2006年03月01日

ご紹介-「事」ではなく「方」-

私がある意味でウンザリしていることは、「クリスチャンとして私は何をすればよいですか。自分は何をすべきか祈ってもよく分からないのです」と言う問いである。私は率直に言って、こう思っている:「私はあなたの主ではないから、私に分かるわけないでしょう」。

きょうemiさんのBlogを拝見したら、ホッとすることが書かれてあった。実にうれしくなりますね。「神の御旨を行うために、私たちは何をすればよいですか」と尋ねる弟子たちに、主は「神が遣わされた者を信じることだ」と答えられました。

「私は何をすべきですか?」との問いには実は自己が隠されている。自己を受け入れ、自己を認めてもらいたいと言う動機が巧妙に隠れている。自己から解かれることをメッセージすると、「どうしたら私は自己から解かれるのでしょうか」と尋ねられ、そろそろめげて来ていたので、ほんと励まされます:

              −源へ−

何かのメッセージがあった時、私たちの反応として、「では、私は何をすればよいのか。」という問いは、ある意味、見当違いなのでは、と思う。間違いではないとしても、かなり遠回りであり、ともすると、そこからでは目的地へは着かないかもしれない。

そのメッセージの源である方を知り、愛し、その思いを知りたい、似た者になりたい、という方向に導かれない限り、すべては応用不可能なバラバラな事柄であり、そこからどんな実が得られるのだろう。

(中略)

御言葉を読むとき、その中に自分のなすべきことを探す以上に、書かれたお方を探したいと思う。

民主党の行方

おぼっちゃまたちなんです。東大出て、大蔵省からすっと政治家になった人は、要するに人が良すぎるわけです。ニッポン政治界は一筋縄ではいきませんし、道理や高邁な理想で動くわけでもありません。これはニッポンキリスト教界も同じ。真理や神の御旨で動いているのではありません。裏と言うか、実際に動かしているダイナミクスは何だか同じのような・・・。私も永田氏とけっこう同じようなものでして、このギョウカイではとてもではないが、やれません、としみじみ。

Commented by Luke 2006年03月01日(水)12:01

自己レスです・・・。

しかしこんなことで本質的な話がすぐどこかへ飛んでしまうわけで。この気に誰かがほくそえんでいるような・・・。世間の目もマスコミも一方へと流れてしまうのはいつものこと。一人くらい別のことを語らないだろうか。

Commented by ジャーナリストA 2006年03月01日(水)16:02

もしこれがダマシだとしても、元ジャーナリストなる人物がどんな動機でしかけたのかが分かりませんね。単なる悪戯か、お子様的民主党を落とすためか。まさか4点セットで苦境に立たされていた与党側の策ではないとは思いますが。それにしましても、私たちの老後に希望はあるのでしょうか?