2005年11月12日

タケシの特番-良い頭脳とは-

頭がイイとは?この特番は面白かった。いわゆるスマートな頭は前頭前野が活発に機能している状態。特に46野がポイントだとの説を紹介していた。

昨今のキレル若者、NEETだ、引き篭もりだ、さらには鬱病などの蔓延は、この前頭前野の使い方に問題ありと考えられる。ニンゲンを人間たらしめる機能はココにある。

しかし最近の若者(ばかりでもないが)は、この機能がほとんど使われていない。小学校でも、「個性の尊重」とか称し、「総合学習」とかいったわけの分からない科目が入って、教師たちも困惑している中で、昔ながらの文章の暗記や、算数のドリルなどを機械的なベンキョウだから無意味としているが、実は違う。古の論語の暗記や読み書きソロバンの寺子屋式教育が最も必要なのだ。それは忍耐や自制心、さらには統合力や創造力を養うのだ。

そしてこれらの能力の欠如した人たちがキリスト教界に流れ込んで来ては、自らの鬱屈した破壊的エネルギーを発散している。彼らが求めるものは屈折した甘えの充足。対して人数を集めたい"愛に富んだ"牧師たちもせっせと彼らにお仕えするわけ。かくして共依存の闇が深まっていく。

なおも続くやりきれない事件

老夫婦が人に迷惑をかけないように、使わなくなった焼却釜に自ら入り、火を放って白骨化して発見されたとか・・・。しかも自分の生活を克明に日記にしていた。どんな気持ちで書いたのだろうか?

 * * *

町田の高校生はきわめてマジメで、大人しく、頭も良かったそうだ。近所の人も「どうしてあの子が・・・」とか言っているようだが、いかに人は外面しか見ていないかの証拠。

彼は幼なじみの被害者がどんどん大人びていく様を見て、ある種の嫉妬を覚え、自分が取り残される不安を感じていたのだろう。自分はいつまでも変わり映えのしないのに、彼女はどんどん女として成長し輝いていく。自分の手の届かない処へ行ってしまう焦りを感じていたのだ。男女の成長のギャップである。

その気持ちを相手にどのように訴えるか、まだ幼い彼は方法を模索し、今回彼女に迫ったのだろう。ところがその彼女から浴びせられた言葉は、自信のない彼を根底から否定するものだった。この年代の女性はストレートであり、自分が認めたくない対象に対してきわめて無神経かつ冷酷なのだ。

一方この年代の男子は内なる性的衝動を持て余しつつ、自分に対しては確信もなく、自信もない。彼にとっておそらくは自分を見失うほどの言葉を彼女から浴びせられて、我を忘れて50箇所以上、しかも頭部に集中して凶器を振り下ろした。

ただ理解できないのは、この凶行の後、冷静になっても淡々としている点である。自分がしてしまったことに対する客観的な評価がなされていない。あたかもベールがかぶさっているかのような印象を受ける。世界との接触のし方がどうもヴァーチャル化しているような印象を受ける。

 * * *

紀宮さまが天皇とアマテラスに対して結婚の報告とお礼をしたそうだ。アマテラスに対して!?選挙事務所には神棚が祭られるのを見たり、こういった場面を見ると、なるほど私たちクリスチャンは、日本に生きている異分子なんだなと感じる次第。しかし迫害というものは、この世から来る前に、まずキリスト教界から来るようだ。

女子高生惨殺さる

今度は女子高生が惨殺された。同級生によって50箇所も刺されたとのこと。尋常ではない。加害者も思春期のエネギーを抑圧してきた分、多分その子の「言葉」によってキレて爆発したのだろうが、ふだん大人しい人はけっこうコワイ。

私などもそのような抑圧された病的な感情をモロにぶつけられることが多々あるが、人の心のコワサを心底感じる瞬間である。彼らとは決してガチンコしてはならない。彼女は多分彼にとって致命的な言葉を投げたのだろう。彼らの感情をかわすこと。かわし損なうとこちらも傷を受ける。

感情と言うものは適切に解放する必要があるのであって、ニッポンキリスト教的聖人を装っている人は実はコワイ。正直言って、私は牧師たちを見ていると、表面では柔和な笑顔であるが、目が笑っていないのがコワイのだ。本心が見えない。絶えず人を値踏みしていると言うか、そんな眼の動きを感知し得る。その表情は作られており、どこか自然ではない違和感を覚えるのだ。医者でも科によって顔が違うが、私はこれを「牧師顔」と呼んでいる。

イエスはこのようなニンゲンの暗い感情をすべてご自身に引き受けられた。十字架をネックレスにしてぶら下げている人もいるようだが、本当の十字架は実にコワイのだ。そこにニンゲンの心底がすべて露にされるから。主がゲッセマネで何ゆえに十字架を避けようとしたのか。単に十字架で殺されることを恐れたのでないのだ。それは罪を知らない方が罪とされること。罪に触れること。ニンゲンの真実を引き受けることだった。