2007年01月25日

クリスチャン・トゥデイとの会談

行って参りました。まあ、学生さんでして、気色張る場面もありまして、スリルがありましたが(苦笑)。詳細は少佐が報告されると思いますが、私の専門から判断しますと、ティピカルですね。自分が相対化されていません。

諸々の事実関係は山谷少佐が質問され、私的にはいくつか石を投げて反応を拝見しました。最後にクリスチャン・トゥデイの財務諸表と税務申告書の提出を求めましたが、彼らの社訓「しかりはしかり、否は否」とややほど遠い応答が・・・。と言うわけで、今後の対応が必要でありましょう。

それと松沢牧師の件もディープな裏があるようですね。いずれ再び記事になるでしょう。

律法のゆくえ

再建主義のBBSではまたもや「律法は廃棄されたか」の議論が再燃しているようですね。例によって富井氏はこう言われます:

ガラテヤやヘブルなどで、パウロが「律法は廃棄された」というような表現があるのは、動物犠牲などの「影」がキリストという「本体」に変わったということを表現したものです。・・・

旧約時代に特定民族(ユダヤ)に与えられた律法は、新約時代に全民族に与えられたのです。・・・

それゆえ、民族的な戒めは、超民族的な戒めに代わりました。・・・

律法の一点一画たりとも廃棄されておらず、それゆえ、律法を研究して、それらを我々現代の日本社会に適用することが必要です

つまり律法の本体であるキリストが来られて律法を成就され、その律法は超民族的にされたと言うわけです。つまり適用範囲を広げたわけで、これがメルキゼデク系祭司制度の律法であると。・・・かすっているのですね。

キリストは律法の本体、そのとおりです。キリストは律法を廃棄するために来たのではなく、むしろ成就された。そのとおりです。そのキリストが今私たちの内に住まわれ、私たちのいのちとなって生きてくださる。だから石の律法は不要になったのです!私たちの内に働くいのちの御霊の法則を信仰によって生きるとき、私たちは石の律法の基準も自動的に満たすのです。だから

それでは、わたしたちは信仰によって、律法を無にするのか。決してそうではない。むしろ、律法を確立するのです。

なぜなら

肉の弱さのために律法がなしえなかったことを、神はしてくださったのです。つまり、罪を取り除くために御子を罪深い肉と同じ姿でこの世に送り、その肉において罪を罪として処断されたのです。それは、肉ではなく霊に従って歩むわたしたちの内に、律法の要求が満たされるためでした。

すなわち

一方では、以前の掟が、その弱く無益なために廃止されました。律法は何事も全うしなかったのです。他方で、さらにすぐれた希望が導き入れられました。私たちはこれによって神に近づくのです。

さらにすぐれた希望とは何でしょうか。

神学論争の本質は、実はきわめて心理学的なもの。認知と認識のフレームの違いなのですね。一度色眼鏡をかけてしまうと、そのフィルターを通してしか見る事ができなくなります。しかも神学者は立派な方が多いのでしょうが、残念ながらその人間の認識の限界を知らない。それゆえに<カルヴァンvsアルミニウス>と言ったナンセンスな議論に落ちて、互いに異端だカルトだとレッテルを貼るわけです。この世界、実にご苦労様なことです。こう言う時には

野の花を見よ、空の鳥を見よ

と言う主イエスのことばが沁みるわけです。

で、今晩はクリスチャン・トゥデイと山谷少佐の会見の証人として出て参ります。私も2,3突っ込んでみようと思っていますが。

Commented by jesusistruechrist 2007年01月25日(木)15:14

行ってらっしゃいませ。

お祈りしております。

ご紹介

天理カナン教会のSalt氏の音声メッセージのアーカイブができました。いずれも私とは違った味わいがあります。こちらをどうぞ。

salt of the earth:messages (mp3)