2006年5月

本のご紹介-人類の月面着陸は無かったろう論-

アップロードファイル 8KB実はこれ、かつての同僚(といっても顔をあわせる程度だったが)の著作。話的にはいつもどおりのエキセントリックな発言の数々で面白いが、やや論理が飛んでいる。彼はもしNASAが実際に月に人間を送っていることが判明したら、今後一切の筆を置くと宣言してしまった。で、これがト学会日本トンデモ大賞を受賞。さて、さて、彼はいったいどうするんだろうか?

ウォーキングの楽しみ

アップロードファイル 4KBいつも車に乗っており、つい歩いていない。するとどんどん歩くのが億劫になってくるわけ。目的地に到着することがすべてになって、途中がすべて無駄のように感じられて、カットしたい衝動に駆られるのです。これ、かなり危険な兆候。

で、最近はお昼を学内で調達しないで、あえて往復40分歩いて、丘の向こうにあるファミリーマートで調達しています。キャンパスを離れると道の両側は竹やぶで、鶯が鳴いている。今日のような天気の日はまさにウォーキングにピッタリ。いろいろ思いを巡らせつつ、祈りつつ、かくしてけっこう気持ちのよい汗が経験できるわけです。もちろんお昼はカロリー表示を確認しつつ・・・です。

 * * *

最近私の知り合いの方が心臓の発作で62歳で亡くなるとか、映画でも認知症をテーマにしたものがあったりで(渡辺謙さんの作品は身につまされそうで観るのがややこわい)、私もメタボリック・シンドロームの懸念や物忘れの度合いがちょっと増しているので、あまり人事でないのです。その日に向けて備えるべき時期なんだなあ、とカミさんと話しているわけです。

グラニュー糖ダイエット

ウェイトが順調に減ってきています。空腹感と言うより、飢餓感を克服するのにグラニュー糖がいいことが分かりました。食後に満腹感がないとイライラしてつい甘い物をつまんでおりましたが、グラニュー糖を飲むとこれがピタリと止まります。非常に満足感が得られ、甘い物がまったく不要になります。これは大脳がグルコースを必要とするからなんですね。脳は全エネルギーの20%を消費します。これまで何度かダイエットが途中で失敗したのですが、今回はいける!かつて30台半ばにウエイト62`、ウエスト73aの頃もあったのです。これを目標に・・・。

(写真は恥ずかしいので引っ込めました・・・汗)

仕事と遊び-歎異抄から-

これらは区別がない方がよい。橋田先生的には「仕事をしている時も、遊んでいる時も、同じ心持であるべし」となるかな。区別する心が苦痛を生むわけ。生と死を区別すれば、死は恐ろしい。人間の苦悩は善と悪を知ってしまったこと。この二元論的世界に生きること、これが苦悩のルーツである。歎異抄の親鸞の言葉に次のようにある:

みづからのはからひをさしはさみて、善悪のふたつにつきて、往生のたすけ、さはり、二様におもふは、誓願の不思議をばたのまずして、わがこころに往生の業をはげみて、まうすところの念仏をも自行になすなり。

要するに善悪の二元論に生きることは、法則の不思議に頼らず、自分の心のやりくりに頼むことであり、自力の業である、と言うわけ。まさにクルシチャンの精神状態だ。かくして親鸞の結論は

弥陀の誓願不思議にたすけられまいらせて、往生をばとぐるなりと信じて、念仏まうさんとおもひたつこころのをこるとき、すなはち摂取不捨の利益にあづけしめたまふなり。

弥陀の誓願不思議に助けられて生きることが極楽浄土への道であると。聖書的にはいのちの御霊の法則に助けられまいらせるわけ。これが神の国に生きるコツ。道元もこう言っている:

佛道をならふといふは、自己をならふ也。自己をならふといふは、自己をわするるなり。自己をわするるといふは、萬法に證せらるるなり。萬法に證せらるるといふは、自己の身心および他己の身心をして脱落せしむるなり。

そしてわれらの主はこう言われる:

わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の魂の命(原語)を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために魂の命(原語)を失う者は、それを救うのである。

鍵は自己を忘れ、自己から離れること。心身脱落・脱落心身。

合掌(あ、ついに使ってしまった・・・)

Commented by あらけずりの木 Eメール 2006年05月30日(火)17:14

あっ、ついにやってもうたぞ。
あっ、そうか。誤変換か、「合唱」の。
さあ、皆で主を賛美しましょう!! ^^y

Commented by Luke 2006年05月30日(火)20:29

BBSから転載しておきます:

> 以前から疑問に思っているんですが、<弥陀>ってなんですか?
> キリストの影のようなものですか?弥陀をキリストに読み替えた人
> は、真の救いに一歩近くなるのでしょうか?少し調べたけど、
> さっぱり、わかりません・・・(涙)。
> <参>http://www.plinst.jp/musouan/koramu59.html

「弥陀」とか「法」と言うのは宇宙の法則です。禅者はアダムにある人間の自然な法則に従って生きることを志向するわけです。自分のはからいをやめて(=心身脱落)、「万法に証せられる」わけです。しかしキリストのいのちは得てはいませんし、私たちの意味では救われておりません。救いはイエスの名によります。救世軍の山谷さんが指摘されたように、禅的真理の契機を完成する方がキリストなのですね。その意味で「影」と言ってもいいでしょう。実体はキリストです。

Commented by 通りすがり 2006年05月30日(火)20:32

親鸞は、私も昔、少し勉強しました。
でも大乗仏教て、中国で、キリスト教の影響をもろ受けたようなので、似ているのは、その為ですね。

iPod

次女がiPodを買ってきて、インストールをしてくれとのこと。iTunesは私も使っているのが、iPodは初めて。実はiPodには因縁があって、チネチッタでルーレットゲームの景品にiPodがあるのだが、これが何度トライしてもダメ。すでに相当の額を投資しているも、取れていないわけ。

で、インストールしたものの、使い方が分からない。散々あれこれいじってようやくiPodに音楽を取り込み、音楽が聞こえるようになった。若い頃は新しい機器のマニュアルを読むのが楽しみだったが、最近はオジサン化しており、目がきついし、読んでも分からん。特にケータイのマニュアルは絶望感しか生まれない。世の中便利になっているのか、不便になっているのか・・・。

Commented by xpilgrim 2006年05月28日(日)22:51

無事にiPodに曲を取り込めて良かったですね。
私は、友人がAppleの社員なので初期の頃から勧められて使用していますが、誠に秀逸な製品です。
最近では、ルークさんのメッセージやKingdom Faithのメッセージを
iPodを通して車や色々な場所で聴いています。
どこでも礼拝、どこでも賛美を手助けしてくれる大切な相棒です。
http://www.apple.com/jp/support/ipod/
ルークさん。いつも、ありがとうございます。
Blessings!

Dr.Lukeの一言映画評-ポセイドン-

かつてのジーン・ハックマンの出世作『ポセイドン・アドヴェンチャー』のリメイク版『ポセイドン』。ウォルフガング・ピータセン監督。主演カート・ラッセル。

映像ははるかに進歩するも、思想性はあまりない。前作では牧師が最後に「神は何人殺したら気が済むのだあ」と叫んで自己犠牲的に死ぬわけですが、今回は十字架のペンダントが危機一髪の脱出を可能とするとか、娘とその恋人のために父親であるカート・ラッセル(『エグゼクティヴ・デシジョン』の頃からすると老けたなぁ)が自己犠牲によって救いの道を開く。このプロットはブルース・ウィルスの『アルマゲドン』と同じ。

内容的には薄いが、水に限界まで潜る場面が多く、こちらもつい息をつめて観ており、相当に苦しい映画であった(ふぅ〜)。

長年の疑問が・・・

センター試験でマークシートを記入ミスした生徒の処理をどうしているのか、私自身もマークシートで採点する場合があるので、長年疑問に思っておりました。受験番号や学籍番号をミスすると採点ができないのです。

ちなみに私は教育的配慮から(^^)、私のところに問い合わせてきた学生については、マークシートの山(800枚)から自分のを探し出してもらい、そこで学生自身に採点させるわけです。通っていれば、修正報告してあげると(微妙なやさしさだ・・・)。

さて、センターの場合は・・・、何とミスしたものはできる限り本人を特定して、センターの方で対応してあげていると・・・涙。これが23年前から行われているとのことでした。

私は共通1次もない時代で、東大には独自の1次試験があったのですが、理系でも社会2科目なんですね。でも英数国理で十分取れるので、社会は過去問を調べた結果、4択で「2」の正解率が統計的に有意に高い!で、本番では・・・。これで通ったのどかな時代だったのです。共通1次だったらダメでしたね。

 * * *

今日はようやく砂漠の中のオアシスで休みが取れました。午前中はプールとサウナ、午後は映画『ポセイドン』を観る予定。

ある禅者の悲劇-橋田無適-

禅的生き方をした人物はあらゆる分野におられる。東大医学部生理学教授の橋田無適(邦彦)先生もそのお一人。わが師が学生時代に同師の正法眼蔵講義を聴講したと言っておられた。橋田先生はつねに、「研究室で研究している時も、家にいる時も常に同じ心持ちであるべし」と教えておられたとのこと。医学的には人間をパーツのアッセンブリーと見るのではなく、一個の統合体として診ることを教えられた。これはキリストの体=エクレシア=についても同じ。しかし時代の流れは過酷なもの、最期は自決された(こちらをどうぞ)。先生の教えを端的に表す言葉がある:全機。すなわち如(タタター)。けだし名言である。

Commented by Luke 2006年05月30日(火)11:30

「如」とは何かとご質問をいただきました。大拙はこれを"as-is-ness"と訳しています。

在基督的見性発語

午前の講義を終え、昼食を取り、iTunesのジャズを聴きながら、6階の窓から外を眺めつつ、コーヒー片手にゆっくりしております。

救世軍の山谷氏が道元の正法眼蔵についてうれしいコメントを下さった。正法眼蔵を知るクリスチャンはこの業界になかなかおられない。うれしくなったついでに、また一言。

禅には大きく分けて臨済禅曹洞禅がある。方法論的にやや違うのだが、目指すところは同じ。「当たり前は当たり前」。「即心即仏」。「花紅柳緑眼横鼻直」。ちなみに鈴木大拙が鎌倉円覚寺釈宋演の元で得た見性の発語は「肘外に曲がらず」であった。

臨済禅では公案を用いるが、『碧巌録』第三十九則に「雲門花薬欄」という公案がある。

 挙す。僧、雲門に問う、「如何なるか是れ清浄法身」。門曰く、「花薬欄」。

 (注:花薬欄とははばかりの前の植え込みのこと。)

もっとすごい公案になると、

僧問う、「何是仏(仏とは何ぞや)」、曰く「カンシケツ・・・」。

 (注:「カンシケツ」とは「糞かきベラ」のこと。中国にはトレペなどはなかったのだ。)

パウロは言っている:貧に書する道、富に処する道を知り、すべてに満足することを知った―キリストにありて。

今の自分を自分勝手な幻想と比較考量することがすべての不満のルーツ。自分に絶望するならば、キリストにあって足るを知る。まさに「肘外に曲がらず」だ。

Commented by ICHIRO 2006年05月26日(金)19:24

ルークさんは面白い。
ブラック&ショールズのデリバティブや株の話から
数学に物理学に、ついに禅仏教まで、、、。
何やってる人なんですかね???

Commented by Luke 2006年05月26日(金)21:51

私はただ赴くままに遊んでいるだけです。立派な者ではありません。人間はホモ・ルーデンス。禅的には三昧(ざんまい)ですね。基督三昧と言うか、剣禅一如ならぬ、信禅一如と言うか・・・。如(タタター)を求めつつ・・・。

意外な人が・・・

またまた本日は疲れております。これから風呂に入って、ビールをと・・・。

 * * *

ご質問いただきましたが、私はいわゆる万民救済論を唱えておりませんので、そこんとこヨ・ロ・シ・ク(しばらくぶりだ・・・)。禅ではもちろん永遠のいのちは得られません。

 * * *

あの秋田の事件はやはり意外な人が犯人のような感じですね。田舎は人が朴訥としてイイとは言えないようです。かつての音羽の事件と同じ臭いがします。それにしても悲劇です。

因縁

禅にはまっていた私が何ゆえにクリスチャンになってしまったのか。不思議な因縁(仏教用語ですが)がある。私が若い頃薫陶を受けた師(ご自身もカトリックの洗礼を受けておらられる)は内村鑑三の子息内村裕之教授主催の東大精神医学教室の出身。また先生の旧制高等学校時代の漢文の師が秦慧玉師であり、後に永平寺の76世の住職(明峰慧玉)となられた。この師から私は多くを学んだが、見事にキリストと禅が提示されていたわけ。当時は気がつかなったが、この方との出会いも主の御手にあったことを、今自分が50を迎えて深く覚えている。そして今そのわが師は97歳。大往生の日も近い。

私と禅

聖霊派の霊の戦いをやっている人たちから「Dr.Lukeは悪霊に憑かれている、主の名によって、悪霊よ、出ろ〜!」とやられてしまいそうですが。軽薄なんですね、ニッポンキリスト教は。

それに対して禅と禅文化の深さと静寂さと緊迫感は大好きなのです。学生時代夏休みになると軽井沢の友人(彼とは30年近くの付き合いで、彼も禅の老師のように世間離れしてますけど^^)と出光美術館(今はないようです)に仙涯和尚の禅書墨蹟を観に行ったものです。森閑とした中で書を眺めていると、時間と空間を越えて禅の心―こだわらない流れる心―に触れることができた。加えて同館では落雁に抹茶を振舞ってくれるのですね。甘い落雁と渋いお茶。このハーモニーが実に絶妙。暑さの中での熱い一服(と言ってもぬるいが・・・)。また静岡臨済寺の当時の倉内正堂師にもお世話になったりしたもの。夏にはこの寺はセミの声で包まれる。「脚下省顧」の張り紙が新鮮だった。あのキョウサクでピッシと打たれるとなんとも言えない爽快感が満ちた。

禅は鎌倉時代に特に文化として日本に浸透したが、剣、茶、花、舞など、すべてに浸透している。こちらの禅寺の佇まいなどは実に心惹かれる。対してキリスト教のいわゆる教会や寺院などは不気味であまり・・・ですね。多分に今のキリスト教では、禅の影響が深く浸透している日本人の心の琴線にはほとんど触れることがないでしょう。キリストご自身から相当に乖離しているからだ(参考:山田無文師のことば)。私の知っているキリストは、十分にこのような風情や風流を理解する方と私は勝手に感じているのですが。事実鈴木大拙も「イエスは覚者じゃ、しかしわしは聖霊が何かは分からん」と言っているくらいです。イエスご自身には大拙をうならせた魅力があるのです。

禅文化研究所
臨黄ネット

Commented by Luke 2006年05月24日(水)23:07

次の無文師の言葉などは、感性的自己を肉と、霊性的自己をキリストに置き換えれば、そのまま聖書の真理になります。
http://www.zenbunka.or.jp/03_magazine/mumon/012.htm

正法眼蔵生死(改)私訳

私たちの生きること死ぬことにおいてキリストがおられれば、生死は問題ではなくなる。生と死の中に形だけのキリストを自己努力で求めることがなければ生死に惑うこともない。

これは夾山、定山と言われた禅師のことばである。道を開いた人の言葉であるから、虚しいものではない。生死から解放されたいと思う人、その願いをまず諦めよ。もし人が生きることそのもの以外にキリストを求めれば、まったく見当はずれのことをすることになる。ますます生死の問題を背負い込んで、解決の道を失ってしまうだろう。生きること死ぬことそのものに神の国があるのであって、生きること死ぬことを厭うべきでなく、神の国を他に願うべきでもない。この時に初めて生死のような二元的世界を離れることができる。
... 続きを読む

正法眼蔵生死(改)

Dr.Lukeによる書き換えヴァージョンです^^

生死の中に基督あれば生死なし。又云く、生死の中に基督なければ生死にまどはず。

こころは、夾山、定山といはれしふたりの禪師のことばなり。得道の人のことばなれば、さだめてむなしくまうけじ。生死をはなれんとおもはん人、まさにこのむねをあきらむべし。もし人、生死のほかに基督をもとむれば、ながえをきたにして越にむかひ、おもてをみなみにして北斗をみんとするがごとし。いよいよ生死の因をあつめて、さらに解のみちをうしなへり。ただ生死すなはち涅槃とこころえて、生死としていとふべきもなく、涅槃としてねがふべきもなし。このときはじめて生死をはなるる分あり。
... 続きを読む

Commented by Makoto Yamaya Eメール URL2006年05月26日(金)09:17

ドクタールークの「正法眼蔵生死」のキリスト・ヴァージョン、たいへん感銘しました。

禅の真理契機を完成するキリスト。この点、小生はまったくアーメンです。

ここで「合掌」とご挨拶を送りたいところですが、いろいろ誤解する方もおられるようなので(笑)ドクタールークに主の祝福を心からお祈りいたします。

Commented by Luke 2006年05月26日(金)12:32

あ、これは山谷さん、コメントをありがとうございます。その節はバックアップをいただきまして、感謝でした。いろいろと勉強をさせてもらいました^^

いやあ、うれしいですね、正法眼蔵をそのように理解してくださるクリスチャンがおられるとは。「禅の真理契機を完成するキリスト」―いい表現です。

実は私もこの文章を「合掌」でしめようと思ったのですけどね^^

Every Blessing!

早寝早起きはイイ!

アップロードファイル 550KBダイエットと仕事の連続で体はけっこうキツイが、おかげでウェイトは確実に落ちており、適度な疲労感で早寝するために朝も快調。福島の山小屋のわが兄弟は夜7時には寝て、朝4時には起きる生活だとか。彼はラジオもテレビも新聞すらない生活。もちろんネットなどはまったく。この自然派は私も憧れている。早く引退の時を迎えたいもの。オプス・デイのように体を鞭で打ち叩かないまでも、早寝早起き小食はなかなかイイと実感。

私は禅が好きで、永平寺や臨済寺を訪れたことがあるが、あの修行の生活には憧れがあるわけ。永平寺などは道元の正法眼蔵(私の本では現成公案からの道元の言葉を上げて置いたが)に従った生活をするが、朝4時に起きて、唯座る。これを「只管打座」と言うが、悟りだとか何とかを何も求めないで唯座る。そして作務。食事作法もトイレの入り方、風呂の入り方など、すべてが規則あるいは作法に従った生活。これらは「典座(てんぞ)教訓」・「辧道法(べんどうほう)」「赴粥飯法(ふしゅくはんぽう)」など。

ココで精神はある種の緊張を強いられるが、精神の安定のためには、実はこの緊張が必要なのだ。走っている自転車や回っているコマが安定するのと同じ。このとき生死といった二元的世界を越えた生き様が展開する。これは善悪を超えたはからいのない世界だ。道元のこの「生死」などは実に名言と思う。鍵はいのち(もちろん霊のそれではないが)。この生活はどうも修道院の生活とよく似ている。函館のシトー会の生活スケジュールを見て、これは禅寺と同じだと感じた次第。(しかしオプス・デイではほんとうに体を鞭で叩いているのだろうか?)

なお、キリスト者と禅者の異同についてはこちらを。

キリスト教と聖書の謀略

と言うややトンデモ系の書物がわが書棚に眠っておりました。著者はモーリス・シャトラン。その筋ではけっこう有名。1909年フランス生まれ。パリ大学で数学と物理を修め、NASAでアポロ計画に参加した後、UFOや宇宙考古学、古代文明などを研究しているそうです。

この人は何とイエスの子孫と言われるメロビング家の血統を引くそうで、幼児洗礼を受けたものの、やはりキリスト教につまづいて異教徒となり、キリスト教(カトリック)の血塗られた歴史を暴いております。前には積読だったようで、今回パラパラと見たところ、何とダン・ブラウンの『ダ・ヴィンチ・コード』のいわば原作と言うか、ネタ本みたいな書。
... 続きを読む

Commented by Luke 2006年05月22日(月)23:22

ご紹介がてら・・・

・かつてのわが同僚の意見です(信仰はない人です)→副島の学問道場(http://www.snsi-j.jp/boyaki/diary.cgi

あと書棚から出てきた本を2冊ほど:

・ロラン・エディゴフェル著:薔薇十字団、文庫クセジュ、白水社
・ポール・ノードン著:フリーメーソン、文庫クセジュ、白水社

Commented by Luke 2006年05月23日(火)12:46

訂正:シャトランの本でもイエスとマグダラは夫婦らしいと言っていました。

シンクロニシティ

ダ・ヴィンチ・コードがすごいようです。あのハリー・ポッターを抜いてしまう勢いのようで・・・。この種のファンタジー物が流行る理由は、現実においてあまり夢がないからなんですね。人は現実から逃避したい願望があります。子宮復帰願望です。柔らかい温かいものにヌクヌクと包まれていたい感覚。まあクオリアなわけですが。実際私の内にもありまして、映画やマジックが好きなのも、その現われでしょう。さらにダ・ヴィンチ・コードはプロモーションも実にうまい。リアルとヴァーチャルをごっちゃ混ぜにし、ユダの福音書も相まって、人々の興味を高めています。こういった流行では実にタイミングよくいくつかのエポック(事件)が重なるものです。これをユングはシンクロニシティ(同時性)と呼んでいますが、これもアイオーンがなし得る業なのでしょう。

Commented by Melody Bell 2006年05月22日(月)20:21

マレという牧師が特集を組んでいるようです。
http://www.marre.jp/davinci/index.html

精神病理学から診たキリスト教

ダ・ヴィンチ・コードにも自分の体を鞭で打って主の痛みを知るカトリックの修行僧が登場していた。かなりコワイ雰囲気で、これだけ見ると、信仰者はみなビョウキに見えてしまうが、確かに立派なビョウキである。肉体を痛めつけなくとも、自分で自分を精神的に痛めつけるビョウキはニッポンキリスト教ではかなり多い。聖くなろうとして「聖化」の追求などに入れ込むご苦労様な方々がいらっしゃる。あるいは「神の声」を聞いたと証する実は妄想を持った方々とか。前者は強迫神経症。後者は妄想性人格障害あるいは分裂病質障害あたり。それと境界性や自己愛性、さらには虚言性や解離性などの障害がきわめて多い。多分この映画の原作者の周りの「クリスチャン」たちはこういった種類の人々が多かったのだろう。下のドイツの方と同じ。確かにこのギョウカイ、人間の病理サンプルには事欠かないのだ(汗)

これらは、独り善がりの礼拝、偽りの謙遜、体の苦行を伴っていて、知恵のあることのように見えますが、実は何の価値もなく、肉の欲望を満足させるだけなのです。

Commented by ICHIRO 2006年05月22日(月)11:05

カトリックがえらく反発しているようです。
カトリック信者10億人でSonyの不買運動だそうです。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20060518-00000089-kyodo-bus_all

昨日テレビでジャン・レノのクリムゾンリバーをやってましたが、
あれにはフランスのモンタナス派の陰謀が出てきます。
どうもフランス系のキリスト教は気味が悪いですね。
、、、あ、私も怒られるかな、、、汗

Commented by Luke 2006年05月23日(火)13:03

その団体オプス・デイの公式サイトが日本にもありました。
http://www.opusdei.jp/

Dr.Lukeの一言映画評−ダ・ヴィンチ・コード−

カミさんと次女とで中華と紹興酒の夕食を取り、タップリと観ました。ストーリーと謎解きはそれなりい面白い。発想がかなり飛んでいるとは思うが。ダ・ヴィンチが教会(と言うよりは教界)に反抗したにしても、それは所詮当時のカトリック。真理ではありません。偽りが偽りに対して抵抗したわけです。それにしてもマグダラのマリアをイエスの妻かつ聖女にしたてたり、ユダの福音書ではユダを英雄にしたりと・・・。人間のイマジネーションは豊かなものです(笑)

しかしこの小説のメッセージは「すべては何を信じるかだ」と主張しつつ、暗に信仰の無意味さ、特に神が肉体を取ったことを否定したいようだ。まさに

偽り者とは、イエスがキリストであることを否定する者でなくてだれでしょう。・・・人となって来たイエス・キリストを告白する霊はみな、神からのものです。それによって神からの霊を知りなさい。

とあるとおりです。

でもね、やはりキリストご自身と真理、あるいは神のロゴスと書かれた御言葉に対する最大の障害(もっと言えば敵)は「キリスト教」と言う人間が作り出した宗教です。ダ・ヴィンチは当時のキリスト教には真理がなく、自然において真理(もちろん物理化学的)があることを見出したわけです。まあ、私も当時であれば、同じこと(=キリスト教への反抗)をしたかもしれません。今もそうなわけでから^^

* * *

しかしダイエットと仕事でかなり疲労感が強かったが、今日はやや十分食べて豊かな気分でした。あと3週間・・・。

敵前逃亡

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あのK-1選手のボブ・サップが試合の30分前に逃亡したとか!?やっぱりパンチやキックは痛いのでしょうね。あのボディでも逃げてしまうとは・・・。で、K-1から追放だそうだ。けっこう彼は気が優しいのでしょう。

さて、英語のわが学生も、訳の担当箇所を当てられながら、当日逃げてしまうヤツがいるのです。先週逃げた学生が今日来ていたので、「あのね、君、アメリカ軍隊では敵前逃亡すると銃殺もありだよ。君も試験から10点マイナスするからね」とやや脅し気味に、しかし笑顔で宣告すると、彼はうつむいて「それで、いいです・・・」。内心でガクっとしつつ、「あのね、君ね、人生はそう簡単に投げちゃダメよ」と金八先生的に諭すと、他の学生がドッと受けるわけ。これが現代の学生気質です。何というか、こちらに関わってこないのですね。諦めが早いと言うか、すぐ投げちゃうと言うか。私の方は「先生、何とか助けてよ〜」と言う言葉と関わりを期待しているのですが・・・。

実は神も同じ。アブラハムがソドムとゴモラのためにとりなした時、実は神は全滅などは願っておられなかったのです。誰かがその神の心を汲んでとりなしの祈りをして欲しかったのですね。アブラハムはその神の気持ちを汲んで祈ったのです。私たちは祈るとき、「主よ、あなたはこれこれを願っておられますね。御心どおりになりますように」と、神の心を汲んでしまうのです。私たちが勝手にあきらめて、「もういいです・・・」とうなだれて神の前から退いてしまうのは、あの金持ちの若者のように永遠の損失です。その時、父なる神は何と寂しいと感じられるでしょう。子である私たちは、あくまでも執拗に願い、求めましょう。まさにそれを父なる神は私たちに期待しておられるのですから!

(写真は嵐の合間の日光の差す空です。これが何なのだ、と思われるでしょうが、雲が面白かったのですね・・・)

メガフェイクの時代

以前に「私たちは巨大なフェイクを見させられているかもしれない」と書きましたが、驚くことに、通りすがりさまのリンク先によると、ダ・ヴィンチ・コードをモロに信じている人が6割とか!?たかが小説でしょう、とはいかないのが現代のようです。古典的には、名優オーソン・ウェルズが火星人来襲のラジオドラマの語りをしたら、人々がマジに信じてしまって、パニックが起きたとかの逸話がありますけどね。

ペンタゴンの件といい、まあ、平和ボケなんでしょうが・・・。リアルとヴァーチャルの境界線が消失しているわけで。最近のマジックもかなり高度になっていて、車のボディに手を突っ込んで中の物を取り出すなんてこともできてしまうくらい。騙されることも楽しみなんですが、程度がありますよね。そもそも911自体が仕組まれていたようです。田中レポをどうぞ。

ちなみに『週間文春』によると、自衛隊員のPCからWinnyで流出したファイルはフロッピーで270枚分。高度の機密事項も流れたようです。中国あたりにとっては垂涎の的だそうです。ああ、平和だなぁ〜。

Commented by Luke 2006年05月19日(金)20:51

アジアでも大変だそうです。
http://www.asahi.com/culture/update/0519/017.html?ref=rss

ペンタゴンに突っ込んだ民間航空機?

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まずはこちらを見てください。今回アメリカが公表したペンタゴンに突っ込んだ何かの映像です(Video2の24秒時点の右下に注目!)。ほんの一瞬白い細長いものが右から飛んできますが、皆さん、これが民間航空機でしょうか?どう見てもミサイルかなにかにしか見えませんが。考えてください。この監視カメラが1秒に数コマだったとして、これだけ早く飛んでいる民間航空機が、地面に何の痕跡も残さず、超低空でほぼ地面に平行に飛んで、ペンタゴンに消えてしまうのです!?ここの写真を見てください。さらにこちらこちらこちらもどうぞ。どう見てもおかしいと思いません?どこか変だよ、アメリカよ。一方でこんなコンピューターシミュレーションもありますが。元サイトはこちら

(上の写真はシミュレーションです。ビデオと比べて下さい。)

ダ・ヴィンチ・コード

この土曜日に封切りとなる同作品を楽しみにしている。実はダ・ヴィンチは高校時代から好きで、彼の作品集なども持っているのだが、この映画が何で信仰へのチャレンジとなるのか、ちょっと調べてみた。ダ・ヴィンチ自身も当時のキリスト教界に対する反逆を試みていたらしい。

要するにマグダラのマリアとイエスの間には子供がいて、それが後のメロビング家の祖先となり、カトリック教会はそれをひた隠しにするために、ルーブル美術館長を殺すわけ。その犯人とされるのがトム・ハンクスで、館長の孫娘と一緒に隠されたミステリーに挑むというお話らしい。テンプル騎士団とか十字軍とかが出てきて、さらに聖杯(最後の晩餐で用いたもの)の行くえを巡って謎は深まるわけ。お話としてはなかなか面白い。

が、私たちの信仰を揺るがすものではない。先のユダの福音書もグノーシス主義(マグダラのマリアが創始者だそうだ)のものであり、私たちの知っているイエスとは関係がない。ただイエスの磔刑はインチキとか、復活はなかったと言っている向きもあるので、真理に対する挑戦ではあるが、真に受けるまでもないと思う次第。

下にも書いたが、カトリックの歴史がいかに魔女を数百万焼き殺したとしても(プロテスタントも同じだが・・・)、私個人の信仰とは関わりがない。しかし世の人にはキリストご自身とキリスト教の区別はつかないだろう。その意味で下に書いたとおりの感覚を持っているが、私個人の信仰が挑戦を受けるものではない。

ただし、やはりこの世の霊(ストイケイア)が活発に働いていることは間違いなかろう。何とか真のイエスから人々の目を逸らそうとしている意図を感じる。このような霊的雰囲気の中で、少しばかりの力しかない私たちではあるが、淡々と御言葉を語り続けることだ。

Commented by yumemi Eメール URL2006年05月17日(水)08:57

最後の晩餐、去年実物を見てきました。 さすがはレオナルド!ダ・ヴィンチって出身村の名前で、実は私生児だった彼には苗字が無かったんだそうですね・・・その辺がやはりカトリック教会と反りが合わない最初の理由の一つかもしれません。 構図がイエスを囲む12使徒の間のドラマを見事に物語っていました。 画家としてこれだけ才能のある人が、しかしカトリック=キリストだと言う構図から抜けきれず、本当のイエスに出会えなかった(?)としたら、その方が悲劇ですね。 

個人的にもっと好きなのはゴシック様式の影響から抜けきれていないフラ・アンジェリコの作品です。 画僧の作品だからカトリック教会に対する反逆精神は当然無いでしょうが、それ以上に、神への子供のように無垢な信仰心を感じ、それに私の内にある霊が共鳴して感動します。

ダン・ブラウンの著書は小説で読みましたが、フィクションとしてはスピード感もあってなかなか面白く書かれていると思いました。 ただイエスとマリアが仮に結婚していてイエスの磔刑死後、マリアが子供を産んでいたという説ですが、完全な『花婿』であるイエスが、自分はこの世を去り、母子をこの世に置き去りにして行くという運命を知りながらも結婚したり、子供を作ったりするかな?と、この説はイエスのご性格を考えると疑問に思うし、イエスが刑死しなかったという説も良く聞きますが、歴史的記述から言ってもこれはまずあり得ないです。所詮はイエスご自身を知らない世の人が書いたものだと思います。

聖書の偽典、外典と言えば、ユダの福音書が復活を否定する一方で、同じ聖書の偽典、外典のヤコブの福音書には、マリアが産気づいた時に面倒を見た産婆が、マリアが処女であった事を確認して驚いたという記述があるそうです。 

Commented by ICHIRO 2006年05月17日(水)13:44

場所によっては大変なことになっているようですよ。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20060517-00000016-nnp-int

Commented by 通りすがり 2006年05月18日(木)17:14

何の根拠もないヨタ話に、yumemiさんのように本気で考えてしまうクリスチャンもいるわけで、いわんずや、聖書を読んだことがない人々には相当な影響があると思います。
イギリスでは、小説を読んだ6割の人が、このヨタ話を信じているくらいですから。↓http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20060517-00000084-kyodo-soci
切実な問題ではあると思いますが。。

Commented by yumemi Eメール URL2006年05月18日(木)19:39

<通りすがりさん、
私は全然本気で考えてる訳ではありませんので、あしからず。 
ただイエスを知る恵みに預かった者として、歴史的、また霊的、個人的に、この説は義経がチンギス・ハンになったとか、ローマ人の祖先はトロイの落ち武者だと言うのと同じ程度の信憑性しか感じないと言いたかったんです。 だからお話としては面白いと思います。 ただ映画としては失敗作みたいですね。 カンヌ映画祭では失笑を買っていたそうですしね。所詮はその程度の物、という事です。

冒涜の叫び

前から気になっているサイトがある。在日ドイツ人のサイトですが、内容はあらゆる権威を拒否するアナーキズムと反聖書的発言に満ちています。歴史的キリスト教がいかに狂信に走って、大量殺人をし、人々を蹂躙してきたか、聖書の神はいかに残忍非道であり、人を人と思わぬ残虐な神であるか、彼は切実なまでに書き連ねている。この人の写真の目を見ると、なんとも言えない孤独感を漂わせている。

私はこのような叫びに触れると、反キリストの霊につかれているとか批難する前に、うめきを覚えてしまう。この方は目に見えるキリスト教によっていかに深い傷を受けてこられたか、と・・・。「お茶ら化し」に対してはむしろ気が楽である。責任は彼らにあり、彼らが自身が自分の言葉の実を刈るだけ。ところがこのサイトにはある種の真実の叫びがあるのだ。もちろん彼の神観には同意できないが、そのような神観をいだかされてしまった彼の人生を思うとき、かなり深刻な気分になる。なぜなら私もキリスト教は大嫌いであるから。

が、幸いなことは、主イエスは、そして父なる神は、また聖霊は、私にとっては大いなる慰めであり、希望であり、そして愛なる方なのだ。もちろん神は義であるから厳しさもあるが。願わくは、このドイツ人の方も、このようなイエスを知り、このような慈愛と憐れみに満ちた父を知って欲しいと願うだけである。(多分、このような境遇にある人々は相当に多いのだと思う。)

Commented by まるふぁ 2006年05月16日(火)15:34

アーメン。

「アンチクライスト・スーパースター」のマリリン・マンソンも「憎んでいるのはイエス・キリスト自身ではなく、人々が信じている『神』だ」と言ったそうです。彼にとってキリスト教こそ「この世の権威」なのでしょう。

真実な神御自身が、一番うめき苦しんでおられると思います。私もうめきを覚えつつ、
主よ、私たち(キリスト教会)を赦し、憐れみたまえ…
まさに、どう祈ったらよいかわからないですが、
真実な主のとりなしにすがり、うめきを共にしたいです。

Commented by イザヤ・ベン・ハー 2006年05月16日(火)17:08

何だか考えさせられますね。キリストご自身と、キリスト教界(教会ではありません)。微妙にズレているようです。しかし世の人が見るのは、混乱に満ちてる「教界」です。どこに真実があるのか分からなくなっている、ルークさんの言われる閉鎖世界です。その混ざり物や飾り物を排して、ただキリストご自身だけを知ることができることはまったく奇跡なんですね。

Commented by Luke 2006年05月16日(火)19:22

この方の証は相当に歪曲されたものであり、彼の心が病んでいることが分かりますが、その心の叫びには応えてあげる必要があるでしょう。それはその方の吐き出すものを受けて自分が傷を受けることです。キリストはすでにそれをなして下さっているのですが、

今やわたしは、あなたがたのために苦しむことを喜びとし、キリストの体である教会のために、キリストの苦しみの欠けたところを身をもって満たす

必要があるわけです。今のクリスチャンは自分のことでイッパイ・イッパイで、これが私たちにもっとも欠けていることでしょうね。

Commented by yumemi Eメール URL2006年05月17日(水)07:12

お久しぶりです。 こういう人は私の周りにはたくさんいますよ。
皆、乳児洗礼を受けカトリックとして育てられたにも関わらず、『信仰』を捨てた人達です。 アイルランドの30〜40代にはこういう人々がたくさんいます。実は私の主人もつい最近、自分がキリスト教徒でない事に気がついたばかり。 歯痒い事ですが、彼の知るイエスと私の主イエスとは全然違うという事をなかなか上手く伝える事ができません。 彼の中では宗教とイエスご自身を分けて考えられないのです。

本日の講義

精神保健学の講義で、昨年同様、「アバタもえくぼ」が分からない。さらに「三つ子の魂、百までも」が、また分からない。さらにエディプス葛藤の例として『巨人の星』の一徹と飛雄馬の関係を説明しても、まったく知らない。しかし最近では亀田三兄弟がいるので、ありがたいわけ。

またカインコンプレックスの説明でカインとアベルの物語を語るとき、「カインは嫉妬でアベルを・・・」と「嫉妬」のアクセントを「−ツ_」としたら、女子学生が「センセ〜、それ発音が違うよぉ〜。しっと(_ツ−)だよ!」と黄色い声を上げた。私は語尾を下げるのだが、彼らは語尾を上げる。「え!?じゃあさ、君たち、嫉妬心はどう言うの?」と聞くと、これは私と同じ。そこで「変だよ、心が付くときと付かないときで変わっちゃうのは・・・」と言うと、学生たちが「え〜っ、変なのは、センセイだよぉ〜。だっておかしいもんっ!」と合唱を始めた。「ヤバっ・・・汗」と内心で思いつつ、「はい、はい、分かったよ。確かに君たちは彼氏も−__じゃなくて、_−−だもんね」と言うと、これでみなさま一応納得。彼らとはガチンコしてはならないのだ・・・。かくして私もこの時間は彼らのアクセントで発音したが、なんとも違和感が・・・。

ちなみにわが田舎の諏訪では、「藤森」を「----」、「小口」を「---」と同じ強位で発音する。ところが東京では前者は「_−__」、後者は「−__」となる。これがなんとも違和感があるわけ。言葉はけっこう人のアイデンティティの根幹に関わるわけ。「言葉は人」とか「言霊」とか言われるとおりです。かくしていつもながらワイワイガヤガヤとうるさいながら、楽しい講義を二つこなしてきました(ふぅ〜っ)。

愛によって働く信仰!

本日も仕事。ダイエットも重なって、かなりキツイ。が、メタボリックシンドロームで死にたくないので、ややガンバッています(私はほとんどガンバルことはないのだが・・・)。

それにしても驚きました。再建主義の富井さんが、伝道の鍵は「愛によって働く信仰だ」とおっしゃっています。これは私たちのスローガンでもあります。よく「信仰・希望・愛」のうち「最も尊いのは愛だ」として、「何でも許して・認め合って」式の甘えでベタベタのニッポンキリスト教的キモイ人間関係ができる。しかし聖書は「信仰によらないものはすべて罪だ」と言っているのです。つまり信仰によらない愛は罪なのだ!では、愛と信仰どっちなの?回答は「愛によって働く信仰だけが尊い」(ガラテヤ5:6)。

富井さんとはレビ系モーセ律法(ノモス)とメルキゼデク系いのちの御霊の法則(ノモス)についての理解の相違が乗り越えられれば、かなり真実なよい交わりができるのですね(詳細はこちら)。御言葉ではなく、再建「主義」にはまってしまっているのが残念です。ご自分のサイトで、私のことを徹底的にこき下ろしておられるのですが、彼は真実ですから、私は腹も立たないのです。人を貶めるのは不真実な意図です。真実を分かっていてタメに不実をすること。彼らは「心の曲がった者は幸いを受けない。舌をもって欺く者は災難に陥る」とあるとおり、自分で刈り取りをします。

私たちの神も同じです。神は心の捻じ曲がった者には捻じ曲がる方と書いてあります(2サムエル22:27)。神をどう見るか、神とどう関わるかは、その人の心の鏡の歪みを反映するのです。心のビョウキの人はさらにその歪みが拡大します。また自分が批判を受けるときも、その批判内容を見れば、相手の心の様が分かります。あえて反論するまでもありません。かくして私たちの責任は真実に対しては可能な限り真実に応答するだけ。神の前での責任はこれで果たせます。

というわけで、お説教がましくなりましたが、これから風呂に入って、ビールを・・・と^^(もっとも小さいやつですよ・・・)。これが等身大のDr.Lukeであります。

 * * *

NYダウが100ドルを超える下げ。月曜日がやや心配だ。

やはり懸念が・・・

今日は疲れが出て、午前中の講義を終えて、2時には大学を出た。あと4週間・・・。

 * * *

株が大幅続落。原油や金価格が高騰し、それが素材価格へ波及して、アメリカのインフレ懸念が再燃、金利上昇の可能性が出たため、ダウが大幅下落。それに伴って、日経平均も260円ダウンの16,600円ほど。量的緩和策解除で準備金が30兆から10兆に減っており、加えて6月には日銀が金利を上げるとの思惑もあるため。やはり懸念したとおり、解除が早かったのではないか?今後の景気が気になるところ。

 * * *

アップロードファイル 8KB今月の『文藝春秋』にて「ダ・ビンチ・コード」を特集していた(記事名:「ダ・ビンチ・コード」4つの嘘)。筆者は必ずしも信仰はなさそうだが、西洋史の専門家であり、同書のナンセンスさを歴史学的に証明し、何ゆえにこのような書物が大ベストセラーになるのかがむしろ疑問であると指摘している。かつての駄作「親分は何とか」とか、「パッション」が封切られると、これでリバイバルが起こるとか騒ぐ向きもあったようだが、まことの信仰を持っている兄弟姉妹であれば、このような映画や書物によって振り回されることはないと思う。(はっきり言うが、大衆がイメージしているいわゆる「リバイバル」などは起・き・な・い!注)一部では「冒涜だ!」として騒ぎ立てるキリスト教会もあるようで、ご苦労様なこと。映画もそろそろだが、あくまでもエンターテイメントとして楽しめば?と思うのだが。リアルとバーチャルの境界が曖昧化しているようだ。ついでに、もひとつ「新・昭和史七つの謎」も興味深い。

注:そもそも台風じゃないのだから、「起きたり」、「来たり」するものではありません!

 * * *

捧げ物をいただくことがあります。この場で、主にあって、感謝いたします。

Blessings!

今、風呂から出たところで、これからバルコニーのチェアでビールを片手に夜景を眺めつつぼーっとしてきます。

サラリーマンの悲哀

本日は御茶ノ水で仕事なのですが、京浜東北線が信号機故障でストップ。京浜急行に振り替え輸送となったものの、これがまあ立錐の余地もない混み具合。電車はのろのろ・・・。かくして品川まで1時間30分ほどかかり、御茶ノ水まで何と2時間!電車の中はサウナ状態で、もう途中で泣きたくなりましたね。で、2コマ講義して、東海道線で横浜までバック。午後4コマ・・・。ただでさえ休みがないのに、きつかった・・・。

これが丸の内に通ういわゆる会社員の日々かと・・・嗚呼。これを延々と定年まで続けるわけで・・・。かく言う私も立派なサラリーマンですが、出勤時間は自由(フレックス)。通勤は車ですから、冷暖房・オーディオ・ビデオ・テレビ・ラジオ完備の書斎の延長の様なもの。大学では個室があるわけで、文句は言えません。かくして本日はヘトヘトです・・・。

オタクにならないためには・・・

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今日の精神保健学の講義で、情動と大脳の関係について触れた。最近のいわゆるキレ易い若者が辺縁系下部にある扁桃体に問題があり、さらに感情を制御する前頭前野の抑制力が落ちていることを説明した。そう話している間に、学生たちはいつもながらあっちでペチャペチャ、こっちでクチャクチャの状態・・・溜息。

で、帰宅の車の中でNHK『クローズアップ現代』を観ていると、なんとまったく同じテーマの話ではないか!大脳の血流を観察することにより、制御の中枢が前頭前野49野にあることを報告していた。

実は聖書で言う魂(Soul)は、知性・感情・意志からなるが、その大脳の対応部位はそれぞれほぼ、海馬・扁桃・前頭葉である。海馬は記憶を、扁桃を含む辺縁系は情動を、前頭葉は意志や意欲と関係する。そして扁桃で生じた感情は前頭葉の制御を受けるわけだが、最近の若者(ばかりでもないが・・・)はその制御が弱いのだ。

この扁桃と前頭葉をバランスよく成長させるためには、人間関係がポイントであると報告していた。子供時代にいわゆる「じゃれる」こと。互いの肌感覚を味わう必要があるわけ。将棋などもPCとしていると前頭葉は機能しないが、対人的に行うと活発化する。かくしてゲームなどにのめりこむ時、人の前頭葉は機能低下を起こす。これがいわゆる「脳内汚染」であり、昨今の猟奇的事件のルーツである。

要するに人間は肌で自然や人の温もりを味わう必要がある。このタッチがないと大脳は前に述べた仮想化を起こし、人間性を育むことができない。実は信仰も同じこと。神学書に埋没しつつ論争に明け暮れ、互いに虚勢を張り合い、虚しいいわゆる儀式や奉仕にのめりこむ時、大脳も偏向した成長をする。かくして神学オタク、霊能者オタク、リバイバル・オタクが誕生する。彼らは生身の肌感覚で人と触れることができない。それを煽るのがネットである。

私は結婚生活や子育ての経験のない御リッパな「結婚評論家」や「カウセンセラー」のお話などはまったく信用していない。経験がない者にどうして分かるだろうか?しかし現実にはこういった「専門家」が多いのだ。彼らの大脳のMRIを診ればおそらく相当に偏った機能をしているはず。

私たちにとってもっとも大切なのは、人間生活を淡々と、当たり前を当たり前に、普通のおじさん・おばさんとして生きること。信仰と私たちの「生」は分離し得ないのだ。現在これらが切り離された生の「生」を知らない、仮想的信仰に生きる「クリスチャン」があまりにも多い。これがニッポンキリスト教の病理のルーツである。すでにこの業界自体がヴァーチャルな世界なのだ。

(影の声:私はニッポンキリスト教の牧師や信徒の大規模な心理テストとMRIによる大脳の検査をしてみたいと内心感じている。相当にヤバイ結果が出るような気がするが・・・特にセンセイたちが・・・汗)

共謀罪

トム・クルーズの『マイノリティ・レポート』の一歩手前。この映画では超能力者の予知によって犯罪を犯すであろう人を、犯罪を犯す前に逮捕すると言うストーリー。911テロの背後にイラクが絡んでおり(誤情報だったが)、フセインはテロをこれからも行うであろうから、ブッシュは攻め込んだわけだが、まさに映画を地で行ってしまったわけ。

前に今後の日本は「見ざる・聞かざる・言わざる」的社会になるであろうと書いたが、これがもし法律として成立したら・・・やや寒い。この法律も国際条約の流れの中で出てきているようだが、もちろんアメリカの思惑があるであろうことは想像に難くない。スタローンの『デモリッションマン』に描かれた、みんなが仲良く、品行方正、清く・正しく・美しくのキモイ社会ができてしまいそうだ。(うん、これはすでにあるどこぞの世界かも・・・?)

Commented by Luke 2006年05月10日(水)10:50

再建主義の富井氏が面白い説を述べています。私もこのような意図があると思いますね。
→国連を通じての世界統一政府実現計画
http://tak0719.hp.infoseek.co.jp/qanda3/34aaBIz65K7bU21909.htm

一日一日・・・

アップロードファイル 127KB

長女が手塚治虫の『火の鳥』の「輪廻編」を読んで、こわかったと言っていた。永遠に生きるなんてことは恐ろしいわけ。アダムが罪を犯して後、神は永遠のいのちの木への道を封鎖されたが、もし罪を犯したまま神から離れて永遠に生きるなんてことは実に恐るべきこと。いのちの木への封鎖はイエスが来たときに解除されたが、これは神の憐れみである。

で、本日は朝青龍に土がついたが、力士がよく「一日一日です・・・」と言う。この気分は今のわたしにはよく分かる。あと5週間休みなし、と考えると途方もない感じがしてしまうわけ(大げさだよ、との声もありますが^^)。このような場面ではとにかく目前を生きるだけ。

「後ろを省みることなく、前を慮らず」と言う禅語があるが、わたしたちは過去に生きるのでもなく、未来に生きるのでもない。神は時間と空間を越える方であるが、モーセに啓示されたその名は「ある」であって、それは常に現在形永遠の現在の方。心を病んでいる人は現在にとどまれない人。今ここに生きることができない。

もちろんわたしたちには主の再臨と言う希望があるが、しかしそれは希望。対して信仰はつねに現在形。絶えずこの現在にとどまり、今に生きる姿勢を取らないと、わたしたちは過去の泥沼や未来への不確実さで現在の生き方が麻痺してしまう。かくして力士の「一日、一日です」はわたしたちの言葉でもある。

・だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。
・今日、あなたたちが神の声を聞くなら、神に反抗したときのように、心をかたくなにしてはならない。

明日のメッセージは

アップロードファイル 94KB福島の山小屋から降りてきた菅原兄弟にお願いします。彼とは一回りも年齢が違いますが、もう25年に渡る交わりがあります。私が独身時代に、彼の隣のアパートにいて、よく食事などのお世話になりました。

この数年間、ニッポンキリスト教界で分かったことは、「クリスチャンの交わり」なるものがきわめて不真実でかつはかないこと。些細なことで裏切られたとか、傷つけられたと、些細な聖書解釈の違いとかで、交わりが絶たれてしまいます。ある意味で人間性が幼稚なのですね。傷つき易さは幼児性のひとつの兆候です。ウォッチマン・ニーは何にもまして交わりを維持することと言っている。

このような中で25年間も真実な交わりにとどまれることは実に幸いなこと。「遠くの親戚より、近くの他人」、もとい、「無意味な千人との関わりよりも、意味のある少数の交わり」。イエスは交わりの最小単位として二人を一組にしました。彼がいなかったら私の信仰生活はとっくに頓挫していたことでしょう。

・二人または三人がわたしの名において集まるところにはわたしもまたいるのである。
・わたしの偽りによって神の真実がいっそう明らかにされて、神の栄光となる。

Commented by ブヒ Eメール 2006年05月08日(月)16:54

こんにちは〜!! 今日は蒸し暑い名古屋です!!
かなりナガ〜イ連休が終ってヤレヤレ・・・穏やかな日常に戻りこれもまた感謝です!!

真実な交わり・・・本当に大切だといつも痛感します。
私もみ言葉にしっかり立った大親友がいて、私たちが道を間違えそうになる時など、何度もみ言葉から間違いを教えてくれました。その時はその意味がよく分からず面白くない時もあるんですが、不思議な事に必ず後で分かるんですね・・。

教界では、交わり、励まし・・・と云うと、「よしよし!!」と上辺だけの歯の浮くような仲良しごっこや褒め合いが中心になり、何とも気持ちが悪いことが多々ありました・・・。

でも、主がこうして真実の友を備えてくださってること、必要なもの、すべてを与えてくださっていることに
いつもいつもただ感謝です!!

人による裁き(つづき)

例の逮捕された産科医の件で、日常の診療に支障が出ている例が80%。(→記事)結局私が予想したとおり、その弊害を蒙るのは患者なのだ。

またブッシュのイラク戦についてもあれほどにブッシュを支持した大衆が抗議の声を上げ始めている(→記事)。やや遅きに失した印象は否めないが、さて、ニッポンではどうでしょう?小泉さんは最後までブッシュ支持ですかね?

 * * *

さあて、あすから6週間ほど休みなしの体制が開始。やや重い・・・。


 

本当のカウンセリングとは

再建主義の富井さんが論じています:

引用---
カウンセリングを求めてくる人に共通する点は、「聖書を信じられない」ことである。・・・
霊的な人とは、「御言葉にしか頼れなくなっている自信喪失者」である。
御言葉が倒れれば、自分も倒れると考え、必死になって聖書にしがみついている人である。
本当のカウンセリングとは、「自分自身に存在する固有の属性への信頼」を取り戻させることではなく、「聖書の御言葉の約束への信頼」を強固にする手伝いをすることである。
「自分自身を信じなさい」ということではなく、「御言葉の約束を信じなさい」ということである。
終了---

これはまったくアーメンですね。彼の主張はかなり部分で同意なのですが、ただ一点律法の扱いが・・・。クリスチャンってなんとも不思議なものです。

Commented by イザヤ・ベン・ハー 2006年05月04日(木)23:36

ただどうなんでしょう、聖書にしがみつくのはいいとしても、内にいますキリストと言う方との触れ合いが欠落している感じがするのですが。再建主義のキリストは契約論的に「内住」するわけで、存在論的に内住されるわけではないようですから。やはりいのちの交わり、内なる油塗りの経験はご存じないような感じがしますね。だから神学に走るわけでしょう。

Commented by Luke 2006年05月05日(金)07:48

う〜ん、そうですね。だからあの遊びのない必死さになるのかもしれません。懸命にすがりついていないと落ちてしまうような危うさを覚えます。彼のような器が今もっとも必要だと思いますが、人との関わりが「敵か・味方か」になってしまっているのが、残念ですね。

Commented by kg 2006年05月06日(土)14:01

富井氏の本当のカウンセリングについての記事、私もまったく同感です。自分の生活とかけ離れたところでなく、日々の生活のあらゆる部分で聖書の約束を信頼していけるようになりたいと願っております。

仕事の疲れは

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エスカップで・・・うっすらと富士山が・・・

Commented by よしふみ 2006年05月04日(木)22:56

エスカップの写真がなんか笑える。(^^

休日仕事

アップロードファイル 123KBバルコニーに人工芝を張りました。腰も張りましたね。でもなかなかイイ。このチェアで"Plein Soleil・・・"とやるとね^^アップロードファイル 129KB
アップロードファイル 135KB
今日は富士山は見えませんが、プリンスペペとランドマークタワーが見えます。

ブッシュとジョンイル

このサイトは、何と中国でも読まれているようだ。中国の某所で紹介されている。北朝鮮では読まれてないよな。ジョンイルさんのことをうかつに書けなくなると困る。

と言うわけで、何が言いたいかと言えば、ブッシュが横田さんをハグして、隣に女の子を座らせて、「この会談は就任以来の感動だ。国の指導者が小さな女の子を拉致せよと命じるなんてアンビリバヴォ!」とやったわけですが、私は「国の指導者が根拠のない情報の基づいて、主権国家に軍事力をもって入り込み、その指導者を追い出し、一般人を15万人も殺害するなんて信じられない」と思うわけです。

政治は所詮パフォーマンス。そこに真実はない。しかし横田さんたちは自分の人生を政治と言うパフォーマンスに預けざるを得ないわけ。体調も芳しくなくなっているようで、実に痛々しい。小泉氏の再度の訪朝があるかどうか。こちらもパフォーマンス上手だから・・・。

ルーフバルコニー

30uあるルーフバルコニーの防水改修が終わったので、人工芝を張り、木製のテーブルとチェアを置くことにした。昔、子供が小さい頃は夏にはテントを張って、その中で夜を過ごしたりもした。BBQなどもね。何とか彗星を夜中観察したりとか。また時間がある頃は裸になって寝そべって肌を焼いたものだ。まだ植木とかは早いと思うが、プランターで花を植えようとかも考えている。

 * * *

私はコンタクトをしているが、今年のドッグで視力が1.5に上がっており、ショックを受けた。つまり近間がきつくなっているわけ。家ではメガネなのでいいのだが、職場で本を読むがきついわけ。というわけで、ついに老眼鏡を買ってしまった。現実をつきつけられた気分・・・。

メガチャーチ商法

次のキラーアプリは宗教か?--盛り上がりを見せる「教会関連技術」市場

いかにもアメリカ。ニッポンキリスト教の牧師たちの射幸心を煽ります。しかしね、この度の3兆円といい、ベニー・ヒンやメガチャーチといい、切っても切れない腐れ縁、アメリカとニッポン。

再建主義の富井氏が、天皇の戦争責任を追及せず、日本人のルーツがユダヤ教にあることに目覚めないと日本はキリスト教国にならないと言われる気持ちも分かる気がする。このままだと、どこかにニッポンの(仮にそれが肉的であったにしても)アイデンティティの根拠を据えないと、ニッポンは融けてしまう危機感を覚えるからだ。(私は日本が「キリスト教国」になって欲しくはないが・・・)

アメリッポン

アメリカ軍の移転で3兆円。米軍と自衛隊も融合する模様。日本国憲法も曲がり角に差し掛かっている(→記事)。いっそのこと大和魂は捨てて、アメリカの属州化した方がいいかも。

Commented by Luke 2006年05月03日(水)19:17

根拠なしの3兆円。京都議定書、イラク戦、そしてコレ。アメリカの独善はいい加減にして欲しいが。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20060503-00000049-jij-pol

デザイン・チェインジ

私の好きなジーンズです。家では作務衣ですが、大学ではジーンズ、チャペルでもジーンズ。いつもジーンズです。

学生との対話

セミナーで昨今の経済状況についてディスカッションした。と言っても双方向にならないのだが・・・しょぼん。しかし一人、私に刺激を受けてFXに関心が出たと言い出した学生がいた。

FXとは「外国為替証拠金取引」のことで、要するに外貨の信用取引。手持ち資金が小額でもレバレッジを効かせることが可能。つまり保証金を入れて、その何倍かの取引ができる。もちろんゲインも大きいが、リスクも大きい。この信用取引のルールと、追証や、建て玉(ロングとショート)、さらに株における板の見方などを説明した。かくしてこの学生をダシにしてけっこう楽しい時間を過ごせた。

おい、学生諸君、もっと欲を出してくれよ・・・。株を勉強すると絶対世の中面白くなって、いろいろな興味が出て、勉強する意欲が出るから!(と、これはオタク化したニッポンキリスト教徒にも言いたいかな?)

律法の廃止は地獄を招く

再建主義ではどうしてモーセ律法にこだわるのか、実に不思議だったのですが、富井さんの次の主張を読んで理解できたような感じがします:

--以下引用--
神を否定し人間だけでやろうとすると地獄が来る

今の流行の神学では、「新約時代に、キリストにあって、旧約律法はすべて廃止された」という。律法が廃止されたと聞いて、何か解放感を感じているならば、大きな間違いである。神の法がなければ、人間の法がやってくるからである。
「神に縛られずに人間だけでやっていく。なんて自由なんだ!」
1917年まで、人々はこのような感想を抱いていた。しかし、実際に人間だけでやっていく社会がどのように過酷なものであるかをロシア革命やそれに続く社会主義革命が教えてくれた。それまでは、神の超越法によって、人間の恣意的な支配が抑制されていた。しかし、革命によって神を廃位させた結果、もはや、統治者のわがままを抑えるものは何もなくなったのだ。
毛沢東のもとにおいて、万人に鉄の生産が命令された。農民もだれもみな鉄を作った。農業や自分の仕事がおろそかになり、社会は大混乱した。「神の法なんていらない。人間の法でやっていく!」と叫ぶと、人間は自分の首をしめることになるということを歴史は証明した。
--引用修了--

共産主義のソ連や中国の悲劇も律法がなかったからだと。モーセ律法の廃止はただちに混沌を招くと言うわけです。う〜ん。旧い律法は廃止されたことはヘブル書のとおりでして、それに代わって新しいいのちの御霊の法則が導入され、内には栄光の希望であるキリストが存在論的におられることを知れば、こういった恐れからは自由になるのですけどね。彼の真剣にして必死な生き方には少なからぬ共感を覚えるものです。

日本の教育の病理

東京裁判を知らない人7割。20台では9割。かなりヤバイ。これでは韓国や中国にかなうわけがない。(→記事

ますますクラゲみたいな茫洋とした、焦点の定まらない国になるだろう。三島由紀夫の予言のとおり。

精神保健学の講義

毎年7-800名の学生に教えている。精神医学のごく基本、精神分析理論による精神病理を話すのであるが、自分でもよく飽きずに話しているものと・・・。と言うのもネタが尽きないからだ。毎年犯罪は増える一方であり、しかも質も年々悪化する。コワイことはそのような事件が起きてもあまり驚かなくなってしまっていること。感受性の磨耗が起きている。これはその度に敏感に反応しているならば神経が参ってしまうために、感性の閾値を上げることによって防御するメカニズムがあるため。要するに、たとえると、「面の皮が厚くなる」わけ。

最近『脳内汚染』と言う本が出た。パソコンゲームやインターネットに曝されているうちに脳の中にある種の「汚染」が生じ、人を殺すことなどに感受性を覚えなくなるメカニズムを説いている。アメリカの軍隊では実際にゲームで殺人場面に何度も曝して、実際場面でも殺人に対して抵抗を覚えなくする訓練が行われている。大脳は刺激に対して慣れるのだ。

クリスチャンも同じで、徴だ、不思議だと、その刺激になれるうちに、真の主の声に対しては感受性を失う。かくして聖会だの、油注ぎの器だの、預言者や使徒だのをおっかける一種の依存症に陥る。私もニッポンキリスト教界と触れる中で、クリスチャンと称する人たちの実態や、病的な人々による種々の出来事に否応なく巻き込まれるときに、目が点になることを味わってきたが、元々気の小さい私が、徐々に慣れてきていることに気がつく。これはちょっとやばいかも知れない。無益な情報や刺激からは意識的に離れる必要がある。

かくして講義で毎年、これからますますわけの分からない事件が起きるよ、と「予言」しているのであるが、ニッポンキリスト教も今後ますますわけの分からない世界になるだろう。クリスチャン・メディアで取り扱う記事や売れ線の本を見てみれば、現状がどうであるかは明らか。どなたがBBSでも言われたように、このような偏向した刺激に慣らされていくわけで、その結果にこわさを覚える次第。リバイバルどころではなく、サバイバルの問題なのだ。