2004年08月26日

顔の話

オリムピックなど種々のアスリートが一同に会する時に、彼らの顔を見ていて感じることがある。ソレは種目ごとにある共通の顔があるということ。

シンクロはまた2位で残念だったが、彼女たちの顔はノペっとした卵型というか流線型。マラソンは野口をはじめ、目がくりくりしたちょっと扁平な幼顔。柔道は目が細くて引っ込みがちのちょっとネアンデルタール人系(ゴメンなさい!)。競技が顔を作るようである。おそらく競技ごとに心の使い方やプレッシャーのかかり方などが微妙に変わることによって、筋肉に影響を与え、それぞれの類型化された顔ができるのだと思う。

また私の友人でも長年LAにいる女性がいるが、彼女はたまに帰国すると映画で見られるような日系人の顔になっている。おそらく言語も顔に影響する。

リンカーンでしたか、男は40を過ぎたら顔に責任を持つべしと。最近ではプチ整形なども流行のようで、政治家も顔をいじっているようであるが(ちとキモイ)、人の顔は個々のパーツがどうのこうのではなく、内面性が整う時、全体として自然なある種の輝きを帯びる。整形で作られる美はちょうど北朝鮮の美女軍団のような違和感を覚える。

また漁師や農夫はそれなりの顔がある。職業も顔を作るのである。さあ、チンパン顔のブッシュよ、貴殿はリンカーンの言葉をよく噛み締めるべし。で、ひるがえってニッポンキリスト教徒の顔はどうか。私から見るとどうも牧師には牧師顔があるように見える。彼らも類型化された独特の表情を見せる。一言で言えば、笑顔でも目が笑っていない。主流派にはそれなりの、福音派にもそれっぽい、聖霊派はソレ系の顔がある。

しかるにパウロはこう言っている:

もし石に刻まれた文字による、死の務めにも栄光があって、モーセの顔の、やがて消え去る栄光のゆえにさえ、イスラエルの人々がモーセの顔を見つめることができなかったほどだとすれば、まして、御霊の務めには、どれほどの栄光があることでしょう。2コリント3:7-8

柔ちゃんと谷選手は二人とも輝くことができたと証しているが、ひるがえってクリスチャンはどうか。あなたは金メダリスト以上に輝いていますか?「うれしくって、うれしくって、ことばに、できなあいぃ」と。