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メーリングリスト参加者から次のようなコメントがありました:
引用------ Lukeさんに同意します。
医学の先急ぎは、倫理を置き去りにして糸の切れたたこのように闇雲に進んでいるように思います。 着床前診断、中絶、排卵誘発剤による多胞出産(減数出産)、もちろんクローンも、いのちの尊厳とはなにかを立ち止まって考えない人間の現状があると思います。
どうしても子どもが欲しい、あるいはどうしても欲しくないという親の欲求、金をもうけたいという医者の欲求、新しい成果を示したいという医学者の欲求、それらの欲求が立ち止まることを難しくさせているのではないでしょうか。
さて、Lukeさんに質問ですが、臓器移植についてはどのように考えられるのでしょうか。 私は、産まれたときから持っている臓器を提供あるいは享受することもまた神の摂理から逸脱する恐れがあるような気がします。 しかし、クリスチャンが奉仕の精神をもってドナー登録することも多いようですし、実際に臓器移植を頼みの綱にしておられる患者や家族がいらっしゃるのも事実です。
よろしければLukeさんの考えをお聞かせ下さい。 ------
おっしゃるとおり、すべての問題の根底には人の欲(肉の欲、目の欲、所有物の誇り)があるわけです。自分が生きたい、業績を上げたい、人から認められたいという。よって心を見られる神からすれば、動機が自分にある点ですべてguiltyとなります。
現代の医療はあまりにも近視眼的で、テクニカルな面だけが進んでしまっています。人間は知恵の木の実を食べて以来、知識に対する飢え渇き(これも情欲です)に煽られています。ダニエル書にも「ダニエルよ、あなたは終わりの時まで、このことばを秘めておき、この書を封じておけ。多くの者は知識を増そうと探り回ろう。」とあります。これはもちろん予言の解釈についてでしょうが、一般的知識も含まれるでしょう。
かくして罪の問題が解決されないままにテクだけを持った人類は、禁じられてもなおそれを使いたくなります。これは罪に支配された人類の宿命です。現在日本でも胚の利用が認められてしまいましたが、おそらくクローン人間はいずれ出現してしまうのではないでしょうか。これが一般の研究機関か、ラエリアンムーヴメントによるか(すでにできたと彼らは言っているようですが)分かりませんが。
臓器移植も霊的に言えば、他人の犠牲の上で自分を救うことであり、ある面でキリストの贖いと競合する形になりますから、原理的には賛成できません。が、信仰と同様にこの価値観を強制はできないわけで、実際の判断はドナーとレシピエントの自由意志の問題になろうかと思います。
いずれにしろパンドラの箱がいったんあけられてしまえば、中のものはすべて出ざるを得ません。人類が自らの情欲(性的領域に限りません)をコントロールするしかないのですが、自力での完全なコントロールはもちろん不可能ですから、社会システムとしてどれだけ最善が尽くせるかのテクニカルな問題となるでしょう。
人類はいのちの木か知識の木か、どちらで生きるのか、その選択につねに直面しているわけです。人類が自分を知る日はいつなのか、大いなる悲劇が起きる前から、起きてからか。そんな瞬間が近い感じがしています。 |