2004年02月28日

強迫傾向-ねばならないシンドローム-

日本人の精神病理の本質である。「かくあるべし」、「ねばならない」という強迫傾向。ひどくなると強迫観念や強迫行為にいたるが、ニッポンキリスト教の病理の本質でもある。

私のメッセージの中に映画の話や、温泉の話題、さらにはカラオケまでが出てくると、なにやら不思議に思う人々がおられるらしい。中には霊的に汚れるから、テレビ、映画も見ない、新聞も読まないと。カラオケなどは論外のようである。やれやれ・・・。

聖書が明確に禁じていることは4つ:不品行、偶像礼拝、生血を飲むこと、絞め殺したものを食べること。あとは「私たちにはすべてが許されているが、すべてが益になるわけではない」の判断基準に従って、それぞれ主の前で決めればよろしい。主と私の関係を損なうものは排除すべきであろう。

アダムとエバには1本の木を除いて、すべての木の実を食べることが許されていた。神の創造でもともと汚れているものはない。神は私たちを楽しませてくださる方である。汚れている感じる人には汚れるのであり、それは良心が弱いためである。実は強迫傾向はこの良心の過敏さによる病理である。潔癖、真面目、几帳面、勤勉と書くと良いことのように見えるが、融通が利かない、頑固、完全癖、ケチ・・・となるとうっとおしい。

自由の享受を損ねているのは、組織や規則ではなく、それぞれのうちにあるこの病理である。オウムなどのカルトはこの病理を巧みに利用している。良心の不安な人は何かに縛られることにより良心の安心を得ようとする。カルトの教祖(あるいはマニュピレートのうまい牧師など)はこの深層心理をうまくつかみ、信徒をコントロールする。こうして互いに役割分担を果たし合うようになる。実は相互の病理的依存関係にすぎない。

まことの自由は自己からの解放、すなわち十字架にある。それは最大の賜物であるキリストの死と復活につながれて、キリストご自身をエンジョイすることによる。