* 旧Dr.Luke的日々のココロ *
が終わりましたが、弁護団は完全無罪を主張しています。すべては弟子たちの暴走であり、特に殺された村井氏にすべての責任をかぶせようとしています。麻原氏は立派な宗教者であって、だから6年間も黙秘を続けることができるのだと言っております。
何なんでしょう、ここに働いている霊は。偽りの霊そのものです。被害者の家族の心情を察するに、第三者である私でも憤りを禁じ得ません。もともと麻原の弁護にはわけのわからないオジサン弁護士が出てきたり、当初から混乱でした。社会心理的ダイナミクスのみでなく、明らかに何かの霊が働いています。弁護団も笑いながら記者会見していましたが、本音はやってられねえよ、でしょう。
キリスト教界でも姦淫をしている牧師に対して、みんなでその罪を愛を持って覆いましょう、裁いてはなりません、赦しあいましょう、といったマヤカシ事が行われているが、同じ霊の働きを感じます。偽りの霊はもっともらしい理屈で私たちの思いを侵食する。始めに感じた自然な直感・感覚をもって対応すべきです。思いは理屈をこねればこねるほどに欺かれるからです。
唐沢財前の「白い巨塔」、けっこういけてますね。配役が田宮ヴァージョンと比べて軽いと思っていましたが、唐沢氏はなかなかいい演技です。新しい「白い巨塔」として前作のイメージを払拭できるかもしれません。
唐沢寿明は、実は私のいとこなのですが(※)、苦節時代が長かっただけ、けっこういい役者になるかもしれません。木曜日の夜が楽しみになっています。ただ主題歌が何で「アメージンググレース」なんだろう?ちょっと違和感がありますが。
大学や権威のウラはもっと広く世間に知られるべきでしょう。裏を知っているとちょっと気楽に医者の言うことは信じられなくなりますが・・・・(汗)ひとつ紹介しましょう:医者が「様子を見ましょう」と言うときはまったく診断がついていない時です。ただちに別の医者に診てもらうべきでしょう。
※これはジョーダン。でもね、学生にそう言って紹介すると信じる連中もいるんですよ。何となく自分でも似てるかと勝手に思っていますが^^
このところ日記の内容がコワイという感想をいただきました。「である」調で書いたためもありますが、確かに私はけっこうコワイのです。
家内が私と知り合った頃、物をはっきり言うので、こわかったそうですが、付き合ううちにきわめて単純なプロトコルで行動することが分かったそうです。
要するに黒は黒、白は白と言えばそれでOKなのです。ここで言い訳や理屈をこねる人には私はかなり徹底的にそれらを粉砕します。今回もそうでした。簡単です、当たり前を当たり前に。これだけです。
病気だからとか、トラウマがあるからとか、アダルトチルドレンだからとか、現代は言い訳が山ほどあります。赤信号で止まり、青信号で進む。これができれば、何でもできるのです。
ノー・エキュスキューズ、ノー・コンプロマイズ。今年の夏の英国のキャンプでもこれが語られていました。ニッポンキリスト教にこの父性の要素がもっと回復される必要があります。病んだ母性が社会にも教会にも蔓延していますから。
私はこれまでニッポンキリスト教の律法的思考でガチガチになっている人々に、「○○すべし」とか、「○○は禁ずる」などの菓子箱にはまるような生き方をするのではなく、「私たちにはすべてのことが許されている、しかしすべてが益になるわけではない」を基準として、自分で判断するように導きを与えてきた。またキリストにある自由と罪定めからの解放をメッセージしてきた。
が、今回、とんでもない勘違いをしている人たちがいることが判明した。私たちはすべてのことから自由であるが、その自由を肉の働く機会としてはならないとある。またキリストにあって罪定めされないが、各自は自分の行動の責任を自分で刈り取る必要がある。真の自由を享受するには責任が伴う。
今回の「重大な決断」とはまさにこの問題を取り扱うことであった。放置すれば破廉恥な犯罪となり得る事態であるにもかかわらず、本人はその認識がなく、事の道理がわからない。キリストの体である教会の秩序を個人の自由を盾にして肉の働くままに乱すものは交わりから取り除かれる必要がある(1コリント5:11)。
私たちは自分で恵みによる祝福の道か、罪の刈り取りののろいの道かを選ぶのである。これは神の前と人の前における信仰の歩みにおいて厳粛な真理である。大リバイバルの預言で喜ぶ前に、ニッポンキリスト教はひとりひとりがキリストにあるオトナになる必要があろう。
今週の主日にKFCとしてある決断を必要とする場面が生じた。詳細はここには書けないが、クリスチャンにとってはとても大切な問題である。
本件についてはかなり逡巡をし、主に祈り求め、最後まで一縷の望みを託してチャンスを設けたが、最終的には相手方の拒否によって押し出されるように決断をした。
このようなある意味で人の今後を決定しかねない判断をすることは非常に畏れを覚えることである。もし間違っていたら、もちろんその全責任を私が神と人の前で負うことを意味する。
私はすべてを主に委ねて、その日の主の臨在によって判断の確認をしようと思った。参加された方は証しして下さると思うが、ひじょうに強い臨在があり、多くの方々が主に触れられた。隠れていたことも光の下に置かれた。
この件では私の知らない部分で陰での動きがなされており、影響された何人かの人々が去った。いっしょに歩んだ人々との別離は痛みを覚えるが、判断は彼らにある。彼らのことも主に委ねたい。
国体バスケの第2回戦、神奈川・静岡戦は、80:79で神奈川の勝利。何と3回戦進出です。
やれやれ、これで阪神とダイエー戦に加え、またハラハラドキドキのネタがひとつ増えてしまった(心臓に良くない・・・)
ビョーキが多いのは教界だけではなさそうだ。テレビでやっていたが、いい年の女性が若いホストにはまるケースが増えているらしい。
あるホストはそれほどイケメンでないにも関わらず、350人の客をもち、月収1800万!女性は肉体関係を求めることはそれほど多くはなく、裏切られない男女関係を一抹のヴァーチャルな対ホストの関係に求めているとのこと。
世の中、ケータイやメールの発達で、ヴァーチャルな世界の中でとんでもない男女関係が進展する時代であるが、ぬくもりとやすらぎがリアルな世界に欠如していることの裏返しであろう。これも私の予想通りの現象であるが、何とも言えず寂しいものである。
私が意に反して教会を開き、バイブルカレッジを開くことになり、実に多くのニッポンキリスト教の方々と接することになった。その率直な感想を一言:
要するにオトナになれない、あるいはなりたくない人々があまりにも多いことに驚く。自分の人生の責任を放棄し、あなた任せ、センセイ任せ、悪いのはすべて他人であり、自分は哀れな心の病に苦悩している、こんな自分を理解して、受け止めて、受容して、愛して、慰めて、哀れんで、同情して、自分は何もできないのです・・・・。
こうしてあちこちさまよっているジプシークリスチャンの多いこと、多いこと。あのセンセイはこうこう、あの教会はこうこう・・・。やれやれ、聞きたくもないウラ話をどっさり聞かされている。彼らの話の時間が90%、私が話す場面は10%。しかもちゃんとウラではこそこそ耳打ち話をひろめている。
どこまでが本当でどこまでが脚色か、このような話は心に残しておくとロクでもないことに巻き込まれるので、私は右の耳から左へと流してしまう。言い訳と自己主張がとれて、人の話に耳を傾けることができるようになる人は変わっていく。
ビョーキのせいで信仰がもてないのではなく、信仰を持たないからビョーキなのである。人には自由意志がある。最後は自己責任を問われることにいつになったら気がつくのか。
次女の国体のバスケの試合第1回戦は新潟と対決でしたが、見事勝ちを収めました。彼女も最後の1分半に出場し、2点得点したとのことです。やれやれ。
ちょっと親バカでした・・・・。
国体が浜松で開会されました。私の人生において国体などはこれまで何の関わりもなかったのですが、なんと自分の次女がバスケの神奈川代表選手に選ばれて、しかも一軍メンバーとして、あす第1回戦があります。こうなると体育会系にはなんらの興味もなかった私ですが、少々気になってきています。
面白いのは、次女の高校は私立ミッション系で、これまで国体選手など出したことのない学校なのですが、今回バスケが強い学校として有名になりつつあるようです。私立の場合、入試の偏差値などもアップするし、志願者も増えるし、といった副次的効果があり、次女もそれに貢献しているようです。
それにしても、学校の先生方や友人の親御さん、さらには私の親戚関係者がこぞって応援に行って下さるようで感謝なことです。あすのことを思って、私も少々ドキドキしてきましたよ〜(汗)
道路公団の藤井氏と石原大臣の対決、また中曽根氏・宮沢氏と小泉氏の対決、なかなか面白くなってきた。中曽根氏はあの人の信念からみて、なかなか難しいし、ある面では理解できる。
新旧交代−これも時代の流れであり、老獪な策士と青い正義感の駆け引きは、はたしてどちらに軍配があがるだろうか?
それにしてもニッポンキリスト教界においても、そろそろ長老的先生方の名誉あるご引退を願いたいと感じているのは、わたしだけであろうか。それどころか、老いてますます脂ぎる御仁が多いようである。御霊の油ならば香りがいいのであるが、しばしばオジサンの臭いが強い。苦節何十年、自分はすべてを投げ打って開拓から始め、礼拝堂をいくつ献堂し、信徒は今や○千人とやったあげく、すべての栄光を主にお返ししますとなるので正直言ってクサイ。
あるクリスチャンメディアの方がニッポンキリスト教界で働くにはオーディコロンが必要だと言っておられたが、なるほどである^^。
東京都教育委員会が、君が代と国旗に対する扱いについてかなり厳格な勧告をなし、それに従わない教職員は「処分もありうる」ではなく、「処分する」となった。
この調子だと、おそらく単なるシンボルにとどまらず、礼拝対象としての「日の丸」にまで至るであろう。またまたニッポンキリスト教の左翼系の人々が人権や信仰の自由を盾に騒ぎ出すことであろう。
しかし主は、先にも書いたし、メッセージでも語ったが、現在静かにこう語っておられる、「あなたは誰につくのか。わたしにか。では十字架の覚悟があるのか?」と。
結婚はキリストと教会を象徴する、クリスチャンにとってきわめて重要な人生の転機である。この奥義にしたがって進められる結婚は兄弟姉妹の認知と証によって祝福される。が、教会において、若い(とも限らないが)男女の間で自己中心的に進められる男女関係は、しばしば破綻をもたらす。
結婚は単に性的欲求を満たしたり、社会的対面を保つものではない。霊的奥義である。私たちが結婚をどのように評価し、どのように取り扱うかは、キリストと教会の関係をどのように見ているかの証しとなる。結婚は単なる男女間の恋愛感情によるものではなく、神と人の前における契約関係に入ることである。
信仰生活において結婚が適切に取り扱われていない人の場合、他の領域においても証しを損なう。そのような男女関係はキリストの体の証しを損なうことによって、交わりから絶たれる必要がある。今日の乱れた男女関係を許す社会、否、教会において、真に結婚を祝されることとするために、それぞれが何を第一に求めているかが鍵となる。
たばこのパッケージにその毒性が明示されてないために、自分たちはタバコをすって肺ガンや肺気腫になったとして、JTと国を訴えた裁判で、「タバコを吸ったのは原告の自由意志である」として原告の主張が退けられた。真に妥当な判決である。仮に毒性がうたってあったところで原告がタバコを止めたかどうか、疑わしい。ほとんど言いがかりに近い訴えである。
自己責任がどこかへ飛んでいる、というよりは、責任転嫁もはなはだしい。ローマ書8:1には「今やキリストにある者は罪に定められることがない」とあるが、これは何でもアリのお墨付きではない。私たちは個々の具体的行動において、その結果を必ず刈り取ることになる。
それは神の責任でもなく、牧師の責任でもなく、親の責任でもなく、自分の責任である。自分ですべき事をせず、心の病を理由に逃避したり、人の責任にしたりしつつ、この自己責任を回避する甘えの構造が日本社会にも、またそれにもまして教界にはびこっているのは嘆かわしいことである。
今年のFaithキャンプのジョン・ビヴェアのメッセージに、「地上における神の代理権威に服することが重要である」とあるが、これについて質問をいただいた。ある種の牧師はこれを盾に自分の独裁体制を作る傾向があるらしい。
私たちの信仰生活で、国家をはじめ、親や上司、夫婦や兄弟関係において代理権威に服することは、油の滴りを受け祝福を得るために重要である。しかし大切なのは、どの代理権威に服するか、自分で選ぶことができなかったらならば、これはカルトの支配構造となる。
私が現在英国のコリン・アーカートに服しているのは、隷従しているわけでもなく、自ら選んで服している。彼の上にある霊的な権威を認めているからである。つまり主の権威のありかを見ているからである。ダビデもサウルにそれを認めていたから、自分を殺そうとするサウルに自ら手を下すことがなかった。それぞれが自ら選びとってしかるべき権威に服すること無しにはクリスチャンは糸の切れたタコとなる。
私と共にセレブレーションに与る人もいれば、自ら離れる人もいる。私は来る者は拒まずであるが、去る者は追わずである。服することも主の権威を認め、自らの自由意志で選び取った結果であり、そのためには先にも書いたが神の前にまず自分が単独者として立っている必要がある。きわめて単純である。
ニッポンキリスト教の問題は、個人が神の前で確立しておらず、自分で立つことなく、盲従的に、あなた任せにし、自分の甘えが満たされている間はニコニコ、しかしいったん甘えが裏切られるとプッツンする。牧師を選ぶのも、医師を選ぶのも自己責任で主体的にしてほしいものだ。要するに大人になることである。
悩んでいる人、私はアダルトチルドレンと称する人、過去のトラウマがどうのこうのと訴える人、悪霊に憑かれたと叫ぶ人・・・これらの人々と接していて分かることは、当たり前が当たり前でなくなっていることである。現在に生きていない。自分の感情や混乱した思い、頑なな意志の中に生きていて、今この瞬間の神との交わり、信仰がどこかへ行っている。現在の自分の責任を放棄し、しかも「病気」がその免罪符になっている。
彼らは「自分は苦しんでいるから信仰が持てない」とよく訴えるが、真っ赤な嘘である。なぜならその言葉がすでに信仰の表明になっている。私は彼らには決して慰めの言葉とか、同情の言葉をかけることはしない。なぜならその彼らの偽りの信仰にアーメンすることになるからだ。赤信号を見て止まり、青信号で渡ることができる人は立派な信仰を持てるのである。
心が偽ると果てしない闇の中で、自分の思い、敵の思いが交錯し、感情は暗くされ、その魂の領域に拘束される。そしてしばしば人が悪い、親が悪い、教師が悪い・・・と果てしない自己責任の転嫁に終始する。私たちはある日主の前に立つ時、そのような言い訳はきかない。主は「あなたは・・・」と尋ねる。
私の元にいわゆるカウンセリングを期待して来る人は、大抵私につまづく。私はそのような人々にはこう言ってつっぱねる:「もっとあなたにふさわしいカウンセラーがいるでしょうから、そちらに行ってください。あなたの欲求を満たすカウンセリングをするならば、あなたは永遠に変わりません。私にそれを期待しても無理です。あなたが私のペースで従うならば、あなたは変わるでしょう。ご自分で判断しなさい。」と。
甘えをシャットアウトすることができないカウンセラーは、自分を偽っているか、自分に甘いか、下心があるか、商売をしているかである。彼らは容易にクライエントにマニュピレーションされる。ある人が言っていた、「医者を騙すのは簡単よ」と。そしてそのような場合カウンセラー自身が問題を抱えていることは業界の常識である。医者よ、自らを治せ、とあるとおりである。
黒澤明の名作『羅生門』は、ひとつの事件に遭遇した3人の当事者の証言が食い違い、それぞれ自分に都合のよい内容になるという人の心の闇を描いた傑作である。そこに起きた事実はひとつであるが、人の心を経て投影されるうちにその内的世界像は歪んでくる。
今回の石原大臣と藤井総裁の話も面白いことに、まったく異なる証言内容となっている。しばしば私もそのような場面に遭遇する。人との接触が避けられない立場にあり、人に対して叱責もする必要が出る場合も多々ある。よってある種の人々にとっては私は極悪人と映ることであろう。
しかしクリスチャンの場合、決定的な証人がおられる。主イエスである。事の真実において両サイドから矛盾する話を聴いた場合、私は霊においてどちらに主の臨在があるかで判定する。偽りには暗い闇の感覚が伴う。神の臨在を偽ることはできないし、臨在があれば内側の明るさが感じられる。
噂話で揺るぐ人々は心が定まっていないからである。固く主に結ばれ、主の臨在を測り縄にするとき、私たちは事の真偽は明白である。霊は人の心の奥深く探る。心を病んでいると言い訳する人は当たり前が当たり前でなくなっている。これを真綿でくるんだように当たり障りのない腫れ物に触れるような対応をすることによって、ニッポンキリスト教には当たり前でないことがはびこっている。病んでいるが、自分では病識が欠落してる。
リバイバルはまずそれが暴かれることから開始される。「裁きは神の家から始まる」とあるとおりである。聖霊の原爆が落ちる前に、神の手順をキチンと踏む必要がある。よって私は先のリバイバル新聞の"大預言"は偽りであると分かる。着々と、淡々と主の前に歩むこと。ここから外れて、このような"大預言"に従って果たしてどこへ向かうと言うのか。ただ主の大庭にとどまるのみである。
私は預言そのものを否定するものではない。それどころか、預言は新約の務めにおいてはもっとも重要である。問題はその中味である。これについてはこちらを参照のこと。
・預言の霊的機序
http://www.kingdomfellowship.com/Ministry/Articles/prophecy.html
もし神が日本で何かをなさるとしたら、第一にまず日本人に語ることであろう。わざわざアメリカの「油注がれた器」を経由する必要はない。この点でもすでに神の新約の方法からはずれている。ちなみに今回の「大リバイバル預言」の人々は「カンサスシティの預言者たち」と呼ばれ、一部では"Extra Bible"と評価されている。つまり聖書から逸脱する"預言"をしばしばしている。詳細はこちらを参照のこと。
・Christian Apologetics(カルト異端に関する文献集)
http://www.apologeticsindex.org//b56.html
聖書には「また彼らが、おのおのその町の者に、また、おのおのその兄弟に教えて、『主を知れ。』と言うことは決してない。小さい者から大きい者に至るまで、彼らはみな、わたしを知るようになるからである。」(ヘブル8:11)とある。
ニッポンキリスト教のクリスチャンがまず主の前に単独者として自立し、主から直接に言葉を受け、それを語り出すこと―これが真の預言であり、そのときに神がみわざをなさる準備が整う。はっきりと言うが、その準備はまだできていない。依然として教界では「甘えの構造」で、砂糖まぶしの説教と人間関係が支配的。甘言にはアーメンであるが、少々の辛口には「傷ついた〜」とか、自分はアダルトチルドレンでの言い訳で、十字架のキレがない。果てしない「自分は、自分が、自分の」であり、自己愛の温床と化している。互いに神のVIPとヨイショしつつ、当たり前が当たり前でなくなっているのがニッポンキリスト教である。
ネットを見ていると、これまでも、ベニーヒンが2003年に大リバイバルが起こるとか、シンディ・ジェイコブズの北と南からサンドウィッチのようにリバイバルの炎が包むとか、2004年に起こるという預言もあるらしい。この手の"預言者"の言葉には真の霊的な内実がない。言葉が空疎である。
今日本に必要な預言は、キリストのいのちの内実を伝達する、もっと重い、身の詰まったことばである。「油注がれ器」の「預言」をいただく前に、もっと深い聖書の御言葉の学びに入ることである。神はひとりひとりに御言葉をとおして語りかけてくださる。そして実はリバイバルはすでに起きているのである。信仰は「すでに得た」と証しする。リバイバルはいのちであり、いのちは十字架による。
神は今こう言われる:「真のリバイバルを求めるのであれば、あなたには十字架の覚悟があるのか?」
私も神の霊を得ていると思う。
リバ新にまたまたアメリカ由来の「大リバイバル」の預言の記事があった。何でも今度は原爆ではなく、聖霊の爆弾が落とされるとの事。これまでもベニー・ヒンにシンディ・ジェイジコブズに、その他もろもろ・・・。
やれやれ、私はこの種のものにはほとんど眉につばをする方である。彼らのイメージするような事はまず起こらない。理由は―
@リバイバルの意味がまったく聖書の中心からずれている。キリストのいのちに目覚めることなく、現象を求めても、それは神の本質から逸脱している。
A神の方法はいのちの種を着々とまき、水を注ぎ、手を入れ、一歩一歩育てることである。いのちを育てる環境も教会に整っていませんし、真理の回復も不十分。仮に多くの収穫があったとしても、それを受け入れ、育てるキャパが教会に整っていない。
このような大預言に振り回されることなく、ただ内なるキリストに焦点をあわせて歩む一群の神の民が起こされ、整えられることがまず必要です。ギデオンの時のように3万も要らない。精鋭が300人あれば、神のわざはなされる。私たちは主の前にあって、忠実かつ真実に、もっと腰をすえて、落ち着いたいのちの歩みをすべきでしょう。
ちょっと苦言を呈しました。
結局ニッポンはイラク復興に1500億円を拠出するようだ。これはEUなどの3倍もありダントツ。一応円借款の形にするらしいが、まだまだ貢君状態は解消されない。私の知り合いのアメリカ研究者によると、ニッポンの政治家がアメリカに招かれると、ほとんど直立不動状態となるそうだ。近々ブッシュも来日するらしい。あの貧相な表情は何とかならないものか。
アメリカが散々壊したあげく、日本の金をつぎ込んで、復興するという構図。さてさて、この金の流れはどこに注ぎ込んでいるのだろうか?答えは明らかであるが、ある有名な金融ジャーナリストですら、その真実(シカケ)を本に書くことができなかったほどである。書いたらまず、ケネディの時のギャリソン地方検事のように、妄想病者扱いされ、人格攻撃によりクレジットを落とされ、ほとんど社会的に抹殺される。
「JapanはATMではない」など、つい口をついて出る言葉にアメリカの無神経さと横暴さの本質がある。この無神経さと横暴さもどこにルーツがあるのだろう?答えは明白。結局日本は主権国家ではないのである(否、させてもらえない)。政治も教界も。お墨付きをアメリカから得なくてはならない始末。このような中でイラクにほとんど丸腰で派遣される自衛隊員とその家族が気の毒である。必ず死者が出ることであろう。
一方であの藤井氏はやはり解任無効の行政訴訟に出るようだ。さらに名誉毀損まで。やれやれ、このような人物が巣くってきた日本の官界の腐敗もそろそろ限度であろう。猪瀬氏が「納豆のようだ」と言っていたが、ホントいい加減にしてほしい。「人は歳を食ったからと言って賢くなるわけではない」と、ヨブ記でもエリフが喝破しているが、まさにそのとおり。この粘りを対アメリカで発揮してくれればよいものを。
ちなみに『文藝春秋』の今月号に鈴木宗男氏のインタビュー記事が出ていたが、彼もある面でやんごとなき外務省の"犠牲者"のようだ。一介の叩き上げのガサツな政治家が、東大出のスマートなエリート官僚に体よくはめられた部分もあるらしい。家族のことを語ると涙でボロボロになる宗男氏に少々感情移入してしまった次第。ミニ田中角栄的色彩もあったが、残念ながら今度の選挙は厳しいだろう。
かくしてニッポン丸は完全に"ある筋"によってはめられている。ヤコブ・モルガンという人物が10年ほど前にUG系の一連の本を書いていたが、そのシナリオが驚くほどに実現している。かつてはUG系、トンデモ系とされていた内容が、ここへきて急速に表に出てきている。歴史は偶然の産物ではない。必ずシカケがある。しかし、自己顕示欲は霊的闇の勢力のひとつの特徴であるから、つい自分を表してしまうのであろう。よくよく目を覚ますべき時代である。
ここ1ヶ月ほど家の中の不用品を片付け、大整理をしているが、出ること、出ること、要らないものが。捨てても捨てても・・・。面白いもので、何となく使えるからとか、いつか必要になるかもとか言いつつ、溜め込んであるわけ。人生もこんなものなのでしょうね。溜め込めば溜め込むほど自由が利かなくなるのですが、なぜか溜め込んだ方が安心するような感じがするわけ。
かくして、様々の地位や肩書きを、子供がワッペンをぺたぺた貼るように得たくなるわけです。あるいは自分の教会の教勢がこうなったとか、礼拝堂をいくつ献堂したとか、手柄のご披露となり、散々自分をひけらかして後、ようやく最後に「すべての栄光を主にお返しします」とやるわけ。この言葉をはじめて聞いたときには本当に違和感を覚えました。栄光ははじめから主のものでしょうに。お還しするものではありません。これもニッポンキリスト教の七不思議のひとつ。
軽く、軽く、身軽にシンプルに、淡々と、サラサラと生きたいと願う。生きるのにはそうたくさんの物は要らない。パウロが言うとおり、着る物と食べ物があればそれで十分。この点禅の坊さんなどはすごいものだ。何も持たずこの世に来て、何も持たずに帰っていく。ある禅の高僧は99歳で、「浮世狂言はやめじゃ」と宣言して食べなくなった。高齢では食べないと眠るように逝ってしまう。私はニッポンキリスト教の脂ぎったセンセイたちや、アメリカに洗脳されている原理主義者たちを見ていると、禅僧の淡白さ、サラサラ流れる生き方の方にはるかに惹かれるものである。正法眼蔵を著した天才道元などはその極致である。
あるいはブラザー・ローレンスのような主の前における隠遁的生き方。天の父は人に見えないところでなされたことに豊かに報いて下さる。多くの偉いセンセイたちはその報いを得損なっている。大衆が評価するものはたいてい嘘である。人から評価されない道をあえて選び続けたいものだ。
イラク派兵の兵士に自殺者が増加(通常の3倍ほど)しているとのこと(BBS参照)。人は意義の感じられないことや自分の良心に逆らうことに対しては心を病むものである。理屈は通っていても、心の真実を偽ることは出来ない。
テレビでも現役兵士がラムズフェルドあたりをもろに批判している場面が放映され、後にその兵士は処分を受けた。また現地の報道でも反米的な新聞などは徹底して取締りを受けている。自由と平等の実現の旗印のもとで行なわれている欺瞞である。すべて人工的なのである。
私は4月の時点で、イラクの国民が自立することはできないと"預言"しておいたが、そのとおりになっている。きょうの日経夕刊でも、ブッシュは自分が責任者であり、イラクには明確なビジョンがあり、必ず復興させると強弁している記事が出ていたが、彼がそのように叫べば叫ぶほど、彼の心の空虚が証明される。
このような指導者を神が立てた素晴らしいリーダーだとリバイバル新聞に書いていた者がいたが、メガネを変える必要があろう。このような指導者の下で自分のしていることの矛盾と無意味さに絶望する若い兵士がこれからも多く出てくることであろう。
近い将来において、ブッシュに対して、神の重い御手の介入があると感じている。
「馬鹿には話が通じない」という意味は、頭が良い悪いのことではなくですね、例えば物理学者に歴史の話は通じない、また逆も言えるわけですね。この意味の「馬鹿」なのです。
もっと言えば、将棋をするには将棋のルールを知らないとならないわけですが、碁のルールで将棋をするような場面、あるいは「1+1=10」と書いたら、お前は間違っていると叫ぶようなものです。
要するに話の土台が違っている、情報を共有できていないままで、ギロンをケンケンガクガクとなる様を「馬鹿の壁」と言うのですね。よくありますよね(^^)
『唯脳論』で有名な元東大解剖学教授の養老先生が、『馬鹿の壁』で百万部突破のベストセラーとなった。「話せば分かるは嘘である」と喝破した若干毒舌調である。要するに馬鹿には話が通じないと言う。
話が通らないことはクリスチャン同士のケンケンガクガクの様を見ているとなるほどである。なにしろ同じ聖書をはさんで、己が正しい、相手が間違いと延々とやっている。よく疲れないものである。
さらに『逆さメガネ』という本もお書きであり、要するにわれわれが現実を認識する際にはメガネを通して見ているのであり、現実そのものを見ているわけではないのである。私たちの内的世界像は歪んでいる。
ある方とメールのやり取りをしていて意識したのであるが、いわゆる聖書預言解釈なども、これまでの思い込み(ドグマ)をいっぺん御破算にして、新たに先入観無しに御言葉に触れる必要はないのであろうか?私などもどちらかというと「レフトビハインド」系であるが、どうも浅薄に過ぎる印象を覚えている。
映画『ベンハー』の中に、「神意は測りがたい」という台詞があるが、今回ブッシュを褒めちぎった米国原理主義クリもそろそろ現実を否応なしに知るべき時期が来ている。彼らにとってはブッシュの正体とその実態が暴かれることは、まさに天地が逆さになることである。日本が終戦で経験したことも同じである。
実はこれまでかけてきたメガネが逆さだっただけなのであるが・・・。
★最近の若い子の間ではケータイ依存症が多いようである。ケータイをいつも持ち歩き、メールを交換しつつ、互いの関係を確認し合っていないと不安に襲われるとのこと。若い一人暮らしの女性が寂しさのために出会い系サイトに関わり、犯罪に巻き込まれる。中には高校生で月に7万のケータイ料金となるらしい。
★主婦の間では万引きがそのスリルを味わうと止められなくなるらしい。あるいはパチンコ。男ならばアルコールやタバコ、さらにゴルフにマージャンにフーゾクにと。これらはすでに古典である。
★いずれも心の空洞を埋めようとする切ない営みである。人のぬくもりをケータイという間接的な媒体によらないと確認することができない。否、むしろ現実の付き合いよりもケータイを介した方が安心なのである。一人でいると寂しいが、人と近づきすぎるとトゲで差し合ってしまうジレンマ。これを「ヤマアラシの精神病理」と言う。
★人との距離感を忘れ、自分のアイデンティティの境界が不明瞭になり、他人との間で自分を確認することが困難となり、ついには引きこもりに至る境界性パーソナリティが、特に若い女性の間で増えている。以前に間接化の精神病理(http://www.kingdomfellowship.com/Column/flowing28.html)として少し書いたが、まさに私の予想通りの展開となっている。しかしケータイでは永遠にその空虚を埋めることはできない。
★クリスチャンはひたすらJesus依存になるべきである。神に依存することは他のあらゆることから自由となることである。人を恐れることからの自由、将来への不安からの自由、病や死からの自由。クリスチャンの成長は神依存の度合いによって計測される。まことの精神安定剤は御霊である。神依存と自由は比例する。自由、自由、自由。しかしその自由をあえて主張せず、キリストにあって制限することも出来る自由である。
"Not I, but Christ" −ここに鍵がある!
今晩のたけしのドキュメンタリーは面白かった。ケネディ暗殺の疑問点を洗っていたが、結局オズワルドによる単独説はほとんど崩れています。
@ザプルーダーフィルムに6コマ抜けがあること。これはFBIに預けた段階で細工されたもの。
A警察無線による銃声は5発。しかも3種類の銃の音。フィルムの6コマの抜けの間に4,5発目が発射され、4発目が致命傷を与える。
Bウォーレン委員会の報告書の「くねくね曲がる銃弾」の嘘はすでに明らか。
C当日のパレードコースをあえて中央通からエルム通りに変えた点。これができるのはダラス市長であり、彼はケネディにより罷免されたCIA長官の弟。この長官は後にウォーレン委員会の一員となる。
Dその後証人たち32人が不審死をとげている。
などなど。
以上の点について、失われた6コマが見つかり、銃声の録音と映像を照合していた。しかしこれらの点はすでにオリバーストーンの映画「JFK」や、その原作ギャリソン地方検事の本などでも指摘されていたので、新しい推理はないが、その推理を実証する点できわめて興味深い。
黒幕はCIAおよび軍産複合体。この陰謀の構図はその後のアメリカの体質を決めている。かくして9・11テロすらも陰謀の可能性を秘め、今日に至るアフガン、イラク戦に続く伏線となる。
自由と平等の理想国家の暗部はきわめて暗く、また深いものがあるようです。しかし今後神はこれらのことを明るみに出すでしょう。
教界においても、アメリカ発の新しい霊の流れみたいなものにはよほどの注意と吟味が必要でしょう。黄色いバナナにならないようにしないとなりません。アメリカ英語の本を何冊読んだかで牧師の品定めをするような傾向は、ニッポンキリスト教の霊性の浅薄さを証明しています。
ケネディ関係の資料はこちらをどうぞ。
http://www.maedafamily.com/
コンビニなどで勘定をする際、おつりをもらうために手を出すと、若い女性店員が、差し出した小生の手の平を上と下から包むようにしてつり銭を渡してくれた。最近しばしば遭遇するのであるが、はじめは驚いた。おいおい、僕の手を何で握るの!?と。これって何なのでしょう?コンビニの接客マニュアルにあるのでしょうか?しかし今日やはりコンビニで、オジサン店員に同じように上と下から手を握られて、ちとキモイでした・・・(汗)
世の中には不思議なことが流行するものです。若者のファッションも何となく70年代風、また店のBGMやCMで流れる曲も60,70年代、われわれが深夜放送に目覚めた頃の曲ですね。糸居ゴローのオールナイトニッポンや城達也のジェットストリームなど。あの将来右肩上がりの時代に青春を送ったわれわれの年代がプロデューサーやディレクターになっているからでしょう。
バブル絶頂期には東大の工学部の20%が金融系に就職したものですが、中には山一に行った者もいるでしょう、彼らは今ごろどうしているのでしょう・・・。目先を追いかけないことです。世と世のものは過ぎ去る、しかし神の言葉は永遠に立つ、とあるとおりです。
う〜ん、やっぱりですね。唐沢寿明と江口洋介ではカルイ。要するにニオイがないのですね。田宮二郎には体臭と皮脂油がありました。濃いオーディコロンがプンプン臭う感じで。まあ、新しいドラマとして見ればいいのでしょう。
最近の役者は体臭がなく、存在感が薄いところを、オーバーアクションでごまかそうとするために、滑稽になるわけです。クリスチャンも、同じように、臨在をただようわすのではなく、賜物や金歯・金粉の現象の追求に走っているので、浅薄になります。臨在感を伴う存在感、これを求めたいです。
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駿台での講義の為に朝10時に車で出たときの話。交差点で右折をしようと真ん中に入ったところで、なんとガス欠。車が新しいので、ガスメーターの感覚がないため。焦りましたね。警察を呼び、JAFに電話して待つがなかなか来ない。そこでペットボトルを持って近くにGSに走り、500ccだけ補充して、かろうじて脱出。冷や汗ものでした。
ところが夜9時過ぎに駐車場から出ようとすると、またガス欠。500ccあれば4,5キロは走れると計算していたのですが、タンクの中で気化してしまったようです。またまたGSに走り、今度は5リットルタンクを借りて、ようやく帰路につきました。走りましたね、冷や汗をかきながら・・・。やれやれ。
ちなみに、車はFORDトーラスからエスケープに乗り換えました。わが家は私より大きい子供が2人もいるので、国産車では小さいのですね。
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世界史の先生と話していると、彼いわく、「イラクでは独裁でないと、彼らはやっていけないのですよ。とても自主独立などできません。独裁を壊す前に、なぜ独裁が起きてきたのか、そこを考えていないので、アメリカはド壷にはまっています。それにしても、日本はATMではない(これまではそう思っていたわけですね)、などという発言は彼らの横暴さと無神経さを証明していますね。彼らはアホですよ。」まったくもってそのとおり。
しかしクリスチャンでも「主義」にはまっている人はかえってこのような視点はなくなり、事が見えなくなる。ややこしい預言解釈論争や政治思想論争に落ちてしまう。「教条」にはめ込んだ見方しかできなくなるためである。自然の感情や、自然の感受性を大事にしたいと感じている。
日記を朝書くのも変ですが(もっとも私はすでに自分の墓を用意していますが^^)、今晩から山崎豊子の「白い巨塔」が始まる。77年に田宮二郎主演による同ドラマに吸い込まれた私としては、唐沢寿明では田宮二郎を超えることはできないだろうと思いつつも、少しは期待している。
山崎豊子は中国残留孤児を描いた「大地の子」や、日航機墜落事件を物語にした「沈まぬ太陽」でもそうであったが、徹底した取材と客観的にして理論的な文章で、真実を記述する。その筆遣いはある種の解剖学者による病理解剖のような印象がある。
大学病院の裏を暴くドラマであるが、財前教授の野心に脂ぎった様は唐沢寿明(淡白・平板すぎる)ではちょっと演じ切れないであろう。この野心に反して、母親を思う単純な子供っぽい部分に彼が単なる悪役ではなく、こちらも感情移入してしまうわけだが、昨今の内視鏡手術の実態から見て、医学部の古い体質はまだまだ健在である。
一方で私はニッポンキリスト教の有様は、大学医学部の医局のそれととてもよく似ている印象を持っている。・・・っと、時間です。
続きはまた後ほど・・・
で、元組長さんの件はそれからどうしたのですか、とご質問をいただきましたが、これ以上は守秘義務もありますので、ここまで。日本には「あなたの知らない世界」がまだまだいっぱいあるということですね。
高度成長期に高速道路などの社会インフラを作り、用がなくなるとポイ捨てされた人たちが寿町にはたくさんいます。この頂点に例の藤井総裁などもいたわけです。搾取の構図です。おっちゃんたちはダンボール箱の中で世を観察しています。日本を実によく知っています。
年金制度も40%以上の確率で崩壊するなどの予測も出るほどにこの国は心が貧しいのです。中心にある価値観は「I, My, Me, Mine」の「自分」だけです。アメリカによって人工的に移植された「自由と平等」の成果です。
山梨のゴルフ場で3人の遺体が発見された。日雇い労働者で飯場で働いていた人であろう。寿町にいた頃この手の話はよく聞いた。山奥のダム建設現場などでは、田舎から夜逃げしてきたような人々を拘束して(これをタコ部屋という)、体力が弱くなったら生きているうちに埋めてしまうこともあったという。
ゼネコンが仮に10万/日の仕事を請けると、下請け、孫請け、ひ孫請けと回し、その間にサヤを抜いて、一番下の日雇いの人には1,000円となる仕掛け。間は文書を回すだけで何もしないで分け前に与る。日本社会の象徴である。
タコ部屋に一人売ると50万ほどが相場。上野駅で東北から家出してくる少女を風俗に売ると一人100万円だそうである。こういう人たちを手配師という。要するに人身売買である。悔い改めたある元手配師のオッチャンは若い頃400万/月の収入があり、かなり羽振りがよかったらしい。
ちなみに、寿町でイエスを受け入れた元ヤクザの組長が真顔になって告白した、「先生、実は、むかし、自分は人を一人やっちまって、○○に埋めたままなんだよ。どうすりゃいいのかね」・・・彼は今ヤクがらみの別件で服役している。
わたしが「○○主義者」と呼ぶ時の定義を少し与えておきたい。単純に言えば、ある対象について黒を黒、白を白と言わない(言いたくない)人々を、わたしはその対象に関して「○○主義者」と呼んでいる。
例えば昨今のアメリカの所業に対して、アメリカの批判をするとする。これは黒を黒とすることであり、別にアメリカが嫌いで言っているわけではない。しかしアメリカの現在の所業には反対である。これがアメリカに対してニュートラルな人々の正常な反応である。
対して、このような批判をした場合、ただちにアメリカ全体に対して「アンチ」であるとのレッテルを貼る傾向のある人々、あるいはアメリカの所業についての判断をしたくない人々を「アメリカ主義者」と言う。彼らはアメリカに対する客観的な批判精神を失っている。
これは一般にカルトにおいて観察される病理である。カルトではその教祖を批判することはただちにそのカルト全体に対してアンチであり、反逆者あるいは迫害者とのレッテルが貼られる。教祖に関する限り、思考停止(エポケー)に陥るわけである。
また今回イスラエルがシリアに空爆を加えたが、このような所業は普通の精神と感受性を持っている人は、批判的な反応をするはずである。しかしイスラエル主義者は「当然のこと」あるいは「批判は避ける」、もっと深刻な場合、「価値判断を留保する」となる。エポケーに陥っている。
イスラエルの聖書的な経綸上の独自性と役割を認めることと、彼らの現在の所業の判断とは別の判断カテゴリーに属することである。これをいっしょくたにして、イスラエルの所業を批判する人々を「反ユダヤ」とすることはすでにカルトの病理を呈している証拠である。
実はこのような反応はすべてある種の霊と精神病理によって起きている。イスラエル主義者から受ける印象はある一定の傾向があり、またパレスティナ支持者から受ける印象もある一定の傾向がある。表向きの思想性は実は本質ではなく、すでに述べたように、あの地の問題は霊的要素の絡んだ精神病理的現象なのである。政治のレベルでは決して解けない問題である。
これを書いている20:31現在で、アクセス数が214ヒットありました。裏で密かに(^^)アクセスの統計を取っているのですが、これは記録です。かつてこのページを徒然なるままに立ち上げた頃は、カウンタがちっとも動かなくて、自分でカチカチやっていたのですね^^(100位までは頑張りましたが・・・)
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ついにイスラエルがシリアに爆撃しましたね。アメリカは例によってイスラエル支持です。以前から次はシリアとBBSでも書いてきましたが、いやはや実際にそうなろうとは。イスラエルもパラノイドの極致に達しそうです。
中東の情勢は、実は政治問題もなく、宗教問題でもなく、精神病理的問題なのです。だれがこれを鮮やかに解くのでしょう。多分、政治家と言うよりは、人の心をつかむことに長けている魅力的な人物でしょう。そう666の登場です。サタンは光の天使にマスカレードします。
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パソコンを組み立てているのですが、やれやれ、パーツの相性が悪くて、スイッチを入れてもbiosが立ち上がりません。自作機は初めてスイッチを入れる瞬間のスリルがたまらないのですが、う〜む、どこが問題か、しばらく頭に引っかかります。わたしはなるべく物を考えたくないので、頭にひっかかる事を避けているのですが、ちとうっとうしい。
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それにしてもあの藤井総裁と言うお人も大した御仁ですね。この期に及んで、ボンボン若造大臣の辞職勧告を受けることなど、タタキ上げ薩摩隼人のプライドが許さんと言うわけでしょう(下手すると解任の無効確認訴訟を起こしかねませんよ)まさにテーコー勢力。この手の人物が東大から局長で、官庁を支配していたわけですからね。日本の諸悪の元凶でしょう。(小さな声で)ところでニッポンキリスト教界にはこの手のセンセイは(^ ^;?・・・大丈夫でしょうか?
イラクのことは私たちが真剣に祈る必要があります。今日の田原さんの番組で、チェイニーがイラクの核購入疑惑において偽りの報告をなし、かつ自分が役員をしている石油関連企業において、国防省経由で莫大な利益を得ているそうです。すでに告発もされているようです。今後イラクはますます混乱するでしょう。地に落ちていますね、自由と平等の理想の国アメリカも。怒るべきです!
・・・と言うような話はもういい加減うんざりですが、今日は新鮮な若いカップルの新しい出発の約束がなされました。結婚の奥義は偉大である。私たち老(?)夫婦も新鮮な思いにされました。結婚の本質はひとつにあります。私たちも唯一の男子キリストに嫁ぐ身です。否、霊的には私たちはすでに夫婦であり、キリストと私たちはひとつの霊にされています。キリストとくびきを共にする者、キリストの内にとどまること−ただ感謝です。
あなたの大庭にいて、あなたの魅力を知り尽くすこと、あなたの庭にいる1日は千日に優るとあるとおりです。たっぷりとイエスの要素が沁み込んだ、味わいのあるおいしいクリスチャンになることを願いますね。
バイブルカレッジの4回目。ヨセフ→モーセ→ヨシュアの予定がヨシュアまでいけなかった。ひじょうに味わいのある部分で、話しているうちについ深入りをする。ヨシュアは来週に。
あす新しい主にある家庭の婚約式。結婚の奥義は深い。聖書は結婚に始まり、結婚に終わる。共に主の恵みを受け継ぐこと、家庭が祝福されることは教会の祝福につながり、キリストの体の豊かさを証しする。
私たちも8月28日に21年目を迎えたが、あまり古びた感じはしていない。のろけではないが、今でも新鮮であり、気分はあの当時と変わっていない。外見はそれなりに、子供たちは大きくなってしまったが・・・。しかし味わいは深くなる。互いの存在をいつくしみ、互いを楽しむこと−キリストと教会の関係である。公園のベンチに黙ったまま座っている、絵になる老夫婦を夢見ている。
★このコーナーもみなさんに結構ご覧いただけているようで、KFCサイトのアクセス数も180ヒット/日位になってきている。感謝なことである。私の日記だけではあまり面白みもないので、いくらかでも役に立つ記事をと考えているが、今日は大脳生理のお話をちょっと。
★かつて当時東京医科歯科大学の角田先生が聴覚刺激反応を見ることによって、右脳と左脳の働きを分離することに成功した。つまり被験者がどちらの脳を用いているかが分かるのである。文化なども実はこの脳の使い方で決まるらしい。例えば−
★日本人は秋の夜、虫の音を聞いて、秋を感じ、風流を覚える。ところが西欧人は虫の音は単なるノイズであって、何らの情緒も生まない。実はこのとき、日本人は右脳で聞いており、ガイジンは左で聴いている。右は感性やイメージを生み、左は言語による理屈の世界である。かくしてガイジンには虫の音は意味のないノイズと化す。
★また月齢と関連して、右脳と左脳が切り替わることもあるらしい。案外狼男などもこのあたりに根拠があるかもしれない。
★クラシック音楽も音符の読める人は左脳で聴き、私のような音痴は右脳で聞いている。よって前者の人にはクラシックは必ずしも安らぎにならないらしい。この点、何の音楽の資質もない私はクラシックを楽しめるので幸いである(ヴァイオリン曲が好きなのです)。
★そして、どの分野にせよ、天才はしばしば右脳が発達している。数学や物理なども計算ではなく、イメージで解いてしまう。「数学は情緒である」といわれる所以である。
★昨今のアメリカの所業は表向き理屈を通してはいるが、現実はボロボロ。また米国原理主義者の発言も理知的ではあり、また"聖書的"かも知れないが、血肉の温かみがなく、人の心の琴線に触れない。今後彼らは理屈の通った論理を振り回しつつ、何でもありの世界に走ることも十分にあり得る。典型的左脳型行動パタン。
★私は政治論争や聖書解釈論争に口角泡を飛ばしているクリスチャンたちの脳波をぜひ測定してみたいと思っている。また角田先生の方法によって、彼らがどちらの脳を使っているか調べてみたいものだ。表向きの主義主張などがいかに表層のものに過ぎないかは、脳の機能を見てやれば一発で証明されてしまう。
・・・文化や思想などは大脳生理の表現に過ぎないからである。
田中宇氏がまた興味深いレポートをしています。アフガンにおけるタリバンに関するものです。アメリカの政策がいかに自分本位であり、自己矛盾しているかが分かります:
「タリバンの復活」
http://tanakanews.com/d1001afghanistan.htm
9・11テロではパキスタン政府からテロに金が流れていたようですがタリバンはアメリカとパキスタン政府が作り上げたものです。お分かりになりますか、この構図。「ヤラセ」です。
■また今晩、サリン事件で活躍した医師や、完全犯罪を暴いた医師のドキュメンタリがあった。トリカブト殺人事件のことが取り上げられていたが、ここでも鍵は「何かおかしい」というカンであった。このカンによって30ccの血液を採取したことが決定打となった。
■またイラクの混乱もレポートされていた。失業者数が7割、警察への攻撃や米兵への攻撃がますますひどくなっている。すでに戦争終結宣言をしてからの方が、戦争中よりも米兵の死亡者数が多くなるという有様。
■米国原理主義者の価値観の中心にはイスラエルがある。彼らにとってイスラエルの利益にかなうことは善であり、損なうことは悪である。この時点ですでにある種の聖書預言解釈システムの刷り込みによるヴァーチャル化が進行しており、彼らにはイラクの現状は見えなくなる。その感受性もどこかフツウとはずれ、その発言も一種のヒステリ症状を呈する。そして本人はそのことに気がつかない。つまり自分は絶対に正しいとなる。病識の欠如は深刻な心の病の兆候である。
■カルト化している兆候である。よって対話は決して成立しない。自分と意見の合わない相手をこき下ろすだけになる。例えばイスラエル主義者による次の論考などを読まれてどのような印象をもたられるでしょうか?
「イラク攻撃を支持する声明文」
http://members.jcom.home.ne.jp/i-kawag/index.html/wariniraq.htm
自由と民主主義を守るべしということらしいが、仮に言っていることは正しいとしても、私はある種の違和感を覚える。もしこのような主張を持った人々が政治権力についたとしたら、彼らに任せるどころか、少々こわい。
■神は御自身の聖に逆らって、ブッシュなどを建てることはなさらない。ブッシュが純粋なクリスチャンであると考えているならば大きな誤りである。彼は「スカル&ボーンズ」というオカルト組織のメンバーでもあることはすでによく知られている。オサマ・ビンラディンとの裏の関係も、彼らの石油ビジネスの歴史を調べれば分かる。
■「思い込み」を英語でspeculationというが、ダビデは詩篇において、「自分をspeculationの罪から守ってください」と祈っている。この祈りが今こそ必要であろう。
きょう研究室のPC(アシュロン)のCPUを焼いてしまった。クーラーをはずしたままONすると、あっという間にやばいニオイがしてアウト。指で触るとチンチン状態。アシュロンは発熱がすごいのを実感したが、後の祭り。さてさて、また出費だよ。
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リバイバル新聞の論説に「美しい霊的感受性」と題して書いたが、数学者の藤原氏や岡潔氏が言うように、論理の積み重ねの出発点にあるのは、情緒あるいは直感である。「どこか変」といった違和感や、「だいじょうぶ」と言ったシックリ感。これを間違えると後は「論理の虚構」となる。
私は時に人の運命が「分かる」ことがある。例えば逸見正孝氏がフジテレビを独立した時、私は家族に言った、「これで彼は自分の身を滅ぼすよ」と。またタケシがバイク事故(最近の彼の本では自殺企図だったと告白しているが)の1年前、やはり家族に話した、「彼は自殺するかも」と。事が起きてから家族に、「パパ、どうして分かったの?」と問われたが、理由を聞かれても分からない、ただ「分かるから分かる」としか言えないのである。
今晩、犯罪捜査における法医学者や交通事故鑑定人のノンフィクションをやっていたが、これらの人々が証拠と論理を積み重ねる契機となるのは、カンである。犯罪現場を見て、たとえ事故と判断がなされても、「おかしい」と感じるところからすべてが始まる。あとは客観的な事実とそれらを線で結ぶ論理の勝負である。
今も自衛官の"自殺"事件において不審をいだいた家族が警察と対決しているが、警察も一度出発点を"自殺"にした以上、それに合致しない証拠はあくまでもすべてつぶしているようである。
今回、Time誌でも、さすがにブッシュの愚かな「論理」に対して「どこが間違ったのか」という特集を組んでいたが、さすがの愛国心の塊で愚鈍なアメリカ人もようやく気がつき始めている。その出発点がすでにおかしかった、と。
ちなみに私のところのご婦人がアメリカのある大きな教会に行ったところ、星条旗を皆でかかえてチャペルをぐるぐる回りつつ、むせび泣く光景を目にして異様だったと言ってましたね。
イスラエル主義者によるブッシュ礼賛記事の筆者や、ブッシュは神が建てた素晴らしいリーダーであると絶叫していた米国型原理主義牧師たちは、現在どのように感じている(考えている、ではなく)のだろうか?これ以上の偽りを重ねるべきではないと私は警告したい。
注:(このような注を与えなくてはならないのがこの問題の病理性を証明しているが)
私は「反ユダヤ」あるいは「反イスラエル」ではありません。イスラエルには実際に訪れてある種の親密感を覚えていますし、神のエコノミーにおける経綸的選びにある彼らの役割を知っていますし、彼らの救い(本質的選びへの転機)を真に願うものです。あえて言えば「反"イスラエル主義"」でしょうか。BBS(消えてしまいましたが)に書いた「メタの病理」によります。ガンジーが「イエスは好きじゃが、キリスト教徒は嫌いじゃ」と言ったそうですが、これと同じですね。