自の十字架による死と復活を経たものだけだ。今回の亀田親子の姿を見て、まさにその裁きの場面を思った。果たして私はその場面に立ち得るであろうか?自信はまったくない。が、だからこそ自分を否んで主に頼るのみ。しかもヤコブは素晴らしいアドバイスをしてくれている。

 「あわれみは裁きに打ち勝つ」。
 
もし私が地上においてあわれみを示すのであれば、例えば私に欠けがあったとしても、その分に応じてあわれみを受ける。朝青龍、安倍総理、そして亀田一家と、時代によって求められ、仕立てられ、踊らされたヒーローたちが落ちていく時、大衆はそのサディズム傾向を露骨に露にする。一方で少年法で残虐な犯罪を犯した者が保護されるが、18歳の少年(単なる虚勢を張った子供だよ)が今回のような場面に曝される。かくして

人々は自分自身を愛し、金銭を愛し、ほらを吹き、高慢になり、神をあざけり、両親に従わず、恩を知らず、神を畏れなくなります。また、情けを知らず、和解せず、中傷し、節度がなく、残忍になり、善を好まず、人を裏切り、軽率になり、思い上がり、神よりも快楽を愛し、信心を装いながら、その実、信心の力を否定するようになります和解しない者、あわれみを忘れた者

となる。これは世に対する言葉ではなく、クリスチャンに対する警鐘であると受け取るべきであろう。

げに恐ろしきは人間のココロである−特にキリスト教を信奉する者たちのそれは、自分が神の側に立っていると思い込んでいる分、不気味ですらある。

亀田一家離散の危機

だそうだ。彼らもある意味で、昨日書いた大衆サディズムのターゲットになった。悪でも勝てばよろしいと言う風潮がひっくり返ると大変なことになるわけ。かつて私も彼らは負けたときがコワイと指摘したが、そのとおりになったようだ。しかしガッツや輪島も言っていたが、未成年者に対して、ややマジになり過ぎている感もある。彼が反則した時の表情を見て、哀れさを覚えたのだが・・・。オヤジはもっと厳罰でよい。あの動物的なオッサン、ちょいとカナリお灸を据えて、躾けた方がよい(→参考記事)。

 * * *

私がよく使う「ビョウキ」の定義を書いておきましょう:

ビョウキ(英:Sicko)】可算・非加算名詞、形容詞、時に副詞;自分の髪を自分で引っ張って空を飛ぼうとして苦節何十年、ひたすら神学だの教理だのを蓄えて、プライドだけ膨らませて、信仰に励むといつかは飛べると信じて、周りの忠告に耳を貸さない人々またはその病状のこと。ニッポンキリスト教に多様な様式をもって観察される。

要するに自分を相対化し客観的に見れなくなっているおめでたい人々またはその状態。

 * * *

現在スパム対策の可能な高性能なBlogスクリプトに移行作業中です。それまでコメント欄は閉鎖いたしております。