2006年10月23日

負け犬正当化社会への危惧

最近の自殺の連続について書きたかったのだが、やや心が萎えており、BBSでちょっと触れただけだった。ところがいつもどおりSalt氏がまことに的確な指摘をして下さっている。自殺は自分において加害者と被害者が成立する深刻な罪である。それは卑怯者また臆病者のなすことなのだ!聖書にはこう書いてある:

しかし、おくびょうな者、不信仰な者、忌まわしい者、人を殺す者、みだらな行いをする者、魔術を使う者、偶像を拝む者、すべてうそを言う者、このような者たちに対する報いは、火と硫黄の燃える池である。それが、第二の死である。

しかもSalt氏が指摘するように、最近のいじめを理由とする自殺には、きわめて狡猾な復讐のメカニズムが働いている。これは被害者を演じることが得意な病んでいる人々にも言えることであるが、被害者こそ最強なのだ。病んだ人々は真っ向勝負を避け、ソコへ逃げ込むことに長けている。よって彼らとは勝負してならない。元から勝負すべき相手ではないから。

ここにも以前に触れた自己憐憫と言うミームの伝染によるフォリ・ア・ドゥのメカニズムがある。そして最も危険なのは、これらの自殺者を無条件に"理解・同情する"マスコミと社会の風潮である。それは自己憐憫の投影に過ぎない。昨今の格差を悪とする行き過ぎた風潮も相まって(小泉改革がイイとは言ってないが)、負け犬正当化社会(注)ができようとしている雰囲気にかなり危機感を覚えている。このまま行けば、ニッポンは確実に国際社会で生き抜く力を失い、世界からいじめられるであろう。その時、誰に泣きつくのだろうか?いや、すでにニートだフリーターが400万もおり、しかも国が彼らの面倒を見るために税金から数百億の予算を計上すると言う馬鹿げた政策を取ろうとしている昨今である。聖書にはこう書いてある:

実際、あなたがたのもとにいたとき、わたしたちは、「働きたくない者は、食べてはならない」と命じていました。・・・こうした人々に対しては、静かに働いて自分で得たパンを食べるように、主イエス・キリストによって命じまた勧める。そのような者たちに、わたしたちは主イエス・キリストに結ばれた者として命じ、勧めます。自分で得たパンを食べるように、落ち着いて仕事をしなさい。

もっともらしい顔して論じている教育評論家たちに、イジメに対する処方箋として、かつてアジアで高い人気を得たあの名作『おしん』を推薦する。アジアのあの生命力はいずれニッポンを凌駕する。自殺だ、ニートだといったニッポンの病理は「やさしさの病理」であり、それは根本的にこの枯渇した生命力に「やさしさ」と言う砂糖をまぶしてカモフラージュしたものだからだ。

(注)敗者と負け犬の違いに注意して下さい。敗者には復活がありますが、負け犬は自らを自己憐憫に閉じ込め、自ら復活の可能性を排除するのです。

Commented by kenji 2006年10月25日(水)08:46

こういうご意見もあります。
>被害者はいつでも弱者。加害者は罪を犯したから罰せられねばならない。加害者は法的に、道徳的に裁かれて、自分の罪の責任を負わねばならない。そうしないと罪は消えない。
私はそれが正義だと思うけど・・・

Commented by Luke 2006年10月25日(水)11:57

加害者がジャッジされるのは当然でしょうね。私的には少年犯罪ももっと厳しく扱うべきと感じています。ここで言っていることは、法的あるいは倫理的な面ではありません。加害者と被害者の精神病理を指摘しているのです。

Commented by Salt 2006年10月25日(水)22:30

kenjiさんへ。

はじめまして。強弱は他者との比較によって成立する概念です。いじめがどうとかではなく、クリスチャンは「神の前にひとりで立つ」ことが大事だと思っています。神の前に弱いも強いもないでしょう。強いて言うなら、「私が弱いこそ強い」のです。

摂理

またひとり癌が疑われる方が出た。ある大学病院では組織の病理検査によっても診断でいていないわけ。これで時間を浪費して、取り返しのつかない事態を招くことがしばしばある。

私の子供もある疾患に罹ったとき、開業医は経験したことがなく、「様子を見ましょう」だった。抗生物質の効き方がおかしかったので、私は不信感を覚え、多分アレだとして、医者を変えた。するとそこにある大学病院からの女医がいて、彼女がちょうどその疾患の専門であったため、ただちに入院し、γ-グロブリンの大量投与で事なきを得た。この疾患は手遅れになると心臓の冠動脈に炎症によるコブができ、最悪の場合心筋梗塞で死亡する。その大学病院にはたらい回しにされた大勢の後遺症を持った子供たちがいた。最近も19病院をたらい回しにされ死亡した産婦がいたが、遺族はたまらないことであろう。

その女医との出会いは主の摂理による。聖霊派あたりでは歯を磨かずに虫歯になると、「金歯を入れてください」的な無意味な祈りをする。現代において、人間には裁量権が与えられている。山谷さん的に言えば、「一般恩恵」によって、医学にできる領域は日々拡大している。かくして人にできることは最善を尽くす(虫歯になりたくなければ、歯を磨くこと!)。そして主は摂理によって最善の環境を備えてくださっている(これは人の範囲を越える)。

今回のケースでは私の助言に従ってくださり、癌センターの私の友人が診てくれることになった。今度は無駄に死なせないぞ、兄弟。

Commented by Koji 2006年10月23日(月)17:43

明日、母が大腸がんの再検査を受けます。貴重な助言を感謝します。
主の摂理が母と共ありますように。