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初物の捧げもの
[1] おむすび( … 回) [E-mail] 2004/11/17/Wed/20:58 (No.77)

  しつもんです☆教えてください☆
初物の捧げもののことがよく分からないのです。
十分の一献金は収入の十分の一で,十分の一以外の捧げものが普通の献金として理解していましたが,初物の捧げものは,どのようにとらえたらいいのですか?
例えば,初めて就職をしてお給料を貰った場合,その収入の十分の1は十分の一献金としてしますが,お給料が初物の場合どう考えたらいいのですか?
また,お給料がアップした場合,その収入の十分の一献金をしてからアップした金額を初物の献金とするんでしょうか?
説明が下手ですが・・・質問を分って頂けましたか???


Re:血潮と灰
[1] Luke( … 回) 2004/11/16/Tue/23:57 (No.76)

  >それはイエス様は十字架上で死なれ、火葬されずに洞窟の墓に入れられたはずです。それを思い出しながら聞いていました。それでルークさんが「キリストが十字架上で焼き尽くされた」と言われた時にあれっと感じたのです。

ええ、もちろん物理的にイエスの体は焼かれたわけではありません。「私は渇く」と言われたように、霊的な焼かれ方です。

>このみことばと意味を教えてください。それともう少し詳しくキリストの灰を混ぜたみことばなる水について教えてください。よろしくお願いします。

傷のない赤い(=血の色)雌牛の灰は、完全に焼き尽くされたイエスのタイプです。灰はすべての終局です。この灰を水と混ぜることは、霊的リアリティを証しする御言葉(=水)によって、私たちに対して聖霊(=水)が完全に終わった主イエスの贖いの御業を適用されることを意味します。イエスの血はただ一度流され、すべての罪々を取り除きました。その実際の適用は水によって灰を適用する時、私たちの経験とされます。


血潮と灰
[1] ジェーコブス( … 回) 2004/11/16/Tue/23:41 (No.75)

  こんにちは。いつも質問に対して適格な答えを下さり感謝です。多くのことを教えられています。
今週の聖日のメッセージはとても強く教えられました。そして私の中にある「自分を愛する、大切にしている」部分、魂的な歩みについて見せられました。まだそういう面があるなということを思い巡らし、イエス様へと思いを向けています。

さて、質問なのですが、ヘブル9:13-14と民数記19章からキリストの血潮と灰について語られていましたが、血潮についてはよくわかりましたが、灰については疑問を感じました。それはイエス様は十字架上で死なれ、火葬されずに洞窟の墓に入れられたはずです。それを思い出しながら聞いていました。それでルークさんが「キリストが十字架上で焼き尽くされた」と言われた時にあれっと感じたのです。このみことばと意味を教えてください。それともう少し詳しくキリストの灰を混ぜたみことばなる水について教えてください。よろしくお願いします。


Re:危機的聖化については
[1] Luke( … 回) 2004/11/02/Tue/23:46 (No.74)

  これは性格によると思います。ニーの性格は強迫性傾向があります。完全癖、まじめ、実直など。この傾向が強い人は自力信仰に落ちますから、「死んだ、死んだ、死んだ」と唱えて、頑張るわけですね。これから解放はローマ7章から8章への転機であり、「瞬間のきよめ」ではなく、クリスチャンの標準の入り口に立ったのです。これから継続的にいのちの御霊の法則によって生きる地平線が開かれるわけです。私から見ると神学などは、それを作った人の精神病理と密接に関連していますね。


Re:危機的聖化については
[1] カズ( … 回) 2004/11/02/Tue/23:18 (No.73)

  ありがとうございます。たとえばウォッチマン ニーの「キリスト者の標準」の中でニー自身、7年間自分が死んでいると認め続けてある日の朝、ついにそのことを知って嬉しさのあまり椅子から飛び上がったことが書かれていますが、この経験はいったいどういうものなのでしょうか?私自身は昨年イエスキリストを知り、キリストとともに古い私も十字架につけられたことを受け入れたところ、明らかに内側が変えられてきました。しかし、上記のニーのような経験(これに似た証しをよく見聞きします)はありません。 ルークさんがおっしゃっているように罪や誘惑にたいして鈍感になって反応しにくくなってきたのですが。


Re:危機的聖化については
[1] Luke( … 回) 2004/11/02/Tue/22:32 (No.72)

  カズさん、はじめまして。

きよめ派のそれは私はよく知りません。聖霊のバプテスマを指すと聞いたこともありますが・・・。

私の理解は、霊の再生→魂の聖化(=内なるキリストのメタモルフォーシス)→体の変貌(栄化)、です。

瞬間的に起きるのは体の変貌と理解しております。


危機的聖化については
[1] カズ( … 回) 2004/11/02/Tue/22:08 (No.71)

  きよめ派の人々が度々証しされる「瞬間的なきよめ」は聖書的なものなのでしょうか? 


Re:頑強な要塞
[1] ゴンベー( … 回) [E-mail] 2004/10/29/Fri/22:00 (No.67)

   早速の回答、感謝です。二つの点、とてもよくわかりました。「信仰の度量に応じ、神の働きは一挙でもあり、徐々にでもある」 したがって、「自由意志による信仰にまかせ、がんばる必要はない」。ということは、信仰がなければ、主観的実体化がゼロの場合もありうるわけですね。そして、がんばるのでは、安息がないということですね。


Re:頑強な要塞
[1] Luke( … 回) 2004/10/29/Fri/20:51 (No.66)

  徐々にの場合と、一挙にの場合があります。が、神が働かれる時は私たちの信仰の度量を越えることはありません。それに十字架は甘く、甘美な経験です。がんばって愛そうとしなくてよいのでは?


頑強な要塞
[1] ゴンベー( … 回) [E-mail] 2004/10/29/Fri/19:26 (No.65)

   教えてください。御言葉にそってある人(価値観・生活様式のまったく違う、血のつながらない家族の一員)を愛そうとしても、どうしてもできないと感じます。自我の最も強い領域で、崩されまいと、懸命に防御している頑強な要塞を認めます。これこそ、自己を否むポイント、つまり試されている現実の十字架なのでしょうが、一朝一夕には100点は取れません。多岐・複雑な問題があります。こんな場合、御霊に導かれ、かなりの時間をかけて、少しずつ自己を否むことしかできませんが、それでよいのでしょうか。これが日々の霊的訓練なのでしょうか。



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