2005年10月08日

MS-DOSへの郷愁

富井さんに対してWindows(いのちの御霊の法則)を持っているのに、何ゆえにMS-DOS(石に書かれた律法)を主張するか問いかけましたが、実際の話(喩えではなく)として、私はMS-DOSに対する愛着はけっこうあるのです。

どこかでも書きましたが、Windowsを始めたのは97年からですから。95年にお祭りのごとくにWindows95が発売になっても、かたくなに真っ黒な画面でやっていたのです!それもクロックが10MのPCで・・・。昔CP/Mをやってた頃は8ビットのZ-80で、メモリ空間はたったの64KB。ですから内部をほとんど把握していたのですね。

しかしWindowsはメモリ空間は膨大で、内部で何が起きているのか分からない。自分でやる主義の私は人の作った仕組みの中でやらされるのが嫌だったわけ。かくして世の流れに後れること2年。頑張ったのでありますが、やっぱりWindowsは便利だ。

それでも、現在なお、Windows版のFDというソフトで、中のファイルをすべて見ながら使っているわけ。皆さんはエクスプローラーでしょうが、これは見えるものが限られるのですね。

こんな次第で、再建主義も心情的にはかなり理解できるわけです。

ちなみにソフトウェア工学はかなり霊的なんですよ。特に最近のオブジェクト指向言語はね。こちらをどうぞ⇒JAVAと信仰

お詫びとお知らせ

BBSではかなりハードな議論が展開されており、話に入れない〜とのお声をいただきました。そこで「何でもお話しましょう」はライトな話題を、神学や哲学や科学などのヘヴィーな話題は「ハードコア・セッション」でやろうと思います。ライトかヘヴィーかはどこで分けるのだ、との質問もあるでしょうが、まあそれは個人の判断に委ねると致します。

では、そこんとこ、ヨ☆ロ☆シ☆ク。

実は小生も、疲れるから・・・と言いつつも、こういった込み入った話もけっこう好きなんですね^^やり出すと相当にハマリますので、あえて避けているといった感じですかね。けっこう一応インテリなんですが、それが何か?

ディスペンvs再建主義(修正版)

前に展開された山谷氏と富井氏の議論をまとめておきましょう:Keywordは「中間(間接)」と「直接」です。

■ディスペン側■

・統治の形態:神→天使的勢力(ストイケア)を介しての間接的統治(中間領域)→人類

・教会の役割:この中間層にいる天使勢力が悪鬼化することもあるから、教会が監視する

・律法の評価:律法自体も天使を介して与えられた。モーセ律法は型・影・養育係だから、キリストの出現によって廃された(富井さん的には第3の意義も)

・この世の評価:再生されていない(=特別恩恵を受けていない)この世も、司法や科学など15つの領域においても一般恩恵によって御霊の照明を得ている。

・時代の評価:現ディスペンセイションはキリストの初臨と再臨の間の中間的時代→キリストは現在霊的には王であるが、再臨によって実際的王となり、御国が地上に出現する

再建主義大論争を回顧する

■再建主義側■

・統治の形態:神→律法による直接的統治→人類

・教会の役割:律法を自らに適用し、さらにこの世にも適用して、宣教によって「地を従わせる」ことにより、神の御国を出現させる

・律法の評価:人類を祝福へともたらす神の手段であり、聖霊の力によって守れば祝福された「生活」を送れる

・この世の評価:世は神を排除し、律法を組み込んでいないので闇の状態にあり、その結果人間中心のヒューマニズなどが蔓延っている。

・時代の評価:キリストはすでにあらゆる領域で王とされたので、地はその主権に服するべきで、それは律法をあらゆる領域に適用することによる。今はすでに千年王国であり、全人類が福音を受け入れるとき、その確立によってキリストは再臨される

キリスト教再建運動とは

つまり互いに相容れない本質的な相克があるわけです。「御国の建設」と「キリストの再臨」をめぐってですね。まあ、泥を掛け合うのも分かる気もしますが、ゲームには泥をかぶらない観客もいますからね^^。

救済の意味

単純な思考実験をしましょう。

■質問1:エデンの園でアダムが善悪の木の実を取らず、いのち(Zoe)の木の実を取っていたら(仮定法)、律法は必要だったでしょうか?
■回答:必要なかった。
■理由:律法はまことのいのちの実体であるキリストへと導く養育係だから。すでにいのちを得たのだから養育係は不要。

■質問2:アダムとエバがいのちの木の実を取っていたら、神が送ったと考えらえる聖霊によって律法を行なって得られるいのちと、ただ信じることによって得られる義認としてのいのち(Zoe)を区別する必要があったか?
■回答:ない。
■理由:いのち(Zoe)はすべてを包含する。つまり律法の第1,2の機能(影としての祭儀的意味)は排されたが、残っている第3の機能(律法の趣旨)もいのちの御霊の法則によってまっとうされるから。

■質問3:「救済」には、善悪の路線上のものと、いのちの路線のものがあるのか?
■回答:ない。
■理由:もしアダムがいのちの木の実を取っていたら、「救済」という概念自身が不要となるから、契約神学とか、ディスペンセイション神学とかも不要だった。つまりいのちの木の実を取りそこなったから「救済」が必要なのだから、「救済」とはいのちの木の実を提供すること。私の理解はこちら

【結論】:要するに、人類がアダムの得損なったいのちの木の実を取れば神のご計画は成就する。アダムの失敗があったので、キリストは贖いのプロセスを経る必要があった(救済)。それが完成されている現在、いのちを得るためには私たちがキリストの死と復活に結合されること、それはすなわち信仰による。

※注意※モーセ律法の趣旨である富井さんの言われる第3の機能(人を神の標準に導き祝福された生活を送らせる)を排除してはない。なぜなら、それはいのちの御霊の法則に含まれるから(上位互換)。

【神の御心】わたしはあなたがたのいのちとしてあなたがたの内に生きたいのです。神と人が共に住まうこと、父と子として、また夫婦として。だからわたしの独り子をいのちとしてあなたがたに与えたのです。このギフトをただ信じることによって得てください。

シンプル・イズ・ベスト

もう少しまとめておきましょう:富井さんは、<永遠のいのちを得ること=義認>として、<神の基準に沿った祝された生活を送ること>とは別のものとしていますね。これも大きな驚きです。

なぜなら、私たち自然科学者からすれば「いのちと生活はひとつ」だからです。犬は犬のいのちによる生活、人は人のいのちによる生活。で、律法を行なうにはソレを行なえるいのちを得ればよいわけです。自動的に生活もそれを反映します。

今回の議論、なかなか面白いです。私たちが最終的に重んじることは、神はシンプルであること。自然の法則はきわめてシンプルかつビューティフルなのです。たとえば、

 E=mc^2

などね。

もうちょっとメモしておきましょう

■富井さんの構図は

聖霊
 ↓(神が送られたと考えられる) 
旧約の民→律法を行なう→いのちを得る(祝された生活を送る)

よって、律法は力はないが、いのち(Zoeではない)を与える

■私の構図は

律法はいのち(Zoe)を与えないから、キリストが死と復活を通していのちを与える霊となって

御霊の内住        
 ||
いのち(Zoe)なるキリストの内住→律法(それ以上)を全うする
 ||
力を得る(いのちの御霊の法則)

よって、いのちの御霊の法則はモーセ律法の上位互換である。(律法の第3の機能を排除していない!)