2006年03月02日

やっと・・・

わが部屋の片づけが8割方できました・・・。ここに至るまで、かなりつらかった・・・。でもね、けっこう気持ちがイイ♪

PCはXPを再インストールして、何とか安定しているかと思っていたら、今日また突然ブルー画面が出てダウン。何かのドライバがミスマッチしているらしいが、分からない。嗚呼、欝だ・・・。

 人生、勇気が必要だ。
 くじけりゃ、誰かが先に行く。
 歩いて行くんだ、しっかりと。
 自分の道を、さあ、歩め・・・と。

水戸黄門って、けっこう聖書的!?

 * * *

日銀の量的緩和策が転換期を迎えている。CPIの具合で4月にもこれを解除するらしい。すでに金利はそれを織り込んでじわじわと上昇してきている。日銀は低金利策を堅持すると言っているが。すると住宅ローンにも反映されるわけで、私もこの6月の金利見直しが気になるところ。国債は下がるわけで、すでに未消化分が出ている。これで郵貯が自由化され、350兆がアメリカに流れるならば、誰が引き受けるのか?1300兆の個人資産に匹敵する借金が積み上がっているわけで、オイルも確実に上がっており、貿易黒字も減少している。さあ、ニッポンの舵取りはどっちに向かうでしょう?ここしばらくはちょっと目が離せません。

信じることとは?

昨日のようなことを語ると、また質問が来るのですね、「私は自分が本当に信じているかどうか、分からないのです。どうしたらわかるのですか?」。嗚呼、もうアカン・・・涙。

使徒信条を「一、われは・・・を信ず・・・;二、・・・」とやったところで、それは信仰ではない。それは教義だから。実際、正教からすれば、プロテスタントも異端であって、プロテスタントの使徒信条は認めていないわけですから。再建主義からすると私はクリスチャンではないわけで・・・。

では、クリスチャンって何なの?信仰は頭で一連の体系化された神学や○○信条を信じることではありません。その「方」とひとつになることです。英語では"believe"と"believe into"とありますが、前者は対象を客観的に信じること。後者は対象とひとつになってしまうこと(into)。

「私は何をすべきか」とか「私は信じているのだろうか」と問いを発したときに、すでにその「方」を対象化(客観化)している。森の中に入ったら、その森自体は見えません。見えるのは1本1本の木々です。森の中にいて、果たして自分は森の中にいるのだろうか、と誰も問いませんよね。そのようなオツムのグルグル回りに客観的な回答を得ようとして、不毛な努力に陥る人があまりにも多い。

主は私たちのうちにおられ、私たちは主のうちにおり、こうして父と子がひとつであるように、私たちもひとつになること。これが信仰。そして信じた者は自らのわざをやめて安息に入る、ピリオド。アーメン。

はい、以上で質問は打ち切りです!