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Re:真理は掴めるか?
[1] kawa( … 回) 2005/12/18/Sun/09:42 (No.127)

  アダムは弱い存在、むなしい存在であり、キリストに繋がらなければキリストに関することは何もできない。召された者、選ばれた者に与えられるキリストへのうえ渇き、キリストからの苦しみは、共同相続人として、キリストがイニシアチーブ、トリガーになってキリストの実を刈り取る展開をすることで真理によって世とは分かたれていると思う。しかし現日本キリスト教会は神に対する畏敬の念が全くなく仲良しクラブさながら真の礼拝もしていない。牧師の子供たちは型にはめられアルバイトも出来ないほどに社会不適合を起こし、世襲制の独裁者になっていく。


Re:真理は掴めるか?
[1] kawa( … 回) 2005/12/12/Mon/06:16 (No.126)

  Lukeさんの礼拝はキリストだけに栄光があり純粋で混じりけが見あたらないので感動してしまいました。ずっと求めていた礼拝のような気がしました。こんなサッパリとした気持ちが良い晴れ晴れとした礼拝って見たことがありません。お礼と共に有難さでいっぱいです。


Re:真理は掴めるか?
[1] Luke( … 回) 2005/12/09/Fri/08:30 (No.125)

  そうですね、真理はパースン(お方)ですから、真理を得るとはキリストを得ることですね。この実体なる方について理屈をこねて頭の中に収めようとするとおっしゃるとおりの現象が現れるわけです。「キリストによるキリストのためにキリストに向かう礼拝」-この表現は素晴らしいですね。


真理は掴めるか?
[1] kawa( … 回) 2005/12/09/Fri/05:48 (No.124)

  真理というものが「あるという立場」と「ないという立場」がある。ないという立場は弱肉強食でお話にならない。真理はある。しかし真理があるという考え方にも二つの立場がある。真理は掴めるという説と、はかない人間としてはその真理に向かってコツコツ頑張っていくより仕方ないという説です。(乳と蜜の流れる地では天のマナは止んだ。)真理は掴めるはずだというのが、理性万能主義で自分が言っていることを理解してくれない人に対して考え方が足りないとしか言えず行動がストップ。もっと困るのは自分が体得したという者が出て真理そのものであるとの主張する。そこで、その真理に従わない者を破門にするなどの義務が生じてものすごく危険である。幸いなことにKFCはくどいほどにキリストによるキリストのためにキリストに向かって礼拝をささげていると思う。


Re:自分の中で迷子になってしまいます
[1] エステル( … 回) 2005/12/01/Thu/11:06 (No.123)

  いつもHP楽しみに拝見させていただいてます。

たらこさんの書き込みがちょうど自分の状態を適確に
表現していたので、回答もしっくりきました。

感情の処理の仕方について、信仰の適用の仕方について
具体的に知りたいと思っていたところでしたので。


Re:自分の中で迷子になってしまいます
[1] たらこ( … 回) 2005/11/05/Sat/20:22 (No.122)

  ありがとうございました。今まで(クリスチャンになってから長い間)、自分の中の感情と戦ってきたところがありましたが、先生の本を読んで、そのあたりの整理が出来たような気がします。自分自身の成熟を期待しながら、自分を責めないように、気をつけていきたいと思います。


Re:自分の中で迷子になってしまいます
[1] Luke( … 回) 2005/11/03/Thu/21:32 (No.121)

  そうですね、たらこさんはご自分の感情の処理に困惑を覚えておられるのですね。感情に飲み込まれてしまうわけです。で、頭の中で考えても、感情と頭の知識が乖離してしまうわけです。

感情の法則として、表現してしまえば解消されます。問題はその解消の仕方ですが、これはある種の成長と言うか、成熟の必要があります。大切なのは起きてくる感情そのものに対しては私たちは責任がないのです。それをどう表現するかにあるわけです。

感情がかきたてられる時はちょっとその人や状況から距離を置くことも必要かと思います。


自分の中で迷子になってしまいます
[1] たらこ( … 回) 2005/11/03/Thu/16:58 (No.120)

  いつもお世話になっています。質問があります。罪を犯したとき、肉や魂に注目すると、精神交互作用で、ますますしたいことが出来なくなることを学びました。人から傷つけられたとき、その痛さやそれに対する怒りに注目するのではないと言うことだと思います。しかし、そのようなとき何に注目すればよいか、何にゆだねればよいかが分からなくなってしまうのです。自分の精神の中で迷子になってしまうというか。古い人はもう死んでいるのだから、傷ついていると思っているのは、それは自分でそう思っているだけで、心理学的なパターンに過ぎないと自分に言い聞かせようとしても、なかなかできません(できるときもありますが)。こうなると、律法的にならないように、ならないようにと、結果的に律法的になってしてしまっているような気もします。これも、自転車に乗りなれない子供が、いつの間にか当たり前に乗れるようになる過程でおこることなのでしょうか?諦めずに、信じて行動することが大事だとは思っています。アドバイスお願いします。


Re:Tコリント12:9の
[1] ( … 回) 2005/10/21/Fri/10:00 (No.119)

  ありがとうございました。
今後ともいろいろ学ばせていただきます。感謝。
ルーク先生のミニストリーもさらに祝されますように(祈


Re:Tコリント12:9の
[1] Luke( … 回) 2005/10/20/Thu/22:57 (No.118)

  > @あれは、どうしてあのようなパフォーマンスが
>  でてくるのでしょうかね?

さて、私には分かりません。嘘っぽいことは事実ですが。商売じゃないでしょうか?

本当の御霊の業であれば、主イエスの御性質を現すでしょう。もっと奥ゆかしいはずです。

> @いのちと賜物についての学び、大変参考になりました。
>  それで、「あれ?いやしをもたらす方の賜物では?」と思い、
>  そのような見解も実際あるのでしょうか?

さあ、少なくとも聖書にはそんなものありませんね。何しろ「金縛り」が先祖の呪いとかって教えるセンセイがいるそうですから、ナンデモアリです、このギョーカイ(汗)



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