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旧約聖書の神
[1] TAB( … 回) [E-mail] 2004/07/10/Sat/11:10 (No.24)

  私、最近聖書を読み始めたのですが旧約聖書の時代の神は何故自分を信じない部族を徹底的に滅ぼそうとされたのでしょうか? また、何故新約聖書では一転し、愛する神になったのでしょうか。独学の為、回りに聞ける人もいないので・・・どなたか教えて下さい。


Re:神の国と天国
[1] しょう( … 回) 2004/07/10/Sat/00:46 (No.23)

  お返事ありがとうございます。実はマタイのこの箇所は、ルークさんのおっしゃる通り何を第一とするかという動機を見ていることは知っていました。ですので、神の国と天国の違いの話を聞くまでは全く気になっていなかったのですが、その違いを聞き、注意して読んだ時に疑問に思ったので質問させてもらいました。

神の国は<すでに来た>、<現在私たちのうちに確立しつつある(来つつある)>、<将来完全に到来しキリストの統治が成就する>の三相があるということ、本当にその通りだと思います。私の誤解はこの箇所を<will come>の時制で考えてしまったからだと気づかされました。キリストがなしてくださった御わざによってすでに神の国は来ましたが、それを実際生活の中で体験していくことを切に求めることが必要なのですね。そうしてみると、聖書の他の箇所もそうですが、信仰によって御言葉をつかんでいくというのが現在の私達がこの世の中にあってなしていくべきことなのだなぁと痛感します。それは目に見える奉仕よりもずっと難しいものですが、私の主が必ず私を導いてくださると信じます。

ルークさんを通して働かれる主に心から感謝します。親切に教えてくださり本当にありがとうございました。さらなる主の祝福をお祈りしています。


Re:神の国と天国
[1] Luke( … 回) 2004/07/10/Sat/00:02 (No.22)

  はじめまして、しょうさん。

神の国(The Kingdom of God)と天の御国(The Kingdom of Heavens)についてはいろいろな解釈があります。私のスタンスは、恵みと報酬を区別しています(1コリント3:8)。なぜなら信仰は行いによって全うされるからです。私たちは賞を得るように走る必要があります(1コリント9:24)。

神の国はいのちの誕生(恵み)によります(ヨハネ3:5)。また天の御国は現在の教会(エクレシア)と来るべき千年王国の天的領域を意味します。ですから現在のクリスチャンにとっては<神の国=天の御国>で重なっています。

しかし来るべき時代では天の御国を得る人と得ない人が分かれるでしょう。これは現在私たちが恵みを無駄にすることなく(2コリント6:1)、内なるキリストの御業に与るとき、それぞれの行いによって査定されるわけです。この行いは義とされるための行いではなく、信仰と恵みの表現としての行いです。

これはキリストの御座(ベマ)の裁きによって、恵みをどれほど無駄にしなかったかが査定されます(2コリント5:10)。しかしこの裁きは滅びへの裁きではありません。業は焼かれますが、本人は救われています(1コリント3:15)。滅びへの裁きは千年期後の白い御座の裁きによります(黙示録20:11)。

さて、マタイのこの箇所は、文脈を見れば分かるとおり、何を第一にするかという心の動機を取り扱っている部分です。私たちは何にもまして<神の国=いのちの成長とキリストの統治>を第一に求める必要があるのです。

神の国を理解する時に、3つの時制を意識する必要があります。神の国はキリストと共に、<すでに来た>、<現在私たちのうちに確立しつつある(来つつある)>、<将来完全に到来しキリストの統治が成就する>。<has come>, <is coming>, <will come>の三相があるのです。

ですから現在の私たちは私たちのうちに恵みによって神の国が確立することを求める必要があるのです。それは<内にあるキリストのいのちの成長>と、<愛と平安によるキリストの統治の確立>です。

Blessings!


神の国と天国
[1] しょう( … 回) [E-mail] 2004/07/09/Fri/23:35 (No.21)

  こんにちは。初めまして。しょうといいます。一つ質問があります。「神の国は神の主権の及ぶあらゆる時代とあらゆる領域を意味し、天の国は神の国の中の一部を構成している。」ということで、クリスチャンは神の国には入れるが御国は報酬であるということでした。よくわかるのですが、それではなぜイエス様は「神の国とその義とをまず第一に求めよ」(マタイ6:33)と言われたのでしょうか。神の国と御国(天国)の言葉を気をつけて区別するならば、なぜ第一に求めるものがクリスチャンであれば入れる神の国なのでしょうか。よろしくお願いします。


Re:聖書が明確に禁じていもの
[1] Luke( … 回) 2004/07/09/Fri/23:05 (No.20)

  メーリングリスト参加の方から次のような投稿がありました:

引用------------
使徒15:20を現代の私たちに適用するのは少し無理があるのではないでしょうか?
偶像礼拝と不品行は、十戒にも記されていますが、「絞め殺されたもの」と「血」は、21節にあるようにユダヤ人クリスチャンへの配慮であると考えられないでしょうか。
異邦人クリスチャンがユダヤ人クリスチャンと交わりが円滑にできるようにするためではないか、と私は推察しています。

使徒15:20よりも、マルコ12:39-31(平行箇所あり)、あるいは第一ヨハネ2:7-10(3:11)にあるように、神を愛し、互いに愛し合うことこそ、現代の私たちに与えられた新しい命令と言えるのではないでしょうか。そして、この愛に生きるときに、十戒のすべても自然に守ることができるようになると考えます。

私のレス--------
これはおっしゃる通りと思います。

わたしたちにとって大切なのは「禁」ではなく、いのちの御霊の法則(律法)に従って、御霊の力によって、いのちに生きることですから(もちろんこれは愛に生きることです)。


Re:聖書が明確に禁じていもの
[1] Luke( … 回) 2004/07/08/Thu/21:08 (No.19)

  輸血と飲むことは違うでしょうね、医学的にも。私もステーキのミディアムが大好きです。でもすっぽんの生血は飲みません。ポイントは動物としてのいのちが血の中にあるからです。私たちが"飲む"血はイエスの血、私たちが"食べる"肉はイエスの肉です。

偶像は神に対して優先されるものはみなアイドルとなり得ます。牧師が自分の教会を大きくすることも偶像となり得ます。が、あえて像の前では手を合わせません。もし気がつかないアイドルを御霊が照明されたら、ただちにイエスの血によって捨て去ればよいでしょう。

大切な点は、霊的リアリティであるイエスの血、イエスのいのち、真の神イエスとの関係を損なうことがないことです。そのための最小限の禁がこの4つです。もし失敗しても赦しを求めればよいのです。

今や、キリスト・イエスにある者は罪に定められることは決してない(ローマ8:1)


聖書が明確に禁じていもの
[1] 小次郎( … 回) 2004/07/08/Thu/20:55 (No.18)

  聖書が明確に禁じているものは「偶像礼拝、不品行、絞め殺した物を食べること、生血を飲むこと」ということはわかりました。
ですが、それぞれに関して、どのように理解すればよいのでしょうか。
例えば、エホバの証人の方は生血を飲むことから輸血を禁止しています。(確か..。違ったらすみません)
この前、サンマを焼いて、あまり十分に焼けてなかったので、身が赤く、血が出てたようです。
気にせずに食べましたが、気づいていないだけで問題ありなのでしょうか。
偶像礼拝に関しては、仏像などを拝むことはもちろんありませんが、
人やお金、自分が偶像になっていることもあると聞きました。
どのように判断したらよいのでしょうか。


Re:メルキゼデク系祭司
[1] Luke( … 回) 2004/07/08/Thu/15:08 (No.17)

  はじめまして。

>  祭司制度がレビからイエス様に変更になったから律法も石の律法から心の律法に変わり、心の律法を生きることを聖霊が可能にして下さるという理解でいいのでしょうか。

そのとおりです。

>  ICHIROさんがおっしゃるとおり、わたしもいのちの御霊の法則をつかむコツがまだよく分かりません。でも古い律法を自分で守ろうとする努力からは解放されつつあります。楽になってきています。

習うより慣れろ、です。

>  でももう一度確認させてください。これまで何度もアレをするな、コレをせよと言われ続けてきたので、不安なのです。古い律法を守る義務はクリスチャンにはないのですね。

御言葉を引用しましょう:

ローマ7:2-4
それとも、兄弟たち。あなたがたは、律法が人に対して権限を持つのは、その人の生きている期間だけだ、ということを知らないのですか。――私は律法を知っている人々に言っているのです。―― 夫のある女は、夫が生きている間は、律法によって夫に結ばれています。しかし、夫が死ねば、夫に関する律法から解放されます。ですから、夫が生きている間に他の男に行けば、姦淫の女と呼ばれるのですが、夫が死ねば、律法から解放されており、たとい他の男に行っても、姦淫の女ではありません。私の兄弟たちよ。それと同じように、あなたがたも、キリストのからだによって、律法に対しては死んでいるのです。それは、あなたがたが他の人、すなわち死者の中からよみがえった方と結ばれて、神のために実を結ぶようになるためです。

日本人は律法の民ではありませんが、日本人の病理である強迫性によって自家製の律法を作ります。これに対しては

ガラテヤ4:3,9
私たちもそれと同じで、まだ小さかった時には、この世の幼稚な教えの下に奴隷となっていました。・・・ところが、今では神を知っているのに、いや、むしろ神に知られているのに、どうしてあの無力、無価値の幼稚な教えに逆戻りして、再び新たにその奴隷になろうとするのですか。

コロサイ2:20-29
もしあなたがたが、キリストとともに死んで、この世の幼稚な教えから離れたのなら、どうして、まだこの世の生き方をしているかのように、「すがるな。味わうな。さわるな。」というような定めに縛られるのですか。そのようなものはすべて、用いれば滅びるものについてであって、人間の戒めと教えによるものです。そのようなものは、人間の好き勝手な礼拝とか、謙遜とか、または、肉体の苦行などのゆえに賢いもののように見えますが、肉のほしいままな欲望に対しては、何のききめもないのです。

ここにある「幼稚な教え」とは原語ではある種の霊的力を意味します。世を支配する堕落天使は空中にいますが、彼らに啓発された人間的教えです。これらの霊的影響から私達は解放されているのです。

聖書が明示的に禁じているのは4つです:偶像礼拝、不品行、絞め殺した物を食べること、生血を飲むこと。ほかはすべては許されているが、すべてが益になるわけではない、の判断によってください。内なる油がすべてを教えてくださいます。


Re:メルキゼデク系祭司
[1] サザン・桑田( … 回) 2004/07/08/Thu/10:05 (No.16)

  はじめまして、いつも学ばせていただいています。

 祭司制度がレビからイエス様に変更になったから律法も石の律法から心の律法に変わり、心の律法を生きることを聖霊が可能にして下さるという理解でいいのでしょうか。
 ICHIROさんがおっしゃるとおり、わたしもいのちの御霊の法則をつかむコツがまだよく分かりません。でも古い律法を自分で守ろうとする努力からは解放されつつあります。楽になってきています。
 でももう一度確認させてください。これまで何度もアレをするな、コレをせよと言われ続けてきたので、不安なのです。古い律法を守る義務はクリスチャンにはないのですね。


Re:夫婦の関係,親子関係について
[1] Luke( … 回) 2004/07/02/Fri/20:19 (No.15)

  >おむすびさん

日記で夫婦や家庭について書いているのは

昨年10月4日、5日、21日、今年6月26日

ですね。夫婦は共に主の恵みを受け継ぐ存在です。互いの存在自体を慈しみあうこと、楽しむことです。ただ共にいるだけで良い。キリストも私たちを、私たちの何か(性格・わざ・達成など)によらず、存在を慈しんで下さるのです。これが雅歌に書かれている夫婦の関係です。

>ぶんさん

大切な点はいのちを分かち合っていることです。神は御子のいのちを聖霊によって私たちの霊の中に吹き込んで下さったのです。私たちは霊的に神のいのちを共有しています。

親から見て子供は自分の分身。子供から見て、親は自分のいのちの源。地上の親子関係は見えない神との霊的関係の型です。地上の父の経験がなかったとしても、真の父と子の関係を今持つことができるでしょう。憐れみと慈しみに満ちた無条件の霊の父の愛を究極まで享受して下さい。

Blessings!



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