2006年02月11日

文藝春秋の記事

今月号はなかなか面白い記事が目白押し。

愚かなり、市場原理信奉者:市場至上主義者の愚かさを論じた、数学者藤原正彦氏の論考。彼は、このサイトでも紹介したことがあるが、(数学者なのに!?)論理よりも情緒を大切にする。美しい1%の情緒が99%の論理を決めると主張されるが、市場原理至上主義も情緒を置き忘れ、獣化していると批判する。これにはまったくアーメン。ジャーヘッド化した神学オツムによる論争も同じ。口角泡を飛ばすのは、内面性の空疎さの兆候。(氏は新田次郎氏の子息であり、私は新田氏とは高校は違うが同郷。)

雅子妃、その悲痛なる決意:雅子様の病状の深刻さのレポート。これは予想を超えて深刻なようです。数日前にも指摘しましたが、秋篠宮家のオメデタは限りなく彼女の繊細な神経を傷つけますね。それにしてもマスコミの卑しい批判記事には腹が立つ。ネットで匿名に隠れて誹謗中傷が当たり前になったニッポン。人間はどこまで卑しくなれるのだろう。クリスチャンも例外ではない。

米国vsモンゴル帝国、どっちが強い:米国とモンゴルの類似性を論じた堺屋太一氏の論考。両国は徹底した報復策と物量主義と貨幣の統一によって大帝国を打ち立てるという共通性があるが、モンゴルは膨大な財政赤字とその徳の欠如によって滅びた。果たして米国の行方は?

その他:

堀江貴文、お子様資本主義の破綻
日本の常識44
辛光洙「取調べ捜査官」独占手記

などなど・・・・。760円は安いです(ちょっとCMでした)

Dr.Lukeの一言映画評-ジャー・ヘッド

朝起きると枕元にタオルが置いてあったので、何気に顔を洗って、そのタオルで顔を拭いた。ところがカミさんが、これで顔拭いたの?とあわてているので、どうして、と聞くと、やだ〜、これ、雑巾に使っていたのに・・・、と笑いこけている。小生、???、言葉を失い・・・参りました。

 * * *

90年の対イラク戦に従軍した兵士のドキュメンタリーの映画化。大学を続けることに迷った主人公がマリーンに志願し、上官のシゴキに耐えて、狙撃兵として訓練を受けてイラクに派兵される。敵の上官を狙撃する任務を帯びて、ここぞとばかり照準を定めたときに、別の隊の上官から爆撃のために狙撃の中止命令を受ける。相棒は、なぜ撃たせてくれない!と半狂乱になって抗議するも、受け入れられず、彼らは敵を一人も殺すことなく、4ヶ月の従軍で終戦。

入れ込んだことが、目的を達成することなく無駄になり、不完全燃焼の虚無感だけが残った。まあ、人を殺さなくてすんだのであるから、普通であればそれは幸いなのだが、戦争という虚無の極致では、「目的」の達成がなされないことは、さらなる虚無を生むわけ。いや、人は正否を超えて、自分が打ち込んだものを無にしたくないわけ。そこに自己の根拠があるから。いったん入れ込めば、人は間違ったことでも、むしろ空虚であればあるほど突き進む。

現在のイラクにいる兵士たちは、果たして何のために、何を守るために、自分たちがそこにいるのか、その充実感を覚えているのだろうか、と考えた。彼らばかりでなく、人は何か実質で充実していなくては、つまり生きる手ごたえを覚えないと、生きてはいけないものなのだ。昨今のオタク文化などはまさにその空虚感を埋めるためにヴァーチャルな形で補償行為なのである。戦争などはその極致であるが、人が死ぬことは悲惨なリアリティである。

しかしクリスチャンは内にキリストがいて下さる、ただそのことのゆえに生きることができる(はず)。この方が手ごたえを下さるから。

注:「ジャーヘッド」とはマリーンの独特の丸刈りヘアスタイルのことであると同時に、「空っぽのオツム」の意味もある。空疎さの象徴。

どの声に聞き従うか

何気なくサイトを開いてすでに丸7年。この3月で8年目に入る。この間、クリスチャンと称するいろいろな人と出会い、いろいろな意見や聖書解釈や実行を見聞きした。その印象を一言。病んでいる!健やかで満ち足りた自立的な信仰生活を送っている人があまりにも少ない。私にとって当たり前のことが、彼我にとっては当たり前ではなく、その逆も言える。

BBSで誰の声に聞くべきかとの問いかけがあるが、これは現在そして今後きわめて本質的な課題となる。イエスは言われた、「私の羊は私の声を聞き分けて、私に従う」と。また「何をどう聞くかによくよく注意せよ」とも。

現代の霊(アイオーン)の流れが、ひとつはメガチャーチに象徴される「パワー崇拝」と、ひとつは今回のイスラムの騒動に象徴される「狂信志向」(その対象が聖書であれ、コーランであれ、病理的には同じこと)である。そのどちらにも強烈なエネルギーを秘めた魂(自己・セルフ)が息づいている。前者には増長した自己、後者には傷ついた自己。心を病む人々は、弱いからではなく、強すぎるためであると前から指摘しているが、彼らは苦悩するほどの魂の鬱屈したエネルギーを蓄積しているのだ。傷つきやすい人は強烈な自己を秘めている。しかも自分の病の中に逃げ込んでいる。真に弱くされた人は、苦悩するエネルギーもない。

お分かりになります?「パワー崇拝」は自己を喜ばせ、自己を満足させるものであり、「狂信志向」は病んでいる自己が何かに自己のアイデンティティを置こうとする(すがりつきの病理)である。前者はアメリカを、後者はイスラムをあおる。この二つは自己の裏表、ネガとポジとも言える。世界が主の十字架によって真に弱くされるとき、真の平和(=キリストによる統治)が実現するが、世界は自己を低くし、自己を否む十字架を排除しようとする。<アメリカvsイスラム>対立の本質的なルーツは自己にある。いわゆる<勝ち組vs負け組>も同じこと。

キリスト教界でも、ヒューマニズム的キリスト教会は自分が負うべき十字架を語らない。なぜなら信徒が減るからである。彼らは信徒をつなぎとめておくためにきれいに飾られたキャンディボックスを提供する。ヒューマニズムを徹底的に批判する再建主義者も十字架を語らない。なぜなら彼らの統治は霊的パワーによるものだからだ。見かけは正反対であるが、実は共に自己に仕えている。

現在、われわれが直面している本質的な問題は、<自己vs十字架>と言える。もっと具体的にいえば、真のリバイバルは、教会が強くなることによるのではなく、真に弱くされる時、究極的には「死」を経るときに成就する。十字架は自己にとっては過酷なのだ。(自分の病の中に逃げている人をあえて十字架に導く必要もないとも最近は感じている。)

現代において聖霊が語るとき、それはイエスの声であり、主はこう言われる:

わたしに従いたい者は、自分の十字架を負って、わたしに従ってきなさい。



【蛇足】霊的弁証法として、「自己をテーゼ、十字架をアンチテーゼとし、それらをアウフヘーベンするとキリスト」って言ったら、これもバルトが論じているのか知らん(笑)