* 旧Dr.Luke的日々のココロ *
今日でセレブレーションはしばらくお休み。私は丸々3週間のお休みをいただきます。みなさまも夏休みを思いっきり楽しんで下さい。
私は夏が好きですね。あすから早速福島のS兄弟の山小屋にキャンプに行き、帰ってから田舎に帰ります。中学の同級会があるので、楽しみにしております。それからログハウスの候補地を散策。そして伊豆の海と温泉と・・・(これがないとやっていけません)。
人はホモ・ルーデンス(遊ぶ者)。人生楽しんだ者が勝ち。エデンの園では、ただ1本の木を除いて、どの木からも取って食べてよかったのです!サタンはこの豊かさから目をそらさせ、ただ1本の木に誘惑したのです。
逆に言えば誘惑から解放される道は、許されているこの無限の豊かさを味わうことです。ルカ15章の兄もブツブツ言った時、父は「私の物はすべてお前のものだ」と言われました。この兄は楽しんでいなかったのです。これがクルシチャンです。
つまらない"dos & don'ts"の「キリスト教」という宗教から解放されましょう。そして父の財産を用いて、生きることをエンジョイしましょう。
* * *
BBSの意見交換、いいですね。こういった率直な交わりができるととてもうれしいです。私はたとえ批判を受けても、互いの間に真実があれば、表面上の意見の相違は問題にはなりません。まあ、私の意見は叩き台になってもらえればいいかなと思っていますが。
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では、真っ黒になってまたお会いしましょう!
プールは7月は土曜日が5週あるので、お休み。で、午後からまたチネチッタにてカミさんと食事。イタリアンのコース。値段もそこそこでなかなか高級感があって、ウエイトレスもシャキシャキと気持ちがよく、料理もワインもいけてる。
映画は『亡国のイージス』。前評判が高かったので期待していたが、残念ながらいつもどおりのニッポン映画。戦闘シーンもゴッコの域を出ていないし、ストーリーもいまいち。韓国系のテロリストの動機もよく分からない。テロリストによるシージャック物ではセガールの『沈黙の戦艦』が秀逸だったので、つい比較してしまう。
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初めての書き込みです。
娘さんが自衛隊を希望しているとか。すばらしいことです。実は昨年のことですが、私の娘も、大学卒業後の自己の身の処し方をどうするのかと、親としてはらはらした気持ちで見守っておりましたところ突然自衛隊に入隊すると言い出し、遂に海上自衛隊に入隊いたしました。
自衛隊についての議論は際限がないことですが、声高に批判を繰り返している方に申し上げたいことは、「あなたの議論は結構なことです。しかしあなたのその議論によって一人でも人を救うことがおできになったのですか?」と申し上げたいのです。
どんなに偉そうなことを言っても、力がなければ人一人救うこともできない。しかし娘は自衛隊という枠組みの中ではあっても、その立場を与えられることによって、社会のまた、人の命の救いに貢献できる力となることができることに、親として誇りに思うと共に、神に感謝をしております。
あなたは信仰を持っているが、私は行ないを持っています。行ないのないあなたの信仰を、私に見せてください。私は、行ないによって、私の信仰をあなたに見せてあげます。(ヤコブ2:18)
確か、防衛医大は、偏差値分類クラス「0」(飛び抜けてスーパー超難関」)で、東大理3や慶応を抜いてメチャクチャ難しいようですよ。あるセミナーで防衛医大の御仁と四方山話になった時、「1年生はパラシュート降下訓練があってさぁ。俺、高所恐怖症の上に乗り物酔いで、やっぱ道を間違えたのかな・・・と思ったよ。」うーむ・・・
Commented by Luke 2005年07月30日(土)23:10Yamahiroさま、はじめまして。私は、実は、憲法9条は改正すべきと考えています。今のままでは欺瞞そのもので自衛隊員が気の毒です。永世中立のスイスですら、自分たちで国を守るために、イザと言う時は皆徴兵制でしたよね、確か。
今のニッポン、韓国や台湾と同様に、若者は皆2年ほど徴兵される必要があるとすら感じていますよ。エネルギーの空転で妄想ばかりを膨らませ、コスプレ化しているのが現状です、この世も教界も・・・。
まひるパパさん、そうですね。防衛医大は確かに特殊です。よくよく検討します(汗)
今日で試験もすべて終わり、800名分の報告書も提出し、ようやく夏休み。講義は実質10月からなので、これからしばらくは自分の時間が取れる。これが大学教員のいいところ。
KFCも7日と14日はお休み。一部には「礼拝を休むとはけしからん」との声もあるが、それは宗教者の訴え。礼拝はどこでもいつでも可能。アノ山でもなく、エルサレムでもない、霊と真理による礼拝。ただし、今年は友人の件もあるので、少し重い部分があるが・・・。
* * *
このところ株が堅調。数銘柄で利が乗っていたので、資金の流動性を高めるために利食い売り。CBも利が乗っているのがあるが、値動きは株よりは穏やかなので、もう少し粘ってみる。
献金で食べている神学オツムでガチガチの実務ができない"聖人"を私はあまり信頼していない。肉に仕えることを知らない者は霊に仕えることもできない。ニッポンキリスト教の"献身"はしばしば逃避。だから教職者に自己愛性人格障害や回避性人格障害が多い。で、超霊的な御仁はしばしば妄想系。
神学校で単位を取って、試験に合格して、牧師先生様の大量生産。この人たちを食べさせるのかと思うので、信徒は献金にブツブツ。牧師先生様も信徒様もどっちもどっち。主が不在の貧しい光景。私は大いに(もとい、ちまちまと)稼ぎ、自由に使う。人生は楽しんだ者が勝ち。
* * *
「ザイン」なる面白い集団が現われた。美女を両サイドに従えたこの男はいったい何者?世界を征服するのだそうだが、私には一部の聖霊派で、天皇をキリスト教徒化して、ニッポンを神の国にしたい人たちとあまり変わらないと感じているが。この種の人々とは関わりになると大変だが、見ている分にはその妄想振りが面白い。
「私」という闇
闇は恐れを、
恐れは無知を、
無知は偽りを、
偽りは迷信を産み、
そして迷信は滅びへと導く
私の民は知識がないことによって滅びる
「私」を捨てれば
光が差し込み、
光は真理を、
真理は自由を、
自由は知恵を産み、
そして知恵はいのちへと導く
闇は光に打ち勝たなかった
今午前11時。12時間近くのオペ。最後は体力と気力の問題となる。
Commented by まひるパパ 2005年07月27日(水)13:02当方も腸閉塞で入院中。引き続きお祈りさせて頂いております。あ、もうオペは終わっていますか?
完全な癒しをお祈り致します。「たましいが恵まれているように、すべてに恵まれ、また健やかでありますように。」
光合堀菌に加えて−
・サラ金のCM
忘れないで〜、お金よりも大切なものがある〜
忘れないで〜、あなたよりも大切なものはない〜
・でも、キリスト教界も
大切な君、あなたは愛されている、神のVIP〜
何だか、同じだ・・・「愛は地球を救う」と。十字架のない「愛」こそは、ヒューマニズム菌による汚染。
大学の地震被害は若干あった。私の居室もやや散乱していた。で、今日は期末試験。今週一杯試験週間で、それが終われば夏休み、と。
私の講義は結構人気があって、800名ほどが受講している。予備校ならば人気講師として1コマ(90分)で5万〜10万円。年俸で3,000万は稼げる(まあ、チョーク・ホストですね)。大学はというと、給料なので、残念。いずれ大学も生き残りをかけて、予備校方式に変わると予想しているが。
で、試験はマークシートでコンピューターで採点している。が、最後の報告書作りはコツコツと手作業。ここでミスがちょこっと起きるわけ。このあたりがニッポンのシステムの面白いところ。何故か全体の整合性がないのだ。郵政問題も解散風の脅しが通るかどうか。民間化してシステムとしてどう向上するのか、イマイチ不明。小泉氏のライフワークと言われるとそれまでだが。
* * *
「光合堀菌」なる得体の知れぬモノが注目を集めている。ガンをも治すのだそうだ。しかも「薬学博士」のお墨付き。しかし笑ってはいけない。キリスト教界もさほど変わりない。ベニヒン菌や、現代の預言者使徒菌がウヨウヨ蔓延している。ニッポンの「大リバイバル音頭」だそうだが、いい加減目を覚ましてね。盆踊り音頭の方がはるかに無邪気で無害。騙される者と騙す者、どちらも同じ菌を育てる培地を有しているわけ。踊らされて、お金を貢いで、平和なんですね、ニッポンは。
* * *
ダイエットが順調(67キロ)。今日は朝と昼とで700キロカロリー。夕方近くの三ッ池公園をジョッギング。帰って風呂にザブンとつかり、キンキンに冷えたビールが実にしみる。リバウンドを避けるために、筋力トレーニングを再開しようか。筋トレマシーンを新調することを検討。なにしろ息子に負けてますから・・・。
午前中はいつもどおりプールとサウナ。朝はカロリーメイト缶1本(200`カロリー)とエスカップ1本、それと各種サプリメントだけなので、かなり空腹感がキツイ。それで1,000bほど。さすがにサウナでは少々フラついた。あの元気印の西城秀樹もサウナで逝ってますから(もとい、まだ生きています)、要注意。水分補給が肝心。
午後はカミさんとチネチッタで食事。前に旨かった本場中華。ホットの紹興酒にザラメを入れると、すきっ腹に実にキクゥーッ。飢餓感があるので、とにかく旨い。昼にフワフワするのが実に気持ちがいい。
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私の帰国中の娘も昨日チネチッタで映画(宇宙戦争)を見ている最中に地震キタ━━━(((゜∀゜)))━━━!!そうです。同じところにいたんですね。
彼女は帰ろうにも帰れず9時半ぐらいまで川崎で様子を見ていたようですが、それでも駅も電車もパニック状態だったようです。
あ、ここでははじめまして^^
そうですか、電車は大変だったんですね。私は車でしたが、道路は平常でした。でも、悪いことはできませんね(^^;)
S兄とK大学病院に彼を訪ねた。正直、彼の姿を見るのが怖かった。二人で地下駐車場で祈った。
カーテンの向うには、かつて60年代オールディーズを気取った長髪でファッショナブルな彼の姿はなく、痩せて目だけギロギロしたおじさんがいた。覚悟はしていたが、「これでは道で会っても分からない・・・」。
すると彼の方から、私の目を覗き込むように、「唐沢兄弟、待っていましたよ」と手を伸ばしてくれた。痩せて血管の浮き出た彼の手を取り、しばらくそのままだった。そしてうつむいた彼がポツリと言った、「参りましたよ。こんなになっちゃって。家で治したかったんだけど、家族に迷惑かけているのがつらいよ。僕は無収入だから、子供たちにも働かせているし、先は見えないし・・・」。
そして私をまじまじと見て、「兄弟はこうなるって分かってたの?」と聞くので、躊躇しつつ、「ええ」と答えると、彼の顔に自嘲気味の笑みが浮かんだ。私は、そうかプライドの高い彼は自分が入院することは家族の手前できなかったんだと感じ、「何でもっと早く・・・」と大声で言いたかったが、グッと飲み込んだ。
思えば私はいつも彼のなす事毎に異議を唱え、しかもそれが私の警鐘どおりになっていたので、彼にとっては私はメンツを潰し、足を引っ張るだけのうっとおしい存在だったのだ。そして今回もそうなってしまった。病室の外を見つめて、「僕の心はあの空のようだよ」と言った彼の言葉が耳に残った。
しばらくの沈黙の後、遠くを見つめるように、彼が言った、「昔、まだ子供たちが小さかった頃、ワイワイ楽しくやっていた頃が一番純粋だったかなあ」と。私も「そうだね。あの頃は僕たちも若かったし、ケンケンガクガクやって楽しかった。兄弟、またケンケンガクガクやろう」と言うと、彼はうつむいて、「もういいよ・・・」と答えた。かつての負けず嫌いの彼の勢いを思うとき、悲しかった。
3人で祈りつつ、病室を後にした。私たちは彼のもっと深い部分に触れたかったという気持ちも残ったが、私たちもギリギリだった。やることはやれたとS兄と確認し合うことができた。今、主からの重荷は下ろせたと感じている。後はすべて主の御手にお委ねするのみ。
これまで祈りに覚えて下さった皆さんに感謝いたします。オペは26日予定です。12時間以上かかるようです。
わがたましいよ、主をほめたたえよ。主がよくして下さったことを何一つ忘れるな。主はあなたのいのちを穴から贖い出し、あなたの一生をよいもので満たされる。
肉に撒く者は肉から滅びを刈り取り、霊に撒く者は霊から永遠のいのちを刈り取る。
これは厳粛な真理。BBSで重力の法則の例を出したが、霊的法則がある(例の「4つの法則」ではない!)。どんなに「信仰」があろうが、「愛」があろうが、重力の法則は変わらない。信仰と思い込みは違う。この真理の前にただ服するのみ。これが信仰であり、信仰のない愛は幻想に過ぎず、愛のない信仰はむなしい。大切なのは愛を通して働く信仰。
神は無秩序の神ではないゆえに、秩序(=法則)に従って物事を成就される。表面的な言葉や道理はあまり信用できないことはニッポンキリスト教界を見ていれば容易に分かる。そして自分が何をどう信じているのかは、時間と共に実が証明する。それが平安な義の実かどうか・・・。
「誰かに恨まれていたら捧げ物を置いて、まず和解せよ」との御言葉に従って、私は互いの交わりのためにはいくらでも頭は下げる。しかし私がいくら頭を下げても、問題の解決にはならない。これはあなた自身の問題なのだ、ここまで問題を先送りにしてしまった。真に自分を下ろして目覚めて欲しい、わが兄弟よ。
N兄にも、LUKE先生にも主にある、平安のうちに、心からの交わりができますように、お祈りいたします。
わたしは、あなたがたに平安を残します。わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違います。あなたがたは心を騒がしてはなりません。恐れてはなりません。(ヨハネ福音書)
ポピュリズムに乗ったこういった手法がまかり通るとすれば、ニッポンの今後は暗い。もしかするとすでにコーナーを廻ってしまったかも・・・。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050719-00000023-san-pol
彼もギリギリだが、私も問われている−完全に手を離せるかどうか。どうしてここまでと、自分ながらに思うが、内なる方がこだわっておられる以上、私は解放されない。合格発表を見に出かける気分だ。
Lord, I am mere your bond servant. Let Your Will be done.
ひさしぶりにまったりとした時間を過ごしました。クーラー漬けは体に悪いので、裸になってバルコニーで日光浴を2時間ほど。太陽光線を浴びると、汗だくだくで何ともいえない心地良いけだるさが残り、脱力できる。アラン・ドロンの名作"Plein Soleil"のラストシーンのけだるさを気取って・・・。
夜は家族でカルビ焼き。日ごろダイエットで飢餓感をつのらせているので、こういった機会には欠食児童のように食べています。で、実に満足でした。まずい病院食を努力して食べている友人に思いを馳せつつ、日常の当たり前が当たり前にできることこそ幸せと感じます。
* * *
BBSではそれぞれに率直な交わりと証しをいただき、とても感謝ですね。確かにPeterさんの言われるとおり、主が語れ、と言われたことを単純に語り、反応はお任せできれば、それこそが主の僕なんでしょう。
しかしここにどうしても自分が入ってくるので、ややこしくなるわけです(自分に言っているのです)。まあ、あのエリヤですらつぶやいたり、逃亡したりしましたから・・・。実際、今週彼の病床を訪ねることになっているのですが、コンフロンテーションすべきなのか、お体裁で逃げるのか、どこまで何を語るべきか、少なからず気をもんでいます。
kamekameさんの言われる<教会=人格的交わり>はまったくアーメンでして、互いの間での<共有>が鍵になるかと感じています。もちろん究極はキリストのいのちの共有ですが、生身の私たちですから、主の言われるとおり、「泣く者と共に泣き、喜ぶ者と共に喜ぶ」ことが単純にできたら、それで十分なんでしょうね。
それとまひるパパさんの言われるとおり、BBSでは意見はそれぞれでも御霊にある交わりができていることは感謝ですね。意見のすり合わせはあえてせずとも、任せておければお互いに楽です。間違いなく共有できるのは、主は素晴らしいという部分。これがずれるとちょっと・・・ですが。
歳取ったせいで、ケータイは使えないし、何によらずマニュアルを読むのが苦痛になっていますし(若い頃はワクワクしたものですが)、神学とかのややこしいことはちと苦しいです。御言葉を単純に読むだけかな、私は・・・。
御使いはまた、私に水晶のように光るいのちの水の川を見せた。それは神と小羊との御座から出て、都の大通りの中央を流れていた。川の両岸には、いのちの木があって、十二種の実がなり、毎月、実ができた。また、その木の葉は諸国の民をいやした。
お兄ちゃんが相続放棄したことで、貴乃花が「勝氏は自分の軍門に下った」と宣言しているとのこと。やれやれ、大丈夫ですかな、彼は。ちと物が見えなくなっているような・・・。前にちょっとパラノ(被害妄想)が入っていると書きましたが。「肉を切らして骨を切る」は剣の極意ですが。
http://www.excite.co.jp/News/entertainment/20050715100003/17590.html
切られたのはどちらなのでしょうね?
でした。1,000人ほど来て下さって、教員がツアーコンダクターになって、ゾロゾロとキャンパスを案内するわけです。結構疲れますね〜。でも炎天下こういった単純な肉体労働を終えて、クタ〜と疲れて、風呂入って、冷奴でキンキンに冷えたビールを飲むと、これが幸せなんですね♪
で、今焼酎に凝っておりまして、ガイドブックを読みながら研究を始めました。本日の私のガイドはあんまり良いガイドと言えませんが、世のことも霊的なことも、良いガイドに出会うことは物事の上達の秘訣です。的をはずした苦労はなるべくしたくないですから。自己流でまったく別の寺を拝んで帰った仁和寺の和尚を思い起しました:
何事にも先達(ツアーコンダクター)はあらまほしきかな(吉田兼好)
「世のことも霊的なことも、良いガイドに出会うことは物事の上達の秘訣です。」
このサイトにたどりついた私たちのことですね(^^)
献金の申し出が。今度はクエートからで、アフリカの大使館で働いていたダンナが莫大な遺産を残し、自分も乳がんを患っていて・・・と。スジは前のと同じです。で、その額なんと250万ドル!私はそんな金はいらないっちゅうの。
ところが、たまに本物があるのだそうです。某大教会の有名牧師先生はこう言った申し出で、みんなが信じなかったのに、彼だけ出かけていったら、何と1億円をもえらえたそうです。250万ドルじゃなくて、250万円位なら食指が動くかも。貧乏人根性ですね、私も・・・^^
N兄弟が私と会ってくれることになった。オペがかろうじてできることになり、26日の予定。主が彼の心をここまでほぐして下さったことに感謝。
ウォッチマン・ニーは言っている:どのような代価を払っても、何にも増して兄弟の交わりの維持を第一とすること。主にある兄弟を拒否することは、それに関わる領域において主ご自身を拒否することを意味する。
彼がもし私を拒否し続けるのであれば、主を拒否することになり、決して平安なことではなく、それは私にとっても心痛むことである。私は彼との交わりで決して良心に反することはないが、それでも彼の心が私に対して開かれるのであれば、そして兄弟が主にある平安を得ることができるのであれば、私はすべてを下ろして、兄弟の前でひざまづこう。
Tヨハネ3:16−
キリストは、私たちのために、ご自分の魂のいのち(原語)をお捨てになりました。それによって私たちに愛がわかったのです。ですから私たちは、兄弟のために、魂のいのち(原語)を捨てるべきです。
本当に感謝ですね。主の御手を感じます。
オペの成功をお祈りします。
主よ、私がこの世に持っています信頼とはどういうものでしょうか。また天下に目に見えるあらゆるものから私が得られる慰めのうちで、一番大きいのは何でしょうか。それは言うまでもなく、あなたではないでしょうか。その方の慈悲心は数え切れないほどだと言います。
お力によらないで、どんな場合に私が幸福だったでしょうか。あなたを失くして富むよりも、むしろ私はあなたのために貧乏でいることを望みましょう。あなたを失くして天を持つより、むしろ私はあなたといっしょに地上をさ迷うことを選びます。あなたがおいでになるところ、そこがすなわち天です。それに引き換え、あなたがたおいでにならないところは、すなわち死と地獄です。
あなたこそ私が願い求めるところのものです。それで私はあなたに向かって嘆息し続け、叫び続け、切に乞い願わざるを得ないのです。結局のところ、私の神であるあなたお一人以外には、いざという大切な場合に、私の求めるにふさわしく援助を与えて下さるようなお方としては、どんな人でも十分に信頼できません。
あなたこそ私の望み、私の信じ頼る者、あなたこそ私の慰め手、万事につけてこの上ない真実なお方です。−トマス・ア・ケンピス
ある人が言うには、「人々の間に出かける毎に、私は前よりもいっそうつまらぬ人間になって帰って来た(別訳:良心の汚れを受ける)」と。私たちも長く人と話し合っていると、こういうことを実に度々経験するものである。
物を言って行き過ぎないより、全然何も言わないでいるほうがずっとたやすい。家に引っ込んでいる方が、外へ出て十分に自分の見張りをする力をもつより容易である。
それゆえ、内面的な、かつ霊的な徳を成就しようと志向する者は、イエスに従い、群衆から身を退くべきである。−トマス・ア・ケンピス
みなさまからお心遣いのメールをいただき、感謝です。医学的には決して楽観できる状況ではありませんが、主の御手による深い部分での働きを見ることができています。
主よ。あなたの恵みは天にあり、あなたの真実は雲にまで及びます。神よ。あなたの恵みは、なんと尊いことでしょう。人の子らは御翼の陰に身を避けます。いのちの泉はあなたにあり、私たちは、あなたの光のうちに光を見るからです。
わが思いはあなたがたの思いとは異なり、わが道はあなたがたの道とは異なっている、と主は言われる。
天が地よりも高いように、わが道は、あなたがたの道よりも高く、わが思いは、あなたがたの思いよりも高い。
In everything and everyway, I will worship You.
あさってS兄と共に彼の奥さんに会えることになった。医学的には私の持つ知識と統計データによってひとつの判断がある。1週間前に検査をしたそうだから、おそらく彼女の口から真実を聞くことになろう。
2月くらいから、正直言って、かなり苦しかった。心の真ん中にジリジリ・ヒリヒリと焼けるような焦燥感が居座って、もがいていた。しかしここ数週間は、主によって取り扱われている、という解放感と安息を覚えるようになってきている。確実に主の御手の介入を感じる。
I surrender all to YOU, Jesus.
良心が清らかである者は、たやすく満足し、たやすく安らぎを得ることができる。世の賞賛を博したからと言って、それでいっそう聖人になるわけでなく、悪口されたからと言って、それでいっそうつまらぬ者になるわけではない。あるがままのあなたがあなたであって、神の見たもうところ以上に出ることはできない。自分の心底がどんなかをよく省みれば、世の人があなたのことをどう言おうとも、気に病むことはなかろう。
人は表面のことを見るが、神は心中を見られる。人は行いを考察するが、神は意図をおもんぱかれる。常に行いを修め、自分をつまらぬ者とみなすのは、謙虚な魂のしるしである。何かの被造物によって慰めを得ようとしないのは、すぐれた潔さと内面の真実のしるしである。
自分のためにいかなるものも証しとして外界に求めない人は、明らかに自身をまったく神に委ね切っている者である。心の中で神とともに歩み、外ではどんな執着にも拘束されないこと、これが内面的な人間の姿である。−トマス・ア・ケンピス
苦難を誉れとするのは、神を愛する者にはつらいことではない。そのようなほまれを覚えることは、主の十字架をほまれとすることである。
世間の人が与え、また受けるところのほまれは短い、一時のものである。この世の栄光にはいつも悲しみが伴う。よい人のほまれは、彼の良心の中にあって、世間の口にあるのではない。
正義の人の喜びは神について、また神においてある、また彼らの喜びは、真理についてである。真実で永遠な栄光を願い求めるものは、この世の誉れを気にかけない。
またこの世の栄光を求め、これを心底から蔑んでいないものは、確かに天のほまれを愛することのより少ないものである。世の賞賛も、非難をも、気にかけない人は、大いなる心の平安をもつものである。−トマス・ア・ケンピス(岩波版)
十和田湖
私は神に至るいろいろな方法や、霊的生活の実践的なことについて書かれている書物をたくさん読みましたが、私の求めていた願い、すなわち、いかにしたら完全に神のものになることができるかということ指導してくれるものはなく、むしろ惑わされてしまうものばかりでした。
そこで私はすべてを得たいために、すべてを放棄するという決心をするに至りました。神にまったく自分を捧げ、神を愛することのゆえに、神に属さないこの世の一切を捨て、この世にあっては、神と私以外の何者もないとして生活を始めました。
時には、神の御前に自分がまるで裁判官の前に立たされた哀れな罪人のように思えました。そしてある時には自分の心の中で、神を私の父、私の神と考えるほどに親しく感じられました。
私はできる限り神を礼拝して、自分の心を神のきよい臨在の中に保ち、自分が神から迷い出た時には、何回でも神のもとに引き返しました。このように訓練することは自分にとっては決してやさしいことではありませんでした。
そして、不本意にも主の御臨在から迷い出ることがあっても思い煩ったり、不安を感じたりしないようにいたしました。どのような忙しい仕事に追われているときも、毎時間、毎分、決められた祈りの時間と同じように、私の心の中に神を覚える思いの妨げとなるものを追い出すようにしました。−ブラザー・ローレンス
6月10日に、若貴問題の解決はどちらか(貴乃花はムリだろう)が大人になって下りるしかないと書いたが、勝氏の見事な肩透かしで幕引きのようだ。彼は弟に花道をつけ、自由でいることを選んだのだろう。そしてこのような場合、モロモロの訴えをした側の歪んだ心の様がむしろ露にされる。
△冬の摩周湖▽
他の時にも、心を集中すると、すぐに私の霊も魂も晴れ晴れとし、心遣いや努力も要らずにそのまま続きます。さわやかに、動かされることなく神のうちに憩い、神が私のうちにいてくださるのを覚えます。
このような状態を怠惰とか、自己欺瞞、自己愛とか言う人もいるでしょう。たしかに、聖なる怠惰、祝福された自己愛とでもいいましょうか、そういうものがあることを認めます。魂がその中にあるときには、今このとき、神と交わることだけを考え、過去の行いなどに心を煩わすことはありません。
しかし、私は断じてそれを欺瞞と呼びません。神を喜ぶ魂は、ただ神のみを求めるからです。もし、私のうちでそれが欺瞞となっているならば、それを取り除いてくださるのは神であって、神はこのことで御心をなして下さるのです。私はただ神のみを求め、まったく神のものとなりたいと願っています。−ブラザー・ローレンス
私にとっては、定められた祈りの時間も、その他の時間と変わることはありません。・・・特に祈りの時間が必要だとは願い求めません。それは、どんな重要な仕事をしていても、私の思いが神からそれていくことはなかったからです。
少しでも神の臨在から離れると、神は直ちに彼の魂にそのことを気づかされて、再び戻して下さるのです。それは、彼がしばしば日常の仕事の最中に経験することでした。彼は、こういう内なる声に対して、実に忠実に応答しています。彼は直ちに自分の心を神に向け、このような愛の出会いにふさわしい、愛とやさしさとに満ちた、眼差しと言葉によって答えます。
たとえば、「私の神よ、私はここにおります。私はまったくあなたのものです。」すると愛なる神は、この僅かな言葉に満足され、再び彼の魂の中心に住まわれ、安息なされるのが、彼には本当に感じられるように思われるのです。
自分の中にこのような宝庫があることを発見し、絶えず彼は安息と満足とをもって、喜んでいることがお分かりでしょう。この宝庫を不安を持って捜し求めるのではなく、それは彼の前に開かれており、彼が望むものを自由に取り出せる状態にあるのです。−ブラザー・ローレンス
神は、私たちの魂に苦しみがあるときほど、甘い・・・。
日常の中で神様の臨在を味わう。今の私にとってとっても必要な心にしみるメッセージをありがとうございます。