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Re:呼び名の使い方
[1] Luke( … 回) 2004/10/07/Thu/18:46 (No.54)

  これはあまり意識して使い分けているのではないのです^^ただ一般則として次のように言えるでしょう:

・イエス(=神は救い):御子が人となられた時の人としての名
・キリスト(=油注がれた者):役割上の称号です。
・イエス・キリスト:油注がれたイエスの人間性の面を意識する時
・キリスト・イエス:イエスのキリストとしての職制を意識する時
・主:これは旧約のYHWHの主(新改訳では太文字)の場合は、三位一体の神の固有名詞です。新約の主(kurios)は、主人・主権者の意味で、イエスは主とされました。
・ジーザス:これはイエスの英語形で、イエスよりも、呼び易いだけです。私の癖です。
・ロード:これは主の英語形で、私の癖です。
・神:私は「神様」とはあまり言わないと思います。
・天の父:神を父として意識する時に呼びます。
・聖霊様:この呼称は私はまず使いません。「聖霊よ」とか「御霊」という言い方はしますが。

神の三一性は本質的に三にして一ですが、人との関わりでも三一性が重要です。もし神が三一でなかったら、贖いは成立しません。この辺の詳細はバイブルカレッジの「真理の探究」で説いております。この呼び方においても私たちの神の豊かさをエンジョイすることができるのです。


呼び名の使い方
[1] ゴンベー( … 回) [E-mail] 2004/10/07/Thu/09:48 (No.53)

  ルークさんのメッセージ、祈り、書き物のなかで、いろいろな呼び名が出てきます。イエス、キリスト、イエス・キリスト、キリスト・イエス、主、ジーザス、ロード、神、天の父・・・いずれも三位一体の神の呼称ですが、どういうときに何を使うか、迷い(混乱)が生じます。気分的なものではないと思いますが、はっきりした基準、わかりやすい分類、意味の違い、もしできたら教えてください。個人的な祈りでの使い分けと、正式なメッセージでの、それぞれの使い分けを教えていただければ幸いです。


Re:報酬
[1] Luke( … 回) 2004/09/27/Mon/23:57 (No.52)

  昨今の人間中心的"福音"は砂糖まぶしを通り過ぎて、聖書の真理をダイレクトに否定しています。例えば、「地獄はない」とか、「イエスを信じなくとも天国に行ける」とか・・・。創世記3章のサタンのまいた偽りが教界において実を結んでいます。

それどころか、地獄の話をして人を脅すのはカルトだとか、イエスだけが救いの道と言うのは排他的で独善だとか・・・。忌まわしい姿勢です。神の言葉を人が裁く、あるいは都合の良い所だけつまみ食い。

すでにクリスチャンがふるいにかけられるステージに入ったと感じています。それぞれの心の本質がこれから次々に明らかになるでしょう。また有名どころの先生方や油注ぎの器などが真理から落ちていくことでしょう。


Re:報酬
[1] Qちゃん( … 回) 2004/09/27/Mon/14:50 (No.51)

  とても勉強になります。ルークさんのレクチャーを聴きながら、この件について特に聖書を見てみましたが、例えば

マタイ7:22-23 その日には、大ぜいの者がわたしに言うでしょう。『主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言をし、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって奇蹟をたくさん行なったではありませんか。』しかし、その時、わたしは彼らにこう宣告します。『わたしはあなたがたを全然知らない。不法をなす者ども。わたしから離れて行け。』

この人たちは主の名を用いていますから、クリスチャンと解釈してよいわけですよね。ワザはしていても、主に拒否されてしまう人たち。

マタイ8:12 しかし、御国の子らは外の暗やみに放り出され、そこで泣いて歯ぎしりするのです。

には明確に「御国の子」が外の暗闇に出されるとあります。

また

マタイ25:30 役に立たぬしもべは、外の暗やみに追い出しなさい。そこで泣いて歯ぎしりするのです。

にも「しもべ」とあります。

一時的な配剤とは言え、主によって査定されて拒否されることはさみしいです。

1コリント3:13-15 各人の働きは明瞭になります。その日がそれを明らかにするのです。というのは、その日は火とともに現われ、この火がその力で各人の働きの真価をためすからです。もしだれかの建てた建物が残れば、その人は報いを受けます。もしだれかの建てた建物が焼ければ、その人は損害を受けますが、自分自身は、火の中をくぐるようにして助かります。

これがキリストの裁きの座(ベマ)における裁きとなるわけですね。

現在のヒューマニズム的福音で安穏としている人たちにはとても受けがたく、またつまづきとなる部分だと思います。私自身も初めて聞いたときには相当にショッキングでしたし、受け入れがたく思いましたから。

しかし逆に現在この時に主に頼り、主の恵みだけによって生きる必要性を深く感じることができるようになったことも事実です。「恵みを無駄にしない生き方」をまっとうできればという願いが強くされました。

聖書はまさに神の言葉。人のスタンダードで測ることはできない。ルークさんがよく言われる「服する」ことだけが求められるわけですね。


Re:自我を砕く と 自己の死
[1] Luke( … 回) 2004/09/09/Thu/20:58 (No.50)

  はじめまして。

とてもよいご質問です。私としては、むしろ、ヒステリックに「自我を砕きぃ〜」と説教している先生にその意味を伺いたいですね(笑)多分、自分が何を言っているのか分かっていないです。そして本人が実はけっこう葛藤を経験しているのですね。

第一に、そのような言葉は聖書にありません。自我(ego)は砕かれたら困ります。なぜなら私そのものだからです。主イエスご自身が「エゴ・エイミ(わたしはある)」と言われます。自我は私です。そして自我あるいは自意識の座は魂です。

第二に自己(Self)とは、霊が再生されていない場合は、魂と体の相互作用の表現です。罪の結果霊が死んだため人類は魂(思い・感情・意志)を肥大化させて体を乱用しますが、これが肉(flesh)です。この体の中には罪(Sin)が住んでいます。つまり肉の要素としては、霊から切り離されて神から独立して生きる魂と内住の罪からなります。

内住の罪はキリストの肉において裁かれ、いわば力を抜かれていますが、取り除かれてはいません。ちょうどワクチンのように無毒化されていますが、私たちが霊的に弱くなるとき、自分の体を罪に委ねるならば、罪々(sins)をいぜんとして犯します。私たちには体を罪に委ねない責任があります。

また主イエスが十字架につかれたとき、古い人(霊から切り離されて生きる自己)は死にました。しかしこれは魂が存在論的に消滅したのではありません。霊から独立した生き方が終わらされたのです。よって魂は霊から独立することなく、霊に頼れば良いのであって、砕かれて消失するわけではありません。主は、この独立する魂のいのちを否めと言われました。具体的には、魂は自分の主張と自分を守ることでその性質を表現します。この魂においてキリストを主張し、キリストに守ってもらえばよいのです。これが自分の魂を救わないことです。そしてこれは私の責任です。

このことを可能するするために私たちのうちに御霊が住んで下さっています。御霊に頼るならば罪に体を委ねたり肉の欲を満たすことはありません。しかしこれは「自我を砕きぃ〜」ではありません。パウロは「今や生きているのは私ではなく、キリストである。しかし肉にあって生きている"私"は御子の信仰によって"生きている"」(ガラテヤ2:20)と言っています。私(ego)は御子の信仰によって生きるのです!

あえて「砕かれる」を使うとすれば、霊から独立した魂の能力や達成の上に自己のアイデンティティを置くことは偽り、フェイクです。この誤ったアイデンティティの置き方、あるいは建て上げ方が崩される必要があります。しかしこれは自我そのものが砕かれるのではありません。自我の周りの居雑物が砕かれるのです。ただ魂はそれらを守ろうとしますから、抵抗しますし、痛みを覚えます。

そして魂は自分の中に蓄積された霊感情観念複合体のエネルギーで作動するのではなく、御霊が霊に注ぎ込む霊的いのちのエネルギーで作動するのです。御霊の油塗りによって滑らかに潤されつつ、もがきや焦りのない安息した魂の状態において、思い・感情・意志はその機能をかえって十分に発揮できます。思いはクリアに、感情は安定し豊かに、意志は神に対しては柔らかく、そしてキリストの魂の中で展開している事象が私たちの魂のうちに投影するのです。さらには魂の機能のし方がキリストのそれの再現になります。これが聖化です。

・・・で、ここではスペースの関係でこれ以上は・・・、ですので、こちらをご覧下さい:

・「古き人と肉の関係」
http://www.kingdomfellowship.com/Ministry/q&a/Q&A_1.html
・「私と内住の罪について」
http://www.kingdomfellowship.com/Ministry/q&a/Q&A_2.html
・「罪とは」
http://www.kingdomfellowship.com/Keywords/sin.html

それからバイブルカレッジの「真理は・・・」のコースで相当に詳細に論じています。

「自我を砕きぃ〜」と言う説教は実は聖書ではありません。「自我」と言う単語にある種の道徳的あるいは倫理的な意味を込めてしまっています。それは儒教の影響です。カルトでも「自我を砕きぃ〜」ってやっていますよ(笑)何か霊的に聞こえますが、巧妙な偽りです。これで束縛され、葛藤している人がかなり多いです。「自分は死のうとすればするほど、自分が生きている〜」と。生きていていいのです!

現在ニッポンキリスト教界には偽りのパン種があちこちに散りばめられています。しかも皆さん、疑問も感じていません。しかし疑問を感じ、正当な批判精神に目覚めることができた人は幸いです。それは人を解放する真理への第一歩です。牧師先生を批判してはならないとか、偉い先生に楯突くなとかになれば、これは立派なカルトです。受動的になって、ごもっとも姿勢になるのではなく、健全な批判精神を持ってください。もちろん御言葉と照らしてですが。

 あなたがたの間から古いパン種を取り除き、種なしパンの祭りに与れ

とあるとおりです。

Blessings!


自我を砕く と 自己の死
[1] et( … 回) [E-mail] 2004/09/09/Thu/12:53 (No.49)

  こんにちは。

ちょっとディープなトピックで「自己における死」を読みました。
非常にすっきりしました。
そして日記も読ませて頂いたところ、
「うちの教会では「自我を砕きぃ〜」と説教されていますという方、
それは十字架ではない」とおっしゃっています。
うちの教会ではまさに「自我を砕きぃ〜」と説教されます。
自己の死のことかなぁと思い、あまり気にしていなかったのですが・・・。

質問ですが、自我と自己の違いは何ですか?
また、ルークさんがおっしゃる「自我を砕く」とは、
どういう事を指すのでしょうか?
一般的に使われている言葉の定義の問題なんでしょうか?
十字架を経るか経ないかの違いなんでしょうか?

文章下手ですみません。


Re:「思い」について
[1] Fuka( … 回) 2004/09/02/Thu/14:28 (No.48)

  Lukeさま、ありがとうございました。
とてもよくわかりました!
また、とても喜びでいっぱいです。
思いの訓練のためにも日々み言葉を慕い、口ずさむものでありたいです。そのように主に守っていただきたです。

また心病む方達が、自分を繕おうとする作業に巻き込まれないようにということを心に留めておこうと思います。

Likeさんの語り掛けには主の御手の「ストロング」さを感じます。
どうぞこれからも主の器となって、ますますみ言葉を導いてくださいますように。
ありがとうございました。


Re:「思い」について
[1] Luke( … 回) 2004/09/01/Wed/20:17 (No.47)

  はじめまして。

大変に良いご質問です。理解においても経験においてもここがクリアになることは、クリスチャン生活の革命です^^

おっしゃるとおり、思いはさ迷いますし、敵も恐れや不安の種などの火の矢を放って思いへの攻撃をしかけます。聖霊派でよく言われる、「主の声を聴いた」として、これで混乱しているクリスチャンが山ほどおります。

鍵はおっしゃるとおり、思いを霊に置く、肉の思いは死であるが、霊の思いはいのちと平安である、にあります(ローマ8:6)。新改訳では「御霊の思い」とあるようですが、「霊の思い」です(岩波訳は適切です)。具体的にはキリストの言葉を内側に豊かに住まわせることです(コロサイ3:16)。

作り変えのプロセスも思いから始められます。「むしろ〔自らの〕思いを刷新することによって形作り直され」(岩波訳、ローマ12:2)とあります。ここの「形作り直され」は英語では"conformed into"です。形質が変化されれることであり、これが聖化です。聖化とは髪を七三に分けて、白いワイシャツを着て、丁重な言葉遣いで、シャナリシャナリすることではありません(笑)。

またガラテヤ4:19には「キリストがあなた方のうちに形造られるまで」とありますが、ギリシャ語ではmetamorphoseであり、昆虫の変体のことです。私たちはキリストのDNAを宿し、キリストが私たちの内で孵化するのです(2コリント3:18)。いつか私たちが今の体を脱ぐとき、キリストが完全に出現します。よって主と御目にかかる日には、私たちも主のようであるのです(1ヨハネ3:2)。

エペソ4:23「古き人を脱ぎ棄て、あなたがたの思念〔を規定する、神〕の霊でもって新しくされ」(岩波訳)とあります。新改訳は「心の霊」となり不正確です。古いものと新しいものが新陳代謝して置き換えられるために、思いの訓練が要ります。思いを霊につけるとき、霊が思いの中に塗り込まれるというか、浸透するというか、とにかく思いがしっとりとするのです。そのような思いの中に起きることは霊が塗られていますから、御言葉の真理に自然と従っています。

思いを訓練することが鍵です。病んでいる人々は、一様に思いを侵されています。またその病んでいる思いから出るものを自分のものとして、捨てようとしません。彼らの誤りを指摘するならば、逆ギレするでしょう。そして彼らは人を巧妙にコントロールします。そうやって生き抜いてきたわけで、憐憫や同情を買って、人の関心を引き付け、また自分の責任を果たせないことの言い訳としています。

応対の鍵は、同じ船に乗らないことです。彼らに真理を語りますが(エペソ4:15)、相手のペースに飲み込まれないことです。私は常に彼らにこう言っています:「私をマニュピレートすることはできません。あなたがいままでの自分のペースでやるのであれば、あなたは変わりません。私のペースに従うのであれば、あなたは変わるでしょう。自分で選択しなさい」と。

箴言に「面と向かっていさめるは、隠れて愛するに勝る」とあるとおりです。英国のColin Urquhartはよくこう言います:神の愛(アガペー)はセンチメントではなく、ストロングである。

Blessings!


「思い」について
[1] Fuka( … 回) 2004/09/01/Wed/18:42 (No.46)

  はじめまして、Lukeさん。
こちらのページで色々なことを学ばせていただいております。
本当に感謝です。
今日は「思い」についてお聞きしたい事があります。
もしかしたら学び間違っている箇所がるかもしれませんがお赦し下さい。

思いは、肉でもあるが、霊と魂の結合点だと学びました。
Sinと御霊は逆流する流れのようで、そのはざまにあって「思い」を御霊にむけていく事の大切さを知りました。
この「思い」というものは感情や意思と違って、なんだか自由にふらつくもののような感じがします。思いをめぐらせる・・・といいますよね。マリアがそうであったように。
「思い」を霊に服させることがことができるようになるといいなあ・・と思います。そのためには御霊の力が必要ですね。

さて「思いの霊」というのがエペソにでてきますが、これはどういう意味なのでしょうか?

また「思い」をやられている心病む人たちは、舵の壊れた船にのっているようなものだなあ・・と思うのですが、その船に一緒に乗る者が心すべきことは何でしょうか?

ぶしつけで、まとまりのない質問ですがどうぞ宜しくお願いします。


Re:クリスチャン以前の人生のモロモロの事件
[1] Luke( … 回) 2004/09/01/Wed/18:15 (No.45)

  そうですね、聖霊を受けていない頃の神との関わり、あるいは神の導きは「一般恩恵」とかって神学的には言っているらしいです。一方聖霊を受けた後を「特別恩恵」とか・・・。

まあ神学用語はともかくとして、詩篇には「母の胎にある時から主のみ手がある」とありますし、エペソ書には世の基が置かれる前から、神は私たちを選んでくださったとあります。

単純にそれを信じて、明示的な語り掛けが意識されてなくとも、聖霊は私たちに働いていてくださり、ついには主のみ手に落ちるようにすべてを按配してくださっていたと、私は信じていますし、感じてもいます。



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