2006年11月29日

粘着の精神病理

人はなぜ人に粘着するのか。粘着とは拘りである。拘りとは力動精神病理的には、リピドーのカセクトが解消されていない問題。つまりそこにはエネルギーが蓄積され、緊張感が持続しており、これが不快感として意識される。そしてしばしばそれを本人は認めたくない。これが自己欺瞞。そこを人から指摘されると、これが粘着を生む。

つまり粘着する部分とは、すでに自分で変だ、と前意識的には分かっているのに、その事実に直面することを避けている領域。自分を自分で裁いているのだ。だからこちらが問うてもいないのに、自分から弁明を始める。ウソを隠している人が「自分はウソをついてない」と言い出すのと同じ。すなわち人の意見や主張に対して論じる形を取るものの、実は自分の内の真実の声に対して戦いをいどんでおり、いきおいその葛藤は自作自演的となる。なぜなら自分の心の声と戦っているだけだから。サルが鏡に映った自分に戦いを挑むと同じ。

かくして以前にも書いたが、いわゆる議論においては相手を論駁する必要はない。相手のその葛藤・病理性をあぶり出せばよいわけ。

しばしば「クリスチャン」と称する人々は、聖書の御言葉に躓いており、御言葉をそのまま受け入れることができない場合、自分を否むのではなく、自分を助けるために、神学や特定の解釈の形を取って、その葛藤をカモフラージュする。よって彼らの批判は、自分の心の声に対する批判であり、御言葉に対する批判となるので、こちらとは無関係となる。かくして彼らは神の言葉と延々と論じ争う。これが閉鎖的倒錯空間「2ちゃんねる」あたりで見られる精神エネルギーの大いなる空転の病理である。いずれにしろ、ニッポンキリスト教界はついの住処にあらざるなり。

なお、ストーカーについてはもう少し別の要素が入るので、これは後ほど(あの学生大丈夫かな・・・)。

水谷はかく訴える

アップロードファイル 27KB「夜回り先生」こと水谷修氏なる人物がいる。子供たちの訴えを全身で受け止めるが、説教じみた事は一切言わない。常に一人称で、「水谷は・・・」と訴えかける。やや「矢沢」が入っているが、中々渋くてエエことを言っていた。

曰く、「問題児の根本には自己評価の低さがある」(まったくそのとおり)。「シンナー、ドラッグ、売春、リストカット、何でもやりたけりゃやってみろ。しかしその結果は自分で刈り取れ!甘えんじゃねえ」。「教育基本法改正とか言っているが、アレは生徒を信じられないから法とするんだろ。信じることができなきゃ、何やっても無意味だ。結局は何を信じるかだよ」。「今日まじめさが馬鹿にされ、おちゃらけているが、人間はまじめさを失ったらおしまい。最後はまじめに生きた者が勝つ」・・・。

実は、私はこういった「臭み」を持つ人物はどっちかと言うと嫌いなわけ。「うっとおしい」と感じる方なのだ。が、この人中々イイ。第一に一人称で語っている。昨今の匿名の陰に隠れる屈折した自己主張とは大違い。第二に自己責任を求めている。人は撒いたタネの実を刈り取るもの。テレビコメンテータの某氏も言っていた、「人から相手にされないと自己憐憫する前に、まず人を愛することを学びなさい」と。これは法則。このことをキチンと教えないから自殺などに逃げるのだ。

昨今の世も教界も倒錯した時代にあって、中々貴重な人物である。ただし、ご本人の精神と体の消耗がやや心配であるが・・・(ご自分でも体調不良とおっしゃっているが)。病んだ人々のネガティヴなエネルギーを受け止めるのは、相当に汚され傷つけられるし、芯から消耗させられるものだから。

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学生が来て、「先生、オレ、告られちゃったんだけど、どうしたらいいっすか?」。小生「いいジャン、愛を告白されたんだろ^^」。「ええ、・・・でも・・・、男からなんすけど・・・。まとわりつかれて・・・」。小生「ええっ、・・・でもさ、君にもその気ないの?類友かも・・・(笑)」。「ぜ、ぜ、ぜったい、ソレはありませんっ!」。小生「じゃあ、逃げるしかないよな。でも下手するとストーカー化するから、気をつけてな」。・・・今日(ルビ:きょうび)、この手の相談がやや多いかな・・・。私自身「2ちゃんねる」あたりでやや「気」のある人たちに粘着されているわけで、誰かに相談したいんだけど、と言いたくもなるのだが・・・涙。

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再建主義の富井さん(11月28日)もイイことをおっしゃっている。彼からは「ヒューマニストのリベラル異端」と宣告されているのだが、私の言いたいことを的確に言って下さるのです。

温泉までT-29Days(宿が決まりました^^)

Commented by Luke 2006年11月29日(水)15:13

突然、私の部屋の電話が鳴った。教務が回したものだが、5年前の卒業生からだ。何でも会社が倒産して、今後の身の振り方を・・・と言う相談。まさに大学には世相が反映する。「先生の所に行っていいですか」と問うので、「何時でもいいから来いよ」と・・・。ある意味で教師冥利に尽きる瞬間でもある。