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イスラエルと教会の関係は、いのちの次元から見ないとややこしくなります。これを見ていないので、イスラエルに入れ込む人たちの書き物を読んでもサッパリ分からないのですね。
ポイントは創世記です。創世記でいのちの木から遮断された人類に(3:24)、ご自身がいのちとして、またいのちへの道として、ご自身の体を裂くことによって、いのちを与えるためにキリストは来られたわけです(ヨハネ10:10)。このいのちを吹き込まれた存在が教会(召された人々)です(訳語が悪いです:エクレシア)。
いのちへの選びが「本質的選び」、対してイスラエルの選びは神の言葉を委ねられ、メシアを地上へもたらすための「経綸的(機能的)選び」(この選びによっては救われません)と、私は呼んでいます。
神の目には、人類はアダム族(古いいのちを持つ人類)とキリスト族(新しい復活のいのちを持つ人類)の二種類しかありません。ですからメシアニックジューなどの概念も私は無意味であると言っています。
イスラエルは機能的選びによってメシアを迎えたのに、彼らは拒否しました。そのために異邦人である私たちが信仰によるアブラハムの子孫となるチャンスがあたえられました(ガラテヤ3:7)。が、これは元々神の意図でした(ローマ11:32)。
神はアブラハムに対して、"イスラエルだけ"が祝されるとは言わず、あなたの子孫と"諸国民を"祝すと言われています(創世記12章)。しかもこれは律法によるのでなく、約束により、その約束は子孫(単数形)であり、キリストを意味しています(ガラテヤ3章)。つまりアブラハムへの約束は、全人類にいのちを与えるキリストを与える約束だったのです。よって律法(経綸的措置)は付加的なものであり、この約束(本質的御旨)を無にすることはありません。律法の致命的欠点はいのちを与えないことです(ガラテヤ3:21)。
もちろんイスラエル(いちじくの木)もキリスト(ぶどうの木)につながれていのちを得る必要があります。そしていずれメシアを受け入れます、が、それまでに過酷な運命を経るわけです。 |