2005年12月06日

まあ、ガチンコするつもりはありませんが

ちょっといくつかのトピックについて問題提起しましたが、あまりニッポンキリスト教の神学者や牧師たちに回答を期待しているわけではありません。というか、ほとんどしていませんね。おそらく時間の無駄になるだけですから。ただ心ある皆さんにはちょっと考えてみていただければと思ってはいます・・・。

偶然と必然

山谷氏の掲示板で外科医さまの提起された刑法に関して、決定論か、非決定論かの議論が展開されており、なかなか面白い。

で、われわれ自然科学者からすると、実は、偶然と必然は区別ができないのだ。

例えば、コインを投げたとしよう:

 (※) 裏、表、表、裏、表、裏、裏、裏・・・

と続く時、皆さんはこれを見て、これは必然によって生み出されたか、偶然によるのか、お分かりになります?実は数学的には区別ができないのです!

今ここに非線形変換を

 (※※) a(n+1)=λa(n)(1-a(n))

と定義します。これはa(1)を与えれば、この規則(決定論)によって、a(2),a(3),a(4),...が一意に決まってしまいます。

一方で(※)の系列は実はコイン投げの結果です。さてここで(※※)のλをうまく取り、a(n)が0.5以上ならば裏、未満ならば表に対応させると、あーら不思議。(※)の系列を決定論的な上式(※※)によって作り出すことができるのです!

 つまり偶然を必然から作り出すことができるのです!

このような理論を「カオスの理論」と呼び、現代のひとつの大きなサイエンスの分野を構成しています。

私たちサイエンティストから見ると、神学は単なる言葉遊びにしか見えないが、果たして神学はこういった分野を取り扱うことができるのでしょうか?ニュートン以前と言ったらむくれてしまわれたようであるが、富井氏もぜひ謙虚さを身につけて、もう少し学んでほしいところです。

Commented by Luke 2005年12月06日(火)23:24

CGによる目で見るカオスについてはこちらをご覧下さい:
http://brain.cc.kogakuin.ac.jp/~kanamaru/Chaos/

私の上の非線形写像によるカオスは、「ロジスティック写像」のところでシミュレーションできます。

Commented by ICHIRO 2005年12月07日(水)16:39

へえ、これは面白い。
このCG、意味は分かりませんが、遊べました。
必然から偶然が作られ、無秩序から秩序が生まれる、、、
う〜ん、今晩、眠れなくなりそうです。

次の御言葉は・・・1ヨハネ2:26-29

私は、あなたがたを惑わそうとする人たちについて以上のことを書いて来ました。あなたがたのばあいは、キリストから受けた塗り油(原語)があなたがたのうちにとどまっています。

それで、だれからも教えを受ける必要がありません。彼の油がすべてのことについてあなたがたを教えるように、―その教えは真理であって偽りではありません。―また、その油があなたがたに教えたとおりに、あなたがたはキリストのうちにとどまるのです。

そこで、子どもたちよ。キリストのうちにとどまっていなさい。それは、キリストが現われるとき、私たちが信頼を持ち、その来臨のときに、御前で恥じ入るということのないためです。

もしあなたがたが、神は正しい方であると知っているなら、義を行なう者がみな神から生まれたこともわかるはずです。

今となっては無理ですが、再建主義を代表する富井氏はこの御言葉をどのようにとらえるのだろうか?これも彼の言うTheonomyの一部なんですが。このような御言葉は彼の書き物にはまず触れられていません。

1)信者にはキリストの塗り油がある。

2)この油はすべての真理を教えるから、誰からも教えを受ける必要はない。

3)この油の教えるとおりにキリストにとどまる。

4)善を行なう者は神から生まれた者である。

どこにモーセ律法が出てくるでしょうか。生まれの問題、すなわちいのちの問題でしょう?

今日、確かに、惑わす者が多く現れていることは間違いありません。

自律と他律?

山谷氏のBBSにすごい投稿がありますね。日本を「目には目を、歯に歯を」の同害復讐法を採用する警察国家にせよ、検察よ、ガンバレと・・・。この方はここでも「ヒューマニズム」のところでレスを下さった方ですが、再建主義の方だったのかな?

再建主義では、人間は全的堕落で、意志すらも堕落していますから、すべては神によらないとダメなわけです。要するに自律性が一切排除されます。これはハードコア・セッションでも富井氏が、「聖書はすべて神の命令であって、一字一句服従するのだ」と言っておられるとおりです。かくしてこれを社会に適用すればモーセ律法を一字一句遵守することになるわけ。よって「目には目を、歯には歯を」です。要するに人は枠にはめないと獣姦を犯す存在なのですね、彼らにとっては。自律性はヒューマニズムなのです。

下にも書きましたが、いのちの御霊の法則によって働くいのちは内的な性質として神の義を好み、神の聖に従うことを欲求するいのちなのです。人のいのちは四足で歩くことを好まず、二足歩行を好みます。同様にキリストのいのちに従えば、自律的かつ内的に神の基準を生きるのです。なぜなら御霊は神の義をlustするからです。このlustという単語は普通は「情欲」と訳されていますが、ガラテヤ5:17にある「霊の願うところ」(新共同訳)の「願う」の原語もlustです。ですから、御霊に導かれているならば律法の下にはいないのです(18節)。

まあ、彼らはこの律法をパリサイ学者の律法主義の律法だとしているわけですから、これ以上議論になりませんが。素朴な疑問として、憲法にも制定のままの純粋な憲法と、憲法学者の憲法があるのかなと・・・(笑)

いやあ、これほどに深刻な福音理解の齟齬があるとは思いませんでしたね。しかしこれをとおしてますます聖書の真理が明確になったことは事実です。聖書にはこうあります(向こうさんも使うかもしれませんが):

あなたがたの間で、だれが適格者かはっきりするためには、仲間争いも避けられないかもしれません。



補遺:刑罰の程度はモーセ律法とは別に考えたらいいと思いますけどね。

Commented by 外科医 2005年12月06日(火)20:05

 はじめに、私は再建主義ではありません.
 私は、昨今の連続する幼い命を奪う残酷な事件に心を痛めております.しかし、山谷師が、再建主義ウォッチング掲示板の968に於ける論述が、同害復讐を正しく理解しておられないと思いましたので、敢えて記しました.12族長の暴走は明らかに、同害復讐の原則を侵しています.本来なら、シェケムだけが罰せられるべきでした.『目には目を、歯には歯を、命には命を』とは、
同態復讐法(レクス・タリオニス)と呼ばれ、その根本思想は、人間の奥底にある無制限的報復(12族長の暴走のように)に対して制限を加え、同量の報復を以って満足すべきであることを想定したものです.
 江戸時代は「十両盗めば首が飛ぶ」と言われていました.また、茶母によれば、韓国ではかつて贋金作りは死罪だったそうです.こういうのは行き過ぎです.同害復讐ではなく、過剰報復です.
 さて、殺人事件の場合、加害者の弁護人は、生い立ちや環境を情状酌量として提示することが殆どであると思います.しかし、加害者と被害者に利害関係があり、例えば、「被害者が常習的に加害者を虐めていたので、加害者は止むに止まれず被害者の殺害に至った」というような事例は別として、被害者に何の落ち度も無い犯罪行為、特に殺人や強姦など、被害者に回復不可能は害を与えた場合は、被害者の数に係わり無く『死刑』を適応すべきであると考えます.また、麻薬や覚醒剤の密輸は、結果的に、末端利用者に回復不可能な障害を与えてしまいますので、シンガポールやタイなどのように、死刑を適応すべきだと考えます.
 いずれにしても、被害者に関係の無い情状酌量は認めるべきではありません.殺人事件や強姦事件、麻薬・覚醒剤の密輸事件の裁判は、事実認定を慎重に行う必要がありますが、事実認定が確定すれば、あとは、刑法の厳格な適応あるのみであると思います.刑法の改正(被害者が無過失の殺人・強姦、及び、麻薬・覚醒剤の密輸は死刑)を強く要望します.

Commented by Luke 2005年12月06日(火)21:39

あ、これはわざわざありがとうございます。確かに今回の事件などは、もし私が当事者であったら、同じ方法で処刑してやりたい、と感情的には思うでしょうね。

ですから刑法や刑罰の考え方は別にモーセ律法とは関わりなく論じればよいと思うわけです。これは自然法を成文化でいいのではないでしょうか?現在の少年法や加害者の人権は守られ、被害者は無視されている点などがおかしいと誰も感じているはずで、その自然な感覚に基づいて論じればよいわけです。その意味では外科医さまの見解はひとつのオプションとなり得るかと思います。

ところが再建主義ではこの自然な感覚(自然法)を否定して、あらゆる領域で司法律法の適用とするからおかしくなるわけですね。

Commented by Luke 2005年12月06日(火)23:39

ちなみに上で触れたカオス理論の一部に「自己組織化」の理論がありまして、モーセ律法はなくても自律的な秩序の構成が可能なのですね。神学では「自然は恩寵を駆逐する」とか言うのだそうですが、逆に秩序は自律的に構成されるのです。

念のため、わたしは進化論者ではありませんよ。かといって創造論でもないですね。私の信仰は「神が創造された」ピリオド

しかし無秩序から秩序は生まれるのです。クリスチャンの確率論による進化論批判は、残念ながらサイエンティストは相手にしません。なぜなら無限個存在するものの確率も0になり得るから。

これを「測度論」と言いますが、サイコロのレベルのパスカル的古典確率論で論じているのが今の教界です。ですからバカにされるだけなんですね。

みなさん、私たちはノンクリスチャンに対してもっとへりくだる必要があるのです!そう思いませんか?

普通であることの祝福

再建主義では「普通性」を極端に嫌い、その究極に獣姦があるという。これ自体ですでに彼らの病理性が分かるが、では聖書は何と言っているでしょうか。

1)人は神の形に造られた。しかし第一の人アダムはその実質である神のいのちの内住を得損なった。

2)神から断絶されて、いのちの木への道も封鎖された。かくして人は魂と体の生き方、つまり肉となった。

3)ローマ2:14-15にあるように、たとえ律法を持たない人あるいは生まれながらの人であっても、良心が善と悪をわきませさせる。これが私の言う「生まれながらの価値観」であり、自然法の根拠です。(再建主義はこれを一切認めない。)

4)人は善を行ないたいという意志はあるが、力がない。人は思いの中にある神の律法を行ないたいと言う法則と、体の中にある罪と死の法則のはざまで、神の律法を行なうことができない。つまりアダムのいのちには力がない。

5)キリストは最後のアダムとして旧創造を終わらせ、第二の人として復活の初穂となり、同時にいのちを与える霊として、御霊によって私たちに内住され、わたしたちのいのちとなられた。そのいのちはいのちの御霊の法則に従って働き、私たちを罪と死の法則から解放した。

6)御霊に従えば、このいのちの御霊の法則が自動的に働き、たとえ知識として律法を知らなくとも、律法の要求は私たちの内で満たされる。

7)ロマ書の語る私たちの生まれながらに持つ普通の感覚はいのちの実質を得るときに、実際に行なうことが可能とされる。つまり私たちはますます普通な人になるわけ。

8)カルトや異端はこの普通さをその教義や聖書解釈によって壊していく。もちろん私たちは自己中心で生きてきたから、例えば「得るためには捧げよ」と言う御言葉には当初は肉の抵抗を覚える。しかし自己をおろして従う(=自分の十字架を取る)ならば、むしろそれが解放であり、自由であり、喜びであることを味わう。

9)この自己を処理することは私たちの意志により、そのとき御霊は内なる業をして下さる。つまり「得るためには得よ」と言う価値観は、実は生まれながらのものではなく、世にある間に刷り込まれたもの、つまり普通ではなかったわけ。これを経験させてくださるのがキリストのいのちである。

10)かくして神の形である人の中に神のいのちの実体が満ちる時、そのいのちに従った行動やあり方を実現する。このいのちの性質に従った統治が行なわれ、御国は成長拡大する。これはモーセ律法よりはるかに上位互換のいのちの御霊の法則によるわけ。

注:ここで富井さんが言う「超民族化・普遍化されたモーセ律法」とは「いのちの御霊の法則」ではないかと問いましたら、明確に「違う!」とのことでした。これは致命的ですね。

11)かくして十字架と共に働く御霊の造り変えが私たちの内で進めば進むほど、私たちは普通になっていくのです。しかしそこにキリストの香りと何かが表現され、世の人とは異なるのです。普通ですが、何かが違うのです!

12)キリストの形が形づくられる(メタモルフォーシス)ならば、キリストは私たちを迎えに来て下さる。私たちの希望は神学のドグマや油注ぎの器ではなく、土の器の中の宝物、すなわち内にいますキリストである。このキリストを知るならば、失望することはないのです!