2007年01月20日

驚きますね

再建主議は超民俗化かつ普遍化されたモーセ律法をそのまま社会の司法制度として適用すべしと唱えるわけですが、富井さんがこうおっしゃっています:

Q.一応わかりましたけど、つまり神による統治社会が来たら、石撃ちの刑を復活させる、と言う事でしょうか。

A.石打の刑というと、何か野蛮なイメージがあるかもしれませんが、しかし、神が聖書の中において命令されたのです。どうして「野蛮だ」と、僕の分際でしかない我々が叫ぶことができるでしょうか。

処刑は、公開で、しかも、社会の構成員がじかに手を下すべきです。そうすることを命令した神の知恵は、我々の知恵をはるかに超えています。

ここで現代の専門家による死刑執行などの司法制度が不備であるとしているわけです。

私たちはこう理解しているのですね。レビ系のモーセ律法(石に書かれた律法)に代わって、メルキゼデク系の律法(心に書かれた律法)、すなわちいのちの御霊の法則が私たちの内に御霊と御言葉によって働くわけです。このいのちの御霊の法則はモーセ律法の上位互換であり、この法則に則れば自動的にモーセ律法、否、さらに高いレベルの神の基準が満たされるわけです。これを私はMS-DOSとWindowsの関係で説明したわけですが、ついに理解されませんでした。

このいのちを生かし出すことが私たちの証しであり、このいのちを人々に伝えることが私たちの任務であるわけです(御国の拡大)。なお、再建主義との対話はこちらをご参照下さい。いやあ、しかし市民が自らの手で石で公開処刑せよとは・・・スゴイ主張です。この調子ですと、中絶を行った女性はやはり公開死刑に処するべしとなるわけでしょうか?

Commented by Luke 2007年01月22日(月)21:06

う〜ん、再び富井氏がすごいことをおっしゃっています(1月22日記事)。「神は、人間をいけにえとして創造された」とか、「われわれは血みどろの権力闘争の中にいる」とか。現在の人間視点(ヒューマニズム)のキリスト教界には彼と同じように感じていますし、彼の主張には同意できるところが多々あるのですが、しかし本質的に何か、どこかが違うのですね・・・。エデンの園を見て下さい、と私は言いたいのですが。

メッセージでも語りましたが、一部の聖霊派が夢想しているようなキリスト教徒天皇をいただいたキリスト教国家ニッポン(教会国家)などができれば、それはそれは空恐ろしい光景が展開することでしょう。現在のニッポンキリスト教の状況を見れば容易にどんなことになるか推測できるでしょうに。それは不気味にして怖いですよ。

Dr.Lukeの一言映画評

アップロードファイル 187KB午前中はいつもどおりプールとサウナ。最近ちょっと体をなまらせているので、やや気合を入れる。昔は1,000mほどは軽かったが、今日はとりあえず500m+ウォーキング500m(手を帆のように張って抵抗を作りつつ)。さらに筋トレもほとんどご無沙汰で、かつてのマッチョ振りが消えつつあるので、トレーニング・マシーンを新調した。30台の頃のキレを戻したいと願いつつ。

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アップロードファイル 14KB午後はまた映画。レオナルド・ディカプリオ+マット・デイモン+ジャック・ニコルソンの『ディパーテッド』。監督マーチン・スコセッシ。ストーリーは警察に入り込んだマフィアのスパイと、マフィア組織に潜入捜査に入り込んだ警察の捜査官を巡るサスペンス・アクション物。ニコルソンの恐るべき存在感が迫るが、それに負けず劣らずディカプリオも好演していた。彼は体もややマッチョ系になりつつあり、かつての『タイタニック』のヒョロヒョロのアイドル・イメージとずいぶん違う。そこそこの汚れ役もできるようになっている。彼は、同じくスコセッシ監督、強迫神経症にして大富豪のハワード・ヒューズの鬼気迫る生涯を描いた『アビエーター』でタッグを組んでから、演技に深みが出たと感じる。俳優も私たちも出会いで人生が決まるようだ(もちろん神の摂理が働いているわけだが)。マット・デイモンはどうも『ボーン・アイデンティティ』のイメージが強く、やや演技が単調で、重なって見えてしまう。で、最後はとんでもないドンデン返しのドンデン返しで・・・。「あっ!?」、「えっ!?」っといった感じ。