2005年10月13日

本質に迫ってきました

富井さんとのディスカッションは、結局、レビ系の祭司制度でのモーセ律法に対して、よりすぐれたメルキゼデク系の祭司制度での律法とは何か、という本質的な論点に来ています。英語では律法もlaw、法則もlawです。

祭司制度の変更によって律法も変わると明確にヘブル書に書いてあるのです。しかもこのレビ系の律法は富井さんの言われる律法主義者の「律法」ではない。純粋なモーセ律法です。

エレミヤ書の新しい契約で心に書かれる律法はモーセ律法であると富井さんは言われたわけです。これは石に書かれたものが心に書かれるわけですから、まあ納得できないこともありません。

しかしヘブル書では祭司制度の変更によって律法も変更されるとあります。では、そのメルキゼデク系の律法とは何か?

富井さんの回答を待ちたいと思います。印象として、富井さんの議論はいのちの次元が忘れられているのですね。しかし契約神学についても学べましたから、収穫はありますね。

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楽しんでいます、『三国志』。私と漢文の先生で話していたら地理の先生までも興味を持たれ、読み始めました。ちょっとしたブームになっています^^

もう少し遊びましょう

命題「p⇒q」とは、「¬(p∧¬q)」のこと。(「『pであって、かつqでない』ことはない」と読みます。例えば、「雨が降るならば傘を差す」とは「『雨が降っていて傘を差さない』ことない」ですよね。

つまり

「Windowsを使うならばMS-DOSを使っている」

ことを証明するには、

「『Windowsを使いかつMS-DOSを使っていない』ことはない」

ことを示します。

これを否定して矛盾を導く論証を「背理法」と言いますが、

『Windowsを使いかつMS-DOSを使っていない』

ことはあり得ません。そもそもWindowsはMS-DOSのカーネルの上に作られてきたのですから(今のNT系統は別ですよ)。これは事実に反するわけです。

よって証明終わり■

同様に「始めの契約(モーセ律法)」(MS-DOS)は「後の契約(いのちの法則)」(Windows)よりも劣りますが(これはヘブル書の語る事実です)、その原理は神の聖による愛と義に基づくものですから、後者は前者を否定しません(これは同意事項)。むしろ当然に含むわけです。よって上の証明がそのまま適用されるわけですね。