2005年12月07日

すべては実で判定せよ

このところ再建主義の富井氏のBBSとかつて彼と激論を交わされた山谷氏のBBSを行ったり来たりしていたが、かなり面白い、そして重要な論点を拾えたと思う。

再建主義の自己矛盾的分裂病的性質はすでに明らかであるが、彼らが触れている論点はとても大切なもの。そしてニッポンキリスト教がほとんど抜けている部分である。

実は私自身も再建主義のこれほどに深刻な病理は知らなかった。人をどう理解するか、神は人に対して何をしてくださったか、また下さるのか−ここがすべての出発点。これが狂うと、聖書を用いながら、人を忘れた「神学」はある種の狂気へと走るのだ。

すでにゲイリー・ノースは「外れ預言」の前科者であるわけだが、果たして他の再建主義者たちはどのような実を刈り取り、どのような人生を送るのだろうか。これが今の私の最大の興味の中心である。

Commented by 心配性 2005年12月08日(木)01:16

「このところ再建主義の富井氏のBBSとかつて彼と激論を交わされた山谷氏のBBSを行ったり来たりしていたが、かなり面白い、そして重要な論点を拾えたと思う」

私も、無責任ながら、面白く読ませていただいています。LUKEさんと同じように、私も再建主義には、一理あるとおもいながら(富井さんには引きながらも)、ウオッチはしていました。
ただ、行ったり来たりしていますと、山谷さんの発言は落ち着いて読めるのですが、最近のLUKEさんは、富井さんに引き倒されそうになっているのではないかと、内心ちょっとはらはらしています。LUKEさんと富井さんが何か似たもの同士のように思われるのです。

そろそろ、再建主義(というか富井さん)の病理も見えてきたことですし、LUKEさんもあまり萌えすぎないようになさった方がよいのではと、ゆったりとしたいのちの恵みへと傾いていただきたいと思います。

Commented by Luke 2005年12月08日(木)09:19

はい、ありがとうございます。その時期かもしれませんね。おっしゃるとおり、私が彼のことが気にかかるのは、「私」を彼の中に見るからです。ある種の親近感を覚えますし、同時に反発を覚えるアンビバレンツがあります。当初ハードコアで「対話」をはじめた時点では、共有できる期待も持っていたのです。もしかすると向こうもそうだったかも知れません。その残念さがくすぶっているのです。

正直に申しますと、これは山谷氏にも申し上げたのですが、何とか彼を再建主義からこちらサイドに戻して上げたいという気持ちがある(あった)のです。しかし現段階ではますます彼の確信を強めてしまうようです。距離のとり方は意識しているつもりです。

再建主義はある種の知的性向をもつ人々にはかなり魅力があります。生まれながらの正義感にジャストフィットし、一種の爽快感があります。現状の教会と世のあり方に不完全燃焼をして、もだえている人々には大きな魅力です。多分ニッポンでは広まることはないでしょうが、一部の人々に支持され続けるでしょうね。

人間が関わる領域

山谷氏のBBSで刑法を論じるには人間理解が不可欠とのべておられます。これはとても大切なポイントです。現代科学では、霊の次元はまったく考慮されていません。つまり魂(=精神)と体の関わりまでです(精神身体医学)。

ですから今のサイエンスは霊的要素については形而上学の問題となり、その研究対象としません。ただし97年にWHOが「霊的健康」と言う概念を提示しましたから、今後は分かりません。霊まで考慮した医学が、私の提唱する「霊精神身体医学」です。

クリスチャンは霊的領域と接触を始めた存在ですから、世のサイエンティストの語る形而上学は、形而上学ではなく、十分に実体験できる領域なのです。

そして大切なのは、神は物理の次元でも法則によって、魂の次元でも法則によって(ノンクリスチャンはここまで)、そして霊の次元でも法則によって人と関わりを持たれ、人を治めます。クリスチャンにとってはこれがいのちの御霊の法則であり、モーセ律法にはなかったものです。だからモーセ律法は欠けがあり(ヘブル書)、新たにメルキゼデク系律法−いのちの御霊の法則−が導入される必要があったのです。これは十字架によります。

つまり旧約と新約では致命的な霊的相転移が起きているのです。今私たちクリスチャンを支配するのは、モーセ律法ではなく、いのちの御霊の法則であり、それは自由の律法、いのちを与えて生かす法則、キリストを私たちの内に実体化する法則なのです。あなたはどのような法則に委ねて生きていますか?

御霊に従うならばあなた方は律法の下にはいない。

人間性のあり方

「ヒューマニズムについて」でも少し触れましたが、再建主義の人間性否定は予想以上のものがありますね。富井氏は、ヒューマニズム(=モーセ律法を適用しないこと)に犯されて再建主義に反対するクリスチャンは・・・悪魔の支配下にいる、と主張しています。

やれやれ、スゴイことです。まあ、この手の人に対してはあまりエネルギーを削がれたくはないのですが、論点としてはとても大切なのです。聖書は人間性についてどのように語り、主は私たちをどのように見て下さっているのでしょう:

(1)神は人になられた。イエスは人であるままで天に上られた。ステパノは人の子を見た。そしてそのままの姿で戻って来られる。つまりイエスはいぜんとして人である。

(2)イエスは人としてサタンに勝利し、世に勝利された。アダムが失った傷のない、純粋な人間性は、人の子イエスの死と復活にあって、回復され、さらに栄光化された。その人なるイエスの内に生きた御霊は、私たちの内にイエスを証し、復活のキリストのいのちを実体化される。

(3)古いアダムにある私は肉と共に終わった。霊が再生された私たちは、キリストが回復し栄光化して下さった人間性をも得ている。それはイエスの霊と魂の中で進展してたいのちの再現、あるいは追体験である。

(4)御霊によって私たちのうちにキリストの形が造られるとは、この御霊が届けてくださるイエスの人間性が私たちの霊から魂へと再現することである(メタモルフォーシス)。

(5)小羊はいずれ私たちを花嫁として迎える。それはイエスが分けて下さったいのちを共有する存在であり、新エルサレムでは、神と人が共に住まう。

(6)主は現在もまだ贖われていない私たちの体が弱いことを知っていてくださる。この弱い人間性をイエスは経験され、大祭司として私たちの弱さを思いやり、私たちがチリにすぎないことを心に留めてくださる。

(7)私たちの責任は、アダムにある私の有様を守ることではなく(これが「ありのまま」的ヒューマニズム)、死と復活を経て、キリストのいのちを内に生かすこと。

(8)かくして人間性は神にとってきわめて尊いものである。そもそも敬虔の奥義とは、神が肉において現れることであり、キリストはそれを100%成就された。私たちもその幾分かに与るものである。神は人の中に住まい、人を通して栄光化される方である。

(9)人間性は神にとってとても大切な要素であり、人間性を慈しんでくださる方である。ただし、十字架の適用が必要。なぜなら御霊は十字架によって働くから。それは私にとっては痛みを覚えることもあるが、しかしその時こそ神は甘い。その十字架を経るならば、古いものを脱ぎ捨て、栄光のイエスの人間性を味わうことができる。再度繰り返します:

 内なるキリスト−栄光の望み!

世界の行方

また山谷氏のBBSに興味深い記事がありますね。再建主義のゲイリー・ノースは、再建主義社会が実現する条件は、一度現在の世がカタストロフ(破局)を経る必要があると言っているようです。これに対して財前二郎氏が質問しています:

再建主義はポスト・ミレ、つまり現在はすでに千年期・新天新地であり、これからの世界はあまねくモーセ律法を適用する神の統治による社会となり、この地上に神の国が成就して後、イエスが再臨されると信じます。

一方ディスペンセイションではプレ・ミレ、つまりこれからの世界はますます悪くなり、滅びがおとずれ、その悲惨の極みに主イエスが再臨され、サタンを千年間穴に閉じ込めて地上に王国を設立すると信じます。

再建主義はこの見方を悲観主義であると非難します。が、何とそのメインの論客自身が自分達の主義社会の確立のためには、一度今の世が滅びる必要があると語っているとは!?驚きです。

では、果たして聖書の預言はどちらなのでしょうか。素直に読めばプレ・ミレと読めるのですね、私的には。私の個人的立場はプレ・ミレですが、あえてこれをケンケンガクガクと主張するつもりはありません。その預言を成就されるのは神だからです。

私があえて主張するのは、今この時、いのちを阻害すること、いのちを抑圧する教えに対しては、かなり反応します。私たちは将来に生きる者ではなく、また過去に生きる者でもなく、今に生きる者だからです。この時にいのちを育て、生きることが私たちに課せられている責任だからです。再建主義はあきらかにこのいのちを阻害します。

Commented by 財前二郎 2005年12月07日(水)22:07

はじめまして。少々ふざけたHNですみません。外科医さんがおられましたので、つい。
再建主義についてはチラホラと知っておりましたし、山谷さまとの大論争も見てはおりましたが、こちらのハードコアの議論でその本質が見えました。
それまでは終末論が聖書預言解釈としてプレミレかポストミレかの違い程度にしか思っていなかったのです。Lukeさんとのディスカッションで再建主義の本質がどこにあるのかはっきりと分かったことは感謝でした。
こういった思想というか主義が現われて来て、再建主義を信じない者は悪魔に組する者であり、呪われよ、とする時代に入ってきているのですね。
改めて終わりは近いのかなと感じ入っております。

Commented by Luke 2005年12月07日(水)22:52

財前さんの質問に対して山谷氏が回答を与えていますね(→http://bbs.infoseek.co.jp/Board01?user=makotoyamaya-lj)。再建主義の重鎮ゲイリー・ノースの世界滅亡の「外れ預言」です。

しかし面白いですね、富井氏は世界がこれからモーセ律法による「神の国」化され、輝かしい栄光が待っていると力説しているのに、ゲイリー・ノースは世界の滅亡を待っていると・・・。

何と言うか再建主義の自己矛盾的性格が明確に現れている感じです。やや解離性人格障害か分裂病質的人格障害かと言う印象です。いずれにしろ少なからず病的ですね。

イエスの声

わたしの羊はわたしの声を聞き分けます。またわたしは彼らを知っています。そして彼らはわたしについて来ます。

その声は威厳があり、しかし静かで安らかさを覚え、慕わしく、麗しい。これからの教界は騒がしい、派手な、人目を惹く声が多く聞かれるようになるだろう。その喧騒と混乱の中で、静まって、この方の声を聞き分けられる人は幸いである。

福音は誰に

委ねられているのでしょうか?メンツとプライドで凝り固まった野心家のボクシでも、一見知性的であるが実は知性と情緒が乖離した病的なシンガクシャでもありません。

普通の感性を大事に、普通の生活を淡々と生きている普通のオジサン・オバサンに委ねられているのです。福音とは生きることを共有すること、泣く者と共に泣き、笑う者と共に笑うことから始まります。聖とは人になること。最も人であった方はイエス。

それはいのちの種である御言葉を、時期が良くても悪くても、倦むことなく、淡々とまき続けること。それを発芽させるのはいのちのパワー、それを育てるのは神ご自身。単純に信じましょう。

ただし、ボクシの眼鏡にかなった従順なニッポンキリスト教徒を作るのではありません。ややこしい狂気の入った神学を刷り込むのでもありません。それはビョウキを生むだけ。健やかさにあってイエスに従う者を生み出すのです。サタンはそのような健やかさとイエスに従う者を嫉妬する。

まず私たち自身が原点に戻るのです。主と出会った日の解放感と甘い愛で涙した時に・・・。その感動が人の心を動かします。原点とは、x軸とy軸の交点、つまり十字架です。