2005年12月15日

「生」の共有−鈴木大拙と西田幾多郎

彼らは生涯禅を通じての盟友であり続けた。鈴木禅学と西田哲学の創始者であることは言うまでもない。彼らの哲学は、一言で言えば(禅は「不立文字(ふりゅうもんじ)」であることを知りつつも)、「生きること」そのものを定式化したものであり、大拙は「即非の論理」(A∧¬A、つまりAがAでありかつAでない)、西田は「多即一の絶対矛盾的自己同一」と表現した。要するに私たちの限りあるオツムで静的にこねくり回すと矛盾に見えることが、動的に生きることにおいて、その生的実存において矛盾なく成立すると言うこと。

これは例えば、「神は父・子・聖霊の三位格をお持ちで、かつひとり」と言う、人間の知性には収まり切らない実存が、いのちなる神においては何らの矛盾もなく成立することと同じ。またイエスは神にして人であるわけだが、いのちなるイエスにあっては神性と人性の結合は矛盾なく成立している。もちろんイエスは自分の意志をお持ちであったが、彼の意志は常に父のそれと矛盾なく同時同在し得た。そのクライシスはゲッセマネで起きたが、なおその危機をイエスは十字架によって乗り越えた。

これらを神学では、私たちの知性に納まるように「神は3つのペルソナをお持ちでひとつのウシアを持たれる」とか、「神と人のヒュポスタティク・ユニオン」とか表現するわけだが、これですでにいのちから離れている。神は定式化される方ではなく、いのちそのもの。いのちにあっては、もっと言えば、実存的生そのものにあっては、三が一であって、何ら矛盾はないのだ。

大拙と西田はダイナミックな「生」、「生きること」そのものを共有したが(もちろんアダムにあるいのちではあるが)、果たして今のニッポンキリスト教のクリスチャンたちは、そのようないのちの共有を経験的に了知し得ているであろうか。それとも立体的で動的ないのちの次元から落ちて、いのちを喪失した平板な静的な議論によって、無残な荒れ果てた状況が展開しているであろうか。

娘とデート

長女が公務員試験対策の本を探すとのことで、手伝って欲しいと請われ、横浜のモールの有燐堂で待ち合わせて、しばしの探索。で、その後喫茶店でコーヒーを飲みつつ、1時間ほどを過ごす。周りのおばちゃんたちがチラチラと私たちに視線を送ってくるのに気づいたが、アブナイ関係じゃあないんだよ^^

彼女が生まれた夜のことははっきりと覚えているが、あの泣き声がいまだに耳にこだまする。イロイロあったが、節目節目で主の御手を感じてきた。それが今や就職に向けてアレコレ迷っているわけ。主が道を用意して下さっていることを話し、自分の責任を忠実に果たせばいいんだよと、ちょっと金八先生的な話をしている自分に気づいてしまった。

こうして娘とデートできる当たり前の生活にあって、ますます主の配剤と恵みに感謝するのみ。家の駐車場に車を止めて、ふと空を見上げると、放射冷却がきついだけあって、満月がやけにキレイだった。

Commented by はるえ 2005年12月15日(木)19:57

こんにちは!
素敵ですねー、娘さんと過ごすひと時。
日々のアレコレを本当に楽しめたら、もうどこにいても
イエス様が共におられることを感じられますし、すべては恵みだと思えてきますよね。
結局はその部分(まさに、「そうこうしている」部分」を通り越して、いきなり神学がどーのこーのと言い出すからおかしくなるのかもしれませんね。
でもそれは決して見過ごしていい部分ではないはず。
何せ私たちはふつーにこの世に生きているのですから。
誰と、何を信じて、どう生きていくことでこの世での命を全うしていくか、それを聖書は教えてくれますが、それでもやっぱり「そうこうして」生きていくのがわれわれの姿ですからねー。

Commented by Luke 2005年12月15日(木)21:09

ええ、ある種のシアワセを味わっております^^生身の「生」を忘れた神学などは何の役にも立ちません。ナンセンスの極みです。なぜ日本にクリスチャンが少ないか、また根付かないか、理由はもう明らかでしょう。

(本音:ボクシの「カミっさまわ〜」の金太郎飴的説教を聴かされるより、瀬戸内寂聴や細木かず子の方がよほど琴線・機微に触れますから、ザンネン←もう古いか・・・^^)

Commented by はるえ 2005年12月16日(金)09:16

そうそう、「本音」出しちゃってもいいですよね。それも大切なことだと思います。なんかクリスチャンて本音がイマイチ見えてこない人、多いですけど・・・あれだけ病んでる人が多いということは、何かその本音とか人間として自然な部分を抑圧しちゃってるんでしょうかねー。

ナンセンスの極み(笑)。おもしろすぎます。

閉鎖性の病理

カルバンとアルミニウス(決定論と偶然論)の議論が現代科学ではまったく意味のないことをすでに述べましたが(「いや、神学的には意味があるのだ」と言われれば、「ああ、そうですか、勝手にどうぞ」となります。ますます神学は・・・となるだけですね)、文句の言いついでに、進化論に対する批判について、私はクリスチャンですが、批判してみましょうか。

よくご丁寧にエントロピーを持ち出して無秩序から秩序が生じないことを「論証」しますが、われわれから見ると、足し算引き算しか知らない小学生が、微分積分に異議を唱えるようなものです。無秩序から秩序をエントロピーの法則に矛盾しないように作ることができるのです!これを「自己組織化」あるいは「散逸構造定理」と言います。

また確率論を持ち出して、DNAができる確率は、バラバラの部品を空に投げたらジャンボができる位の確率だとして、自然にはできないことを「論証」しますが、これもナンセンス。

自然数の個数は無限個ですね。では自然数の比で表される有理数の個数は、もちろん無限個です。ではどちらがたくさんありますか?もちろん分数・・・ではありません。自然数と有理数は同じ個数です!しかも任意の二個の有理数の間には無限に有理数があります(これを稠密性と言います)。

さて√2などの実数は有理数ではありません(整数比では表せない)。で、無理数は無限個ありますが、これは自然数や有理数の無限個よりもさらに大きな無限個です(正確には「濃度」と言います)。この有理数と無理数をあわせて実数と言いますが、かくして「自然数の個数/実数の個数=0」なのです(正確には測度論を必要とする)!言っていることが御分かりでしょうか。確率をパスカルの古典論でいじくりまわして「確率が限りなく0に近いから起こり得ない」とする神学者の「論証」はナンセンスなのです!

このように私たちサイエンティストから見ると、こう言った幼稚な進化論批判などはますます真摯なサイエンティストをのけぞらせ神から遠ざけるだけでしょう。独り善がりのオメデタ・キリスト教徒となるわけです。これは神の創造を信じる私ですら、このニッポンキリスト教界と触れているとますます強く感じることです。閉鎖社会の中でメンツを張り合って空回りしているだけの「井の中の蛙」なんですね。

「リバイバル音頭」で酔ったり、「何とか神学」を狂信する前に、もっと真摯かつ謙虚に学ぶべきでしょう。

聖書の読み方

赤子さんがハードコアでとても大切な問題提起をして下さっています。私が神学について苦言を呈する理由もそこで述べておきましたが、神学は単なる「メタ言語」に過ぎないのに、その対象である御言葉に置き換わる危険性を指摘しておきました。御言葉から離れて「メタ言語」内での空理空論に落ちる危険があるのです。(これを「ピグマリオン症候群」と言います)

メタ言語の病理については→科学と信仰

はっきり言って、私はカルバンとアルミニウスなどまったく知りませんでした。が、一応クリスチャンと思っています。御言葉を読む時に、別に神学を知らずとも、御言葉を理解することができます。

例えば、神学で「義認」と言いますが、「義認とは・・・である」などど神学的定言を知らずとも、私は次のようにアプローチします:

ローマ4:6以降で「行いによらず神から義と認められた人の幸いを、次のようにたたえています。『不法が赦され、罪を覆い隠された人々は幸いである。主から罪があるとみなされない人は、幸いである』」

ここを読めば、「罪を赦され、覆われる」ことがひとつの段階であり、次に「罪があるとみなされない」ことが続きます。ですから私は、神学書など一冊も読んでいませんが、「義とされることは罪があるとみなされないこと」と理解するのです(※)。これが何神学かは知りません。

※Darby訳では欄外注に"not account of him as having any"の意味であるとあります。さらに意味が明確になりますし、確信が沸いてきます。つまり「たったひとつの罪も持っていないとみなされる」のです!

たとえれば、交通違反をして切符を切られますと、罰金を払います。これで不法が赦されます。払わないと逮捕されます。しかし点数は残ります。しかし神は点数も残らないと見てくださるのです。つまり私の神の前の点数は0点です。これが義とされることであると私は理解するわけです。

かくして聖書があれば、神学書がなくても、義とされることを理解することができるわけです。この理解が神学的に正しいかどうか、私は知りませんし、そんなことはどうでもよろしい。私と主との関係はこれによって確信をもち、ますますイエスを慕わしく思え、イエスとの交わりに大胆に入ることができます。

これが神学書など一冊も読んでいない、一サイエンティストとしての私の方法論なのです。

(本音:そもそも主流派とか福音派とか聖霊派なんていうのも知りませんでしたが、知らなかったほうが幸いですね。)