2006年02月07日

Y遺伝子の行くえ

秋篠宮家にコウノトリが飛来したとのこと。このタイミングで実におめでたい。男だったらこれはグッドタイミング(なんだかそんな予感がするが・・・)。天皇は万系一世、つまり男系できたわけで、私的にはぜひ守ってもらいたいと感じている。つまりY遺伝子を連綿とつなげて来たわけ。おいおい、クリスチャンが天皇制を擁護するのかと、一部の過激な人々はおっしゃるでしょうが、私たちは良心と信仰に反することを強要されない限り、どのような国体の下でも生きることができる。

一方で、一部では万系一世の天皇家にはユダヤの血が流れており、大いなる神のご計画が封印されていると説く方々もいる。確かにロマンがあるが、仮に天皇家にユダヤの血があっても、霊的にはなんら変わりはない。私たちは淡々と今得ているいのちの道を歩むだけ。もし女系を許せば、Y遺伝子が断絶するわけで、彼らにとっても困ることであろう。

Y遺伝子ははたしてどこへ向かうのだろうか?

フェイス・オフ

ジョン・ウー監督、ジョン・トラボルタ(刑事)、ニコラス・ケイジ(凶悪犯)主演の映画『フェイス・オフ』は、二人が顔を交換すると言う奇想天外な話なのだが、このたびフランスで、飼い犬に顔を食いちぎられた女性が他人の顔を移植する手術を受けたとか!?

驚きました。まさに映画そのもの。しかし顔の筋肉は顔面神経の複雑な支配を受けていますから、その神経を新しい他人の顔の筋肉に植え込むことができるのでしょうか?テレビでは現在のところ表情がないですが、リハビリをするとのこと。

再生医学の分野では、コーンからつくったコラーゲンの土台に細胞を植え込んで、骨とか、皮膚を人工的に合成できるようになっていますが、それに比例していよいよ人間の肉体も単なるモノとみなされていくのでしょう。なんとも複雑なニュースではありました。

魂を否むこと=魂の真の救い

昨日の独り言にいろいろなメールによるご意見や証をいただきました。そのひとつに「魂を否む」とはどういう意味ですか、とありました。これはよく勘違いされるところで、下手をするとクルシチャンを生み出します。「自我を十字架につけて〜」というエキセントリックな説教になるわけです。

みなさんは風邪の引き始めの状態をご存知ですね。体がかったるく、ほわ〜っとして、ある種気持ちがいいのです。この時って、普段よりも心が穏やかになりませんか?これが魂を否むことです。この時には内的精神的エネルギー(たぶん生理的現象と関係しています)が風邪のために弱くされているのです。そこで魂の中に注ぎ込まれるエネルギーのレベルが落ちているのです。これが独特の平安と安らぎを生み出します。でも魂の機能は損なわれていません。私は私ですし、好みもありますし、物事も考えていますし。パウロとヨハネの文書の味わいが違うように、それぞれの魂の形は違ってよいのです。

お分かりになりますか?魂のエネルギーが落ちること、そのときに御霊の霊のエネルギーが魂を駆動するのです。魂の機能そのものは壊れることもありませんし、むしろもっと豊かに機能します。知性はクリアにされ、感情は豊かに、意志はやわらかくなります。魂を否むとは、私がなくなったり、別人格になるわけではありません。だからパウロは、

もはや生きているのは私ではなく、キリストである。今、肉にあって生きている私は、神の子の信仰によって生きている(ガラテヤ2:20)

と証しています。生きているのは私ではないのに、肉にあって私も生きているのです!御言葉を勝手に読み込んで、勝手な解釈(特に日本人は儒教あたりの匂いが強いです)で、自ら苦しめて、ビョウキに落ちているケースがあまりにも多いのです。その一方で、その反動かのように「ありのままのあなたでよい。すべては受け入れられている」式の砂糖まぶし的ヒーリング・ミニストリーがはやっています。そこには真の十字架がありません。十字架は魂のエネルギーを霊のエネルギーに切り替える働きをするのです。