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クリスチャン以前の人生のモロモロの事件
[1] ゴンベー( … 回) [E-mail] 2004/09/01/Wed/16:36 (No.44)

   クリスチャンになる以前の長い年月(半世紀以上)に、人間関係、職場関係、個人的活動などにて、さまざまな事件がありました。全体を通して、ヤコブの物語に通じます。計算高く、策略的で、ずる賢く、自己中心な自分…どれも、同じです。
 でも、クリスチャンになるまでの、数々の失敗や数々の成功(この世的な)は、やはり、神に選ばれた器に対する試練だったのでしょうか。それにしては、その間、神から(ヤコブのように)なんらの啓示も得ていません。当然でしょうが。それでも、今思うと、ここ人、あの人を通じて受けた言葉や失敗の事実などが、神の啓示だったのかもしれない、とも感じます。
 ノンクリスチャン時代の人生のイロイロな事件を、どう捉えたらいいのでしょうか。お教え願いたし。(なお、ごく最近、その延長線上の事件でペヌエルの経験を味わい始めました)。 


Re:報酬
[1] 小次郎( … 回) 2004/08/30/Mon/13:26 (No.43)

  メッセージもダウンロードできました。
旧約聖書の適用に驚いています。
ありがとうございました。


Re:報酬
[1] Luke( … 回) 2004/08/30/Mon/12:48 (No.42)

  > 王国に入れずに再教育を受ける人がいると聞きましたが、再教育とはどういうことなのでしょうか。

神の国はいのちの誕生であり(ヨハネ3:3)、霊の再生されたクリスチャンは永遠の救いを得ています。これは信仰と恵みの問題です。御国は神の国の一時期であり、今の教会時代と千年期です。

そこでの統治はそれぞれに分が割り当てられますし、栄光に差があります。私たちのわざはキリストの御座でさばき(滅びへの白い御座の裁きではなく、査定あるいは評価)を受けます(2コリント5:10)。信仰は行いによって完成されます。各自はそれぞれのわざ(=信仰の実、あるいは恵みを無駄にしないこと)に応じて報酬を受けます(1コリント3:8;)。しかもこの報酬から漏れる者がいることはタラントの喩えから明らかです(マタイ25章)。

ただし注意して下さい。「わざ」といっても、よく見られるイケイケ的な肉の奮闘努力ではありません。最も有効なわざは安息することから生まれるのです。

では、どこでどのような再教育を受けるのか、私は分かりません。聖書は部分的に語っていますが、それを今ここで語ることは、耳が痛いことで、ほとんどの人は耐えられないでしょう。ただしそれは滅びではなく、訓練ですから、一時期のことであり、永遠の救いを失うことではありません。

> セレブレーションのメッセージをありがとうございます。
> MSGの音声ファイルが8月の8日でとまっているようですが、昨日のメッセージも楽しみにしています。もちろん、LISTENのところで聴くことはできました。

FTPの方、アップし忘れていましたので、さきほどしておきました。


報酬
[1] 小次郎( … 回) 2004/08/30/Mon/11:28 (No.41)

  おはようございます。
クリスチャン・ベーシックコースから質問させてください。
王国に入れずに再教育を受ける人がいると聞きましたが、再教育とはどういうことなのでしょうか。そのとき、マタイの福音書から「暗闇で歯噛みをする」ということも聞きました。どうして御国の子が暗闇に出されるかわかりません。恵みで神の国に入れるけれど、行いがないとその前にこういう所を通るということでしょうか。

セレブレーションのメッセージをありがとうございます。
MSGの音声ファイルが8月の8日でとまっているようですが、昨日のメッセージも楽しみにしています。もちろん、LISTENのところで聴くことはできました。


Re:罪責感からの解放
[1] Luke( … 回) 2004/08/28/Sat/13:07 (No.40)

  まず罪には単数形(Sin)と複数形(sins)があることをご確認下さい。単数形の罪(Sin)はロマ7章の内に住む罪であり、個々の犯された罪々(sins)のルーツです。神の処方箋はそれぞれに異なります(「トピック」を参照して下さい)。

さて、イエスの血は個々の犯された罪々を清め、拭い去ります(内住の罪には血でなく十字架です)。すでにTOMさんの過去の罪、現在の罪、将来の罪は取り除かれています。罪の告白はこの事実を適用することです。ギリシャ語の「告白する」とは「同じことを語る」と言う意味であって、過去の罪々を刑事部屋的に次々に白状することではありません。むしろそのような過去を探り、互いにプライバシーを晒しあうことは危険です。

告白は第一に神に対するものであり、第二に罪によって損害を与えた相手に告白し、赦しを得れば良いのです。第三者は関係ありません。過去をほじくるカウンセリングやミニストリーは聖書的ではありませんし、むしろ危険ですらあります。

TOMさんの良心がとがめ、現在の主との交わりに差し障りになる事で、聖霊が照明した罪に責任を負えばよいのです。そしてすでに取り除かれているゆえに安心と確信を持って血の適用を受ければよいのです。イエスの血はパーフェクトです。

ローマ8:1をぜひ声を出して宣言して下さい。

 今やキリストイエスにある者は決して罪に定められることは無い。


罪責感からの解放
[1] TOM( … 回) 2004/08/28/Sat/10:31 (No.39)

  へブル10:22とヤコブ5:16について教えてください。
へブル10:22は、良心の責め(罪責感)から解放されるのは、イエスの血が心に注がれるからであると書いてあるのだと思っています。

先日あるメッセージで、在責感から解放されるいくつかのステップがあって(罪の赦しなど)、その中のひとつに教会の小人数のグループで過去に犯した罪(Sins)を告白して受け入れてもらうことが必要であり、このステップには何ヶ月もかかると聞きました。ちなみに告白する相手は罪をおかした相手ではありません。その根拠としてヤコブ5:16「互いに自分の罪を告白し合いなさい。そして、癒されるため、互いのために祈り合いなさい。」があがっていました。この箇所はそういうことを言っているのでしょうか?インターリニアバイブルを見ると、「Confess one another the offenses」と書いてあり、「教会内で相手に対して犯した罪を告白しあう」という事を言っているように思えるのですが…?

罪の罪責感から解放されるのにこのような方法をとるというのは、カウンセリングの一般的な手法か何かなのでしょうか?


Re:ヨルダン川の記事について
[1] Luke( … 回) 2004/08/24/Tue/23:53 (No.38)

  はじめまして、ジェイコブさん。

第一のご質問:そうです、モーセの斥候と混同していましたね。

第二のご質問:正確には、ヨルダン川に埋まっていた12の石を拾ってきて記念碑を建てたのです。次の回で補っていると思いますが、要するにヨルダン川の渡りは、すでにキリストと共に死に渡された古い私(沈んでいた石)を脱ぎ捨て、過去に決着をつけることの神の業の記念碑的象徴です(客観的事実)。で、その後、彼らは実際に割礼を受ける(肉の対処)わけですね(私たちの主観的経験)。

ご指摘方、感謝します。小生、夢中になりますと記憶が飛んだり、混同することがよくあるのですね(冷汗)。


ヨルダン川の記事について
[1] ジェイコブ( … 回) 2004/08/24/Tue/23:22 (No.37)

  いつもこのHPをとおしていろいろと学ばせていただいています。今、バイブルカレッジのスピリチュアル・バイブル・リーディング・コースをテープで学んでいます。それでなのですが、2つ質問が
あります。どれもヨシュアに関してなのですが、一つは民がエリコを渡ろうとする前に斥候を送ったが、その斥候は「この良き地には巨人がいる。とてもかなわない」と報告したとルークさんが言って
いましたが、それは民数紀13章に出て来るモーセがカナンに斥候を送ったところのことですか?それともう一つは、民たちがヨルダン川を渡った時に、ヨルダン川に12の石を埋めたとおっしゃっていましたが、ヨシュア記を読む限りではその記事が書かれていません。もう少し詳しく教えていただけると感謝です。聖書を見ながらレクチャーテープを聴いていますが、この二つだけがヨシュア記の1〜4章に書かれていないのでわかりませんでした。しかし今もテープで学んでいますが、日に日にみことばが内に入ってきて、真理に対して目が開かれています。心から感謝します。


被造物の救いは?
[1] Luke( … 回) 2004/08/12/Thu/09:18 (No.36)

  ある方からメールにて次のようなご質問がありました。とてもよい質問ですのでここにも掲載させていただきます。

Q.素敵な教えをありがとうございます。神様の存在を信じることができます・・。日々心が癒されていくのを感じます。

少しの疑問がございます。まだ聖書を読み始めたところなのでおかしな質問ですが申し訳ありません。ご返事いただけると助かります。

人は罪をおかして死ぬようになってしまいましたが他の動植物はどうなのでしょうか?人間以外の生物はもともと死が与えられていたのでしょうか?

お教えください。お待ちしております。

A.まずはローマ書をお読み下さい:

8:19 被造物も、切実な思いで神の子どもたちの現われを待ち望んでいるのです。
8:20 それは、被造物が虚無に服したのが自分の意志ではなく、服従させた方によるのであって、望みがあるからです。
8:21 被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由の中に入れられます。
8:22 私たちは、被造物全体が今に至るまで、ともにうめきともに産みの苦しみをしていることを知っています。
8:23 そればかりでなく、御霊の初穂をいただいている私たち自身も、心の中でうめきながら、子にしていただくこと、すなわち、私たちのからだの贖われることを待ち望んでいます。
8:24 私たちは、この望みによって救われているのです。目に見える望みは、望みではありません。だれでも目で見ていることを、どうしてさらに望むでしょう。

アダムとエバは創造の時に全地を治めるべき神の代理権威を委ねられましたが(創世記1:28)、罪の結果それをサタンに奪われました(ルカ4:6;1ヨハネ5:19)。かくして全被造物が虚無に服するようになりました。

しかしイエスの十字架による和解の務めは全被造物に及びます:

コロサイ1:20 その十字架の血によって平和をつくり、御子によって万物を、ご自分と和解させてくださったからです。地にあるものも天にあるものも、ただ御子によって和解させてくださったのです。

ですからマルコ書16:15はこう言っています:

「全世界に出て行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えよ。」

つまり私たち人類は被造物の初穂なのです: 

ヤコブ1:18 父はみこころのままに、真理のことばをもって私たちをお生みになりました。私たちを、いわば被造物の初穂にするためなのです。

ローマ書にあるとおり、私たちの体が贖われて、神の子が出現することを全被造物はうめきをもって待ち望んでいるのです。

Blessings!


Re:堕胎やクローンについて
[1] Luke( … 回) 2004/07/23/Fri/09:44 (No.35)

  少し補います:

臓器移植は原理的には賛成できないと言う意味は、一般的現状ではキリストの贖いをある意味で無視しているからです。

しかしドナーとレシピエントの間に完全なる自由意志に基づいたドナーの献身とレシピエントがそれによって生かされることの意識がある場合、ある意味でキリストの贖いの御業の型(タイプ)とも取れるわけです。

ここでもポイントになるのは動機です。神学的には一般恩恵と特殊恩恵の関係が云々とか論じられるのでしょうが、人は元々神の形に造られていますから、動機の純粋性(100%はあり得ませんが)に応じて神の徳性のある面を表現し得るわけです。

ですから臓器移植では当事者の自由意志と動機に委ねられる要素が強いと考えられるわけです。もし一律に臓器移植を禁じるとなると、輸血も問題となってしまいます。



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